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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第32話 火を消さないための嘘

 嘘にも、いくつか種類がある。


 人を騙すための嘘。

 自分を守るための嘘。

 その場をやり過ごすための嘘。

 そして、何か大事なものを壊させないために、あえて輪郭をぼかす嘘。


 朝倉恒一は、料理人として生きてきた中で、できるだけ後ろめたい嘘とは距離を取りたいと思っていた。


 皿は誤魔化したくない。

 味を偽りたくない。

 客に出すものは、自分の手で納得できるものだけでありたかった。


 けれど今の玻璃亭は、味以外のところで、どうしても“整えた言葉”を必要としていた。


 営業前の厨房で、恒一は黒板の前に立っていた。


 本日のおすすめ

 角兎の赤ワイン煮込み

 帰りの白

 季節の小皿あり


 文字自体は、もうだいぶ馴染んでいる。

 問題はその先だった。


 客に聞かれた時、どこまで話すか。

 新規客に、何をどう見せるか。

 再開発側かもしれない人間、あるいは境界を探っているかもしれない誰かが来た時、店としてどんな輪郭で立つか。


「今日はそこ?」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、仕込み台の上でパン用のバターを切り分けながら、こちらを見ている。

 最近の彼女は、森のことになると即座に線を引くが、店のことになると一歩引いて恒一を見ることが多い。料理人としての主導権は恒一にあると、ちゃんとわかっているからだろう。


「そこ」

 恒一が答える。

「嘘の種類を考えてた」

「朝から重いね」

「重い」

「どんな」

「客に対して、どこまでを“店の言葉”として決めるか」

「……ああ」

 澪が小さく頷く。

「昨日の見張りの件もあるし」

「うん」

「もう曖昧な返しだけじゃ足りない?」

「たぶん」


 ここへ来る客のすべてが怪しいわけではない。

 むしろ、ほとんどは普通の客だ。

 だが普通の客に見えるからといって、全員がただ料理を食べたいだけとも限らない。


 “地下の店”に興味を持つ者。

 珍しすぎる食材の出所を探る者。

 店の下へ続く動線を見ている者。


 相手が何者かを完全に見抜くことはできない。

 だからこそ、店側の返しに“ぶれない輪郭”が必要だった。


「……じゃあ」

 澪が言う。

「うん」

「今日はその会議?」

「会議ってほどじゃないけど」

「どうせ来るよ」

「誰が」

「紗雪さん」

「……」

「顔」

「そこへ戻るな」

「だってわかるし」

「便利な言葉だな」

「便利だから」


 その時だった。


 階段の上から、少しだけ速く、それでいて今ではかなり迷いのない足音が聞こえた。


「ほら」

 澪が言う。

「はいはい」


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 東條院紗雪だった。


 今日は淡い生成り色のワンピースに、細い紺のリボンだけ。

 飾りは少ない。だが、その少なさが逆に彼女の育ちの良さを引き立てていた。

 この店へ来る時だけ、彼女は少しずつ“気負って整える”ことをやめ始めている。けれど、その自然さもまた綺麗なのだと、恒一は最近気づき始めていた。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は店内を見てから、小さく頷いた。

「本日は、まだお顔がそこまで悪くありませんわね」

「そこまで、って」

「昨日より、ですわ」

「少し改善」

 澪が横から言う。

「火乃坂さんの採点方式、厳しすぎませんこと?」

「最近はこれくらいでちょうどいい」

「ひどいですわ」

「でも事実」

「便利な言葉ですわね」

「便利なので」


 ここまで来ると、もはや様式美に近かった。


 紗雪は席へ着く前に、黒板を見上げた。

「本日は、何か考えていらっしゃいますの?」

「またわかるんですか」

「最近は」

 紗雪は少しだけ得意げに言う。

「そのくらいなら」

「かなり見られてるな」

「客ですもの」

「便利な」

 三人同時に言いかけて、少しだけ空気がほどけた。


 紗雪は席へ着く。

「帰りの白を」

「はい」

「それと」

 彼女は少し声を落とした。

「もしも本日、その“考えていらっしゃること”が、お店のことであるなら」

「うん」

「わたくしも混ぜなさい」

「……」


 澪が先に目を細めた。

 恒一も、少しだけ驚いた。


 前にも、この人は“外されませんの”に近いことを言った。

 けれど今日はもう少し踏み込んでいる。

 店の外から見守るだけではなく、店の“決め方”そのものへ入りたいと言っているのだ。


「何を考えてるか、先に聞いたほうがよくない?」

 澪が言う。

「ええ。それはその通りですわ」

 紗雪はすぐに頷いた。

「ですが」

「ですが?」

「本日は、何やら“言葉の顔”を整えようとしていらっしゃるお顔に見えますもの」

「……」

「合ってる」

 恒一が苦笑する。

「やっぱり」

 紗雪はわずかに胸を張った。

「店の説明?」

「うん」

「誰に何をどう言うか」

「うん」

「でしたら、なおさらわたくしも必要ですわ」


 その言い方に、妙な説得力があった。


 たしかに、店がどう“見えるか”という問題に関しては、紗雪の感覚は鋭い。

 上流の家で育ち、人にどう見られるか、場がどう整っているか、そういうものをこちらよりずっと自然に読んでいる。


 帰りの白を出したあと、恒一はカウンター越しに言った。

「営業前に少しだけ」

「ええ」

 紗雪は静かに頷く。

「そのようになさい」


 開店までまだ少し時間がある。


 三人は、客席と厨房の間――カウンター越しに向かい合う、今の玻璃亭らしい位置関係で話し始めた。


「まず」

 恒一が言う。

「今まで、聞かれた時の返しが少し曖昧だった」

「うん」

 澪が頷く。

「独自の仕入れ、とか」

「昔からの呼び方、とか」

「嘘ではないけど」

「弱い」

「……」

「そうですわね」

 紗雪が静かに言う。

「曖昧すぎる言葉は、“隠しております”と自白しているのと同じですもの」

「そこなんだよな」

 恒一が言う。

「だから、店としての説明を決めたい」

「完全な嘘?」

 澪が訊く。

「いや」

 恒一は首を振る。

「できれば、嘘ではない」

「でも全部本当でもない」

「そう」

「それなら」

 紗雪がカップを置いた。

「“演出”ですわ」


 演出。


 その言葉に、二人とも少しだけ黙る。


「嘘、ではありませんの」

 紗雪は続ける。

「お店というものは、どこも多かれ少なかれ、自分の見え方を整えておりますでしょう?」

「まあ」

 恒一が頷く。

「たとえば」

 紗雪は指を折る。

「祖父の代からの非公開仕入れ」

「……」

「珍しい山の食材を使った限定皿」

「……」

「日によってご用意できるものが変わる」

「……」

「これらは全部、完全な嘘ではございませんわ」

「たしかに」

 澪が言う。

「珍しい“山”ではあるし」

「限定も本当だし」

 恒一も続ける。

「非公開仕入れも、まあ」

「そうでしょう?」

 紗雪は少しだけ得意げに顎を上げた。

「言葉を整えるだけで、印象はかなり変わりますの」


 それは本当にそうだった。


 境界の森。

 異世界の食材。

 そんなものをそのまま出せるわけがない。

 けれど、“祖父の代から続く非公開ルートで入る、極めて珍しい限定食材”という輪郭なら、少なくとも地上の店としては成立する。


「でもさ」

 澪が言う。

「聞いてくる相手が、“答えそのもの”より“答え方”を見てる場合もある」

「ええ」

 紗雪は即座に頷いた。

「ですから、答えは短いほうがよろしいですわ」

「短い」

「余計に語らない」

「……」

「“その日の小皿です”」

「“祖父の代からの限定仕入れです”」

「“数が少ないため、日によって違います”」

「……」

「その程度で充分ですの」

「たしかに」

 恒一が言う。

「長く説明するほど不自然か」

「ええ。事情を知らぬ普通のお客様なら、それで納得なさいます」

「逆に」

 澪が言う。

「それで納得しない相手は?」

「普通の客ではありませんわ」

 紗雪はきっぱり言った。

「その場合は、それ以上話しても無意味ですの」


 その線引きは、今の玻璃亭に必要な考え方だった。


 普通の客にちゃんと届く説明。

 そうでない相手には、それ以上は渡さない線。

 どちらも店として必要だ。


「……じゃあ決めるか」

 恒一が言う。

「うん」

 澪が頷く。

「ええ」

 紗雪も。


 こうして、小さな“作戦会議”が始まった。


 帰りの白については、

 祖父の代から続く白い限定皿を、今の店で育て直しているもの

 とする。


 角兎の煮込みについては、

 山の限定食材を使った赤ワイン煮込み

 で押す。


 季節の小皿については、

 その日少量だけ入る非公開食材を使った一皿

 という言い方にする。


 風縫いは、

 ご用意できる日だけの“香りの小皿”

 として黒板には出さず、聞かれた時だけ。


 どれも完全な嘘ではない。

 だが、全部を真っ直ぐに言っているわけでもない。


「……これ、ちょっと悪いことしてる気分になるな」

 恒一が言うと、

「今さら」

 澪が即答した。

「お前、そこは容赦ないな」

「だって、境界の森を通じて営業してる時点で、もう普通じゃない」

「……それは、まあ」

「でも」

 澪は少しだけ声を和らげた。

「料理を嘘にしてるわけじゃない」

「……」

「そこは違う」

「そうですわ」

 紗雪も静かに言った。

「これは嘘ではなく、見せ方ですの」

「演出?」

「ええ」

「便利な言葉だな」

「本日はそれを使いますわ」

 紗雪は少しだけ笑った。


 営業が始まる。


 ちょうどよく、一組目の新規客が、“季節の小皿”について尋ねてきた。


「それ、何ですか?」

 若い男性客が黒板を見て訊く。

「その日少量だけ入る、限定の小皿です」

 恒一が答える。

「珍しい山の食材でお出ししています」

「へえ」

 男性客はそれで納得したように頷いた。

「じゃあ、それも」

「かしこまりました」


 説明は短く、自然だった。

 澪が厨房の奥で、わずかに顎を引く。合格、という合図だ。


 別の客は、帰りの白について訊いた。

「白いのに“帰り”ってどういう意味なんですか?」

「祖父の代からの白い皿を、今の店で育て直しているんです」

 恒一は言う。

「この店にまた帰ってきてもらえるように、という意味も込めています」

「……素敵ですね」

 女性客が笑う。

「じゃあ、それにします」


 そのやり取りを聞いた時、紗雪はカウンター席で小さく目を細めていた。

 料理の説明が、ちゃんと“店の言葉”になっていることに、少し安心したのだろう。


「……」

 営業の合間に、恒一はふと気づいた。


 これならいける。

 少なくとも、店として立つための輪郭にはなる。


 すべてを隠しているわけではない。

 だが、森の奥や境界のことを知らない普通の客にとっては、それで十分自然だ。


 そして、もしそれ以上を求めてくる相手がいれば、そちらのほうが普通ではないのだ。


 閉店後。


 最後の客を見送り、店が静けさを取り戻したあとで、三人は自然に同じ空気の中に残っていた。


「どうでしたの」

 紗雪が訊く。

「よかった」

 恒一が即答する。

「かなり」

「うん」

 澪も頷く。

「変に探られなかった」

「それなら、ひとまず成功ですわね」

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一は少しだけ笑う。

「さっきの“演出”って言葉」

「ええ」

「ちょっと助かった」

「……そう」

「うん」

「それは」

 紗雪はわずかに視線を逸らす。

「役に立った、ということでよろしくて?」

「かなり」

「……かなり、ですの」

「はい」

「それなら、まあ」


 その“まあ”も、最近ではだいぶこの店の響きになってきていた。


 澪がそこでぽつりと言う。

「三人目、かなり仕事してるね」

「……!」

 紗雪が固まる。

「火乃坂さん」

「何」

「その言い方は」

「嫌?」

「嫌ではありませんけれど」

「じゃあいいじゃん」

「……」

「最近、完全に店を守る側だし」

「……」

「何か問題でも?」

「……問題、ありませんの」


 紗雪はそう言ってから、少しだけ赤くなった。


 だが、今夜は逃げなかった。

 その代わり、カウンター越しに静かに言う。


「でしたら」

「うん?」

 澪が首を傾げる。

「今後も、外されませんのよ」

「はいはい」

「“はいはい”ではありません」

「じゃあ何」

「承知いたしました、と」

「……それ、命令?」

「助言ですわ」

「便利な言葉」

「本日は、それで通しますの」


 三人とも、少しだけ笑った。


 店を守るための嘘。

 いや、演出。

 そういうものまで必要になってしまったのは、決して気持ちのいいことではない。


 けれど、それでも。


 料理は嘘ではない。

 帰りの白も、角兎の煮込みも、この店でしか出せない皿も、全部本物だ。


 だから、その本物を守るために整える言葉なら、きっとまだ耐えられる。

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