第31話 見張る者、守る者
店の前に立つ人間には、二種類ある。
入ろうとしている人間と、入らずに見ている人間だ。
料理店をやっていると、その違いは案外すぐにわかる。
入ろうとしている人間は、看板を見る。黒板を見る。扉のガラス越しに中の席を見る。自分がここへ入ってよいかどうかを測る目をする。
だが、入らずに見ている人間は違う。
店そのものではなく、店の“周り”を見る。出入りの時間、階段の位置、どの客がどんな顔で出てくるか、灯りが何時まで点いているか。そういうものを見ている。
朝倉恒一は、その違いを最近ようやく覚え始めていた。
その日の営業は、悪くなかった。
帰りの白は三皿出た。
角兎の煮込みも安定している。
黒板の“季節の小皿あり”も、客との会話の余白としてうまく働いていた。
店としては、少しずつちゃんと回っている。
それは事実だ。
だが、回れば回るほど、店の外側を見ている目も増える。
「またいる」
澪が小さく言った。
火乃坂澪は、カウンターの内側から階段の上を見ないまま、ほんの少しだけ顎を引いた。
「どこ」
恒一も皿を拭く手を止めずに訊く。
「上、入口の横」
「客?」
「違う」
「……」
「三回目」
三回目。
その言葉だけで十分だった。
同じ男が、今日だけで三度、このビルの前を行き来しているらしい。
昼前に一度。
営業直前に一度。
そして今また。
入ってはこない。
だが、消えもしない。
「再開発側?」
恒一が低く聞く。
「それっぽくはない」
「じゃあ何だよ」
「知らない。でも、“客になる気がない見方”してる」
「……」
嫌な言い方だった。
だが、澪のそういう勘は当たる。
扉の外を気にしながらも、店は止められない。
新規の客が一人、帰りの白を頼んで静かに食べている。
奥のテーブルでは常連の夫婦が角兎を分け合っている。
この時間に店の空気を乱すのは一番よくない。
「今日は、表を閉めた後で見に行く」
恒一が言う。
「うん」
澪も短く返した。
「でも、今は店」
「わかってる」
その時、階段の上から、別の足音がした。
少しだけ速く、けれどもうこの店へ来ること自体には迷いのない足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は深い緑のワンピースに細い金の飾りだけ。
相変わらず整っているのに、店へ入る時の空気は前よりずっと自然だ。
だが、その彼女が一歩目で止まった。
入口の外に、まだあの男がいたのだろう。
「……」
紗雪の視線が、ほんの一瞬だけ階段の上へ戻る。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪はすぐに顔を戻す。
「本日は、少しだけ、外が騒がしいようですわね」
「見えました?」
「見えましたわ」
彼女は小さく頷く。
「お知り合いでは、ありませんのよね」
「たぶん」
「……そう」
紗雪はそれ以上は言わず、席へ向かった。
だが、背筋はいつもより少しだけ張っていた。
帰りの白を出す。
彼女は一口飲んでからも、今日はすぐには表情を緩めなかった。
「何かあったら」
恒一が声を落とす。
「はい」
「今日は早めに言ってください」
「……」
紗雪は少しだけ驚いたように目を上げる。
「わたくしが?」
「うん」
「なぜ」
「顔に出てるので」
「……」
「最近、僕も少しはわかるようになった」
「……そう」
その返事に、ほんの少しだけ余計な熱が混じった。
紗雪はそれを隠すようにカップへ視線を落とす。
「では」
彼女が小さく言う。
「今日、ひとつだけ申し上げますわ」
「はい」
「外にいる方」
「うん」
「先ほど、わたくしが階段を下りる前に」
「……」
「こちらのビルを見上げておりましたの」
「店じゃなく?」
「店だけではありませんわね」
紗雪は言葉を選ぶ。
「地下への階段そのもの、と申しますか」
「……」
恒一の胸がじわりと冷える。
店ではなく、地下への階段そのもの。
つまり、あの男の興味は看板や客席ではなく、“下へ続くこと”に向いている。
澪もそれを聞いて、皿を拭く手を止めた。
「それ、かなり嫌」
「うん」
恒一も頷く。
「しかも」
紗雪が続ける。
「こちらへ入るのをやめたのではなく、“入らないことを選んだ”ように見えましたの」
「……」
「違い、わかります?」
「わかる」
恒一は低く答えた。
「それは、かなり」
客ではない。
最初から入る気がない。
だが、ここにある何かだけは確認している。
その意図が、ますます気味悪かった。
営業中はそれ以上話せない。
紗雪もわかっているのか、それ以上は何も言わず、静かに帰りの白を飲み進めた。
だが、その後の店の空気は少しだけ張った。
常連が帰り、新規が一組入る。
料理は問題なく出る。会話も普通だ。
それでも、入口の外に“見ているだけの人間”がいるかもしれないと思うだけで、店の下の秘密が急に扉の近くまで寄ってくる気がする。
「今日、閉めたら私が先に見る」
澪が小声で言った。
「一人で?」
「違う。外に」
「……」
「恒一は店の中見て」
「一緒でいいだろ」
「ダメ」
「何で」
「店の中、空けるな」
「……」
「今日は、そういう日」
その言い方がやけに強くて、恒一は返せなかった。
そういう日。
つまり、森よりも先に、地上側の気配を優先すべき日だということだろう。
たしかに今夜はそうかもしれない。
閉店後。
最後の客を見送り、扉の鍵をかける。
紗雪は今日は帰らずに、少しだけ席へ残った。
澪は有言実行で、店を出て階段の上へ気配を見に行く。
店内には、恒一と紗雪だけが残った。
「……」
沈黙は長くなかった。
「怖かったですの」
紗雪が先に言った。
「外の人?」
「ええ」
「……」
「こういうことを申しますと、弱く見えるかもしれませんけれど」
「そんなことないです」
「そう?」
「うん」
「……でしたら、よろしいですわ」
紗雪はカップの取っ手に指を添えたまま、少しだけ目を伏せた。
「最近、この店へ来ることが前より自然になっていたのです」
「うん」
「だからこそ」
彼女は静かに続ける。
「外で、ここを“場所として”見ている人がいるのが、少し怖かった」
「……」
「店としてではなく」
「場所として」
「ええ」
「わかる気がする」
「本当に?」
「うん」
恒一は、冷蔵庫の奥を思い出していた。
玻璃亭を“帰る場所”として見る目。
“普通の良い店”として見る目。
そして、“地下へ続く場所”として見る目。
今はその三つが、同時にこの店へ向けられている。
それが、この作品……いや、この店の今の危うさだった。
「でも」
紗雪が顔を上げた。
「だから、立ち去るのも違うと思いましたの」
「……」
「え?」
恒一が少し驚く。
「店へ入ったこと?」
「ええ」
紗雪は頷いた。
「外の人が見ているからといって、わたくしまで引いてしまうのは、何だか……負けたみたいではありませんか」
「……」
「ですから」
彼女はほんの少しだけ顎を上げる。
「今日は、あえて普通に入って差し上げましたの」
「……」
「何ですの、その顔は」
「いや」
恒一は思わず笑ってしまう。
「強いなって」
「当然ですわ」
「怖かったのに?」
「怖くても、です」
紗雪はきっぱり言った。
「この店が帰る場所であるなら、入ってはいけない空気を作られてはなりませんもの」
「……」
その一言は、店主である恒一の胸にまっすぐ入ってきた。
そうだ。
見られているからといって、店の側が萎縮してはいけない。
それでは、この場所の輪郭を相手に譲ることになる。
料理店なら、まずは料理店として立つ。
普通の店なら、普通に灯りをつける。
その強さを、紗雪は客の側からすでに持っていた。
扉のほうで、小さな音がした。
澪が戻ってきたのだ。
「どうだった」
恒一が訊く。
「いない」
澪は短く答える。
「帰った?」
「たぶん」
「本当に?」
「少なくとも、今は気配ない」
「……」
「でも」
澪は扉の鍵を指先で確かめながら言う。
「店の前、わざと一回ゆっくり歩いてみた」
「何で」
「見られてるか確認」
「で?」
「向かいのビルの影に、一回だけ何か動いた」
「……」
やはりいるのだ。
消えたのではなく、見えない位置へ下がっただけ。
「完全に見張りじゃん」
恒一が低く言う。
「うん」
澪が頷く。
「店を見てるっていうより、入口の動きを見てる感じ」
「地下への?」
「たぶん」
紗雪が小さく息を呑んだ。
「……でしたら」
彼女が静かに言う。
「余計に、普通に出入りし続けなければなりませんわね」
「うん」
澪が答える。
「今日はそれで正しかったと思う」
「火乃坂さんが、そう仰るなら」
「何」
「いえ」
紗雪は少しだけ視線を逸らす。
「少し、安心いたしますの」
澪は一瞬だけ返答に困った顔をしたあと、小さく肩をすくめた。
「それならよかった」
「……ええ」
その会話を見ていて、恒一は少しだけ不思議な気持ちになる。
この二人は、まだ決して仲良しというほどではない。
だが今は明らかに、同じ側へ立っている。
店を守る側。
帰る場所を守る側。
その意味で。
「……」
少しの沈黙のあと、紗雪が立ち上がった。
「本日は、もう帰りますわ」
「送ります」
恒一が反射的に言うと、
「店を空けない」
澪が即座に言った。
「……」
「今はダメ」
「……そうだな」
それはそうだ。
紗雪は二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ笑った。
「そこは、火乃坂さんのおっしゃる通りですわ」
「すみません」
「謝ることではありませんの」
彼女は首を振る。
「今は、店が先でしょう?」
「……」
「ええ。そうですわ」
「……ありがとうございます」
「ですから、すぐに礼を」
「言われると困る」
「……もう、本当に覚えられてしまいましたのね」
そう言いながらも、今日の紗雪は前ほど赤くならなかった。
その代わり、扉の前で一度だけ振り返って言う。
「次も、普通に参りますわ」
「うん」
恒一が頷く。
「普通にお待ちしてます」
「ええ。そのようになさい」
扉が閉まる。
階段を上がる足音が少しずつ遠くなる。
しばらく、店内は静かだった。
「……認めた?」
澪がぽつりと言う。
「何を」
「紗雪さん」
「急だな」
「急じゃない」
「……」
「ちゃんと、立ってるなって」
「……」
恒一は少しだけ考えてから、頷いた。
「うん」
「そう」
「お前は?」
「……だいぶ前から」
「え」
「何」
「もっと後だと思ってた」
「見るとこ見ればわかるし」
「お前、ほんとそういうのだけは」
「何」
「ちゃんとしてる」
「だけ、ってつけた」
「気のせい」
澪は少しだけ笑った。
店を見張る者がいる。
その一方で、店を守るために、外で普通に立てる人もいる。
境界の森の向こう側が不穏になればなるほど、こちら側の“普通”の強さもまた、少しずつ輪郭を持ち始めていた。




