第30話 境界を越える荷
嫌な予感というものは、たいてい形になる前から匂いだけ先に来る。
朝倉恒一は、その日の営業前、帰りの白のベースを温めながら、鍋の湯気の向こうにまだ朝の森の匂いを引きずっていた。
白く発光する結晶。
簡易な小屋。
半ば開いた木箱。
保冷材。
血痕のような黒ずみ。
そして、あそこが単なる荷置き場ではなく、“境界の向こうとこちらの間で、何かを一時的に留めておく場所”であるように見えたこと。
あれは、風縫いや角兎のように“食べたい”と思える対象ではなかった。
料理人の欲より先に、危うさだけが鼻へ入ってくる。
それが何より嫌だった。
「火、強い」
澪が言った。
火乃坂澪は、カウンターの奥でパンを切り分けながら、こちらを見もせずに声を飛ばしてくる。
「え」
「今の帰りの白」
「……」
恒一は慌てて火を落とした。
「またか」
「また」
「最近ひどいな」
「最近ひどい」
同じ言葉をそのまま返されると、言い訳のしようがない。
「ごめん」
恒一が素直に言うと、澪はようやく顔を上げた。
「今日はしょうがない」
「しょうがないで済むか?」
「済まないけど、原因はわかってる」
「白い結晶」
「うん」
「……」
「でも営業始まったら切り替える」
「うん」
「返事だけじゃなくて」
「守る」
「よし」
最近、このやり取りが増えた。
森の中での線引きと同じように、店の中でも自分をどこで戻すかを決めなければならない。さもないと、店の火がそのまま森の不穏さに染まる。
そこへ、少しだけ速い足音が聞こえた。
もうだいぶ聞き慣れた、少し緊張を含みながらも、この店へ下りてくること自体には迷いのない足音。
東條院紗雪だった。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は薄い桜色のブラウスに濃い色のスカート。整ってはいるが、入ってきた瞬間の視線が、まず恒一の顔に向いた。
やはり見抜かれている。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は小さく頷いた。
「本日は」
「はい」
「かなり、よろしくないお顔ですわ」
「そんなにはっきり」
「はっきりですの」
そこで紗雪は、少しだけ声を落とした。
「何か、見ましたのね」
「……」
「その沈黙は、当たりですわ」
恒一は苦笑するしかなかった。
「営業が落ち着いたら」
彼が言う。
「はい」
「少し話します」
「ええ。そのようになさい」
紗雪は席へ向かう。
「それまでは、わたくしは普通の客でおりますわ」
「助かります」
「ですから、そうやってすぐに」
「礼を言うと困る」
「……もう覚えられてしまいましたのね」
その言い方には、困ると言いながら少しだけ安心した響きもあった。
営業が始まる。
その日の店は、静かなわりに客足が途切れなかった。
帰りの白を目当てに来たらしい女性客が一人。
角兎の煮込みを頼む常連の会社員。
黒板の“季節の小皿あり”に興味を示す初見の二人組。
普通の良い店としての空気は、昨日までより少しずつ強くなっている。
そのこと自体は救いだった。
だが、その普通の空気の裏で、店の下の現実は確実に変わっている。
「……」
「また止まってる」
澪が小声で言う。
「今日はほんと、顔に出るな」
「今日はじゃなくて、最近ずっと」
「厳しいな」
「事実だから」
営業中の短いやり取りだけが、恒一を現実へ戻す。
紗雪は今日は、帰りの白のあとに紅茶を頼み、静かに待っていた。
彼女がこうして落ち着いて座っている姿を見るたび、この店が誰かにとって“帰る場所”になり始めているのだと実感する。
その帰る場所の下に、あんなものがある。
その落差が、たまらなく嫌だった。
閉店後。
最後の客を見送り、灯りが少しだけやわらいだ頃、恒一は紗雪の席へ向かった。
澪は今日は隠さず、カウンターの中でグラスを拭きながら耳を傾けている。
「お待たせしました」
恒一が言う。
「いえ」
紗雪は首を振る。
「そのお顔では、待たせたとは申しませんわ」
「そんなにですか」
「かなり」
「みんな同じこと言うな」
「皆さまが同じことを仰る時は、だいたいその通りですの」
そこで少しだけ空気がほどける。
「それで」
紗雪が声を落とした。
「何を見ましたの」
「第二入口の先」
恒一も率直に答える。
「……」
「小屋みたいな中継地点がありました」
「中継」
「完全な拠点じゃない。でも、荷を置くには十分なくらいの」
「……」
「木箱があって」
恒一はそこで一度言葉を選ぶ。
「中に、白く光るものがありました」
「……白く」
「うん」
「食材、ではないのですわね」
「少なくとも、そのまま皿に乗る類じゃない」
「……」
紗雪の指先が、カップの持ち手に少しだけ強く触れた。
「それと」
恒一が続ける。
「保冷材がありました」
「保冷材?」
「こっちの世界のものです」
「……では」
「向こう側のものを、こっちの手段で保って運んでる」
「……」
「たぶん」
沈黙が落ちる。
澪がそこで、カウンターの奥から補足した。
「しかも、あれは“丁寧に運んでる”感じじゃなかった」
「……」
「押さえ込んで、急いで運んでる感じ」
「火乃坂さんも見たのですね」
「見た」
紗雪はゆっくり息を吐いた。
「祖父の家でも」
彼女が言う。
「はい」
「“搬出”という言葉は、少し焦った雰囲気で使われておりましたわ」
「焦った」
「ええ。落ち着いて運んでいる、というより……予定が早まったような」
「……」
恒一は澪と目を合わせる。
森で見た小屋。
慌てたような搬送。
家の中での“搬出”という言葉。
全部が一本へ寄ってくる。
「……ねえ」
澪が低く言った。
「何」
「もしかして」
「うん」
「回収してるっていうより、“急いで逃がしてる”んじゃない?」
その一言に、店の空気が静かに張る。
恒一も、紗雪も、すぐには返せなかった。
回収。
搬出。
そして、保冷材で無理に保っている白い何か。
ただ高く売れるから運ぶのではなく、“向こうに置いておくとまずいから、急いでこちらへ流している”のだとしたら。
「……その可能性、あるな」
恒一がようやく言う。
「うん」
澪が頷く。
「だとすると」
「何ですの」
紗雪が不安そうに問う。
「店の下を通路にするな、っていうのは」
恒一が言葉を継ぐ。
「単に店を守るためだけじゃなくて、“こっちに流していいものじゃない”って意味かもしれない」
「……!」
紗雪の顔色が少し変わった。
「そんなものが」
彼女が小さく言う。
「境界を越えて、こちらへ」
「まだ決まってない」
恒一はすぐに言った。
「ただ、可能性として」
「でも、あり得る」
澪が続ける。
「そうだな」
白く光るものの匂いを思い出す。
冷たい。
薬品に似ている。
だがもっと生々しい。
あれがただの鉱石や菌ではなく、“こちらへ持ち込むと何かが変わるもの”だったとしても、不思議ではない。
「……祖父は」
紗雪が言う。
「それをご存じなのでしょうか」
「知ってると思う」
恒一が答える。
「少なくとも、“通してはいけないもの”としては」
「……」
「でも、全部を知ってるかはわからない」
「そう」
紗雪は小さく頷く。
「それでも、止めようとしているのですわね」
「うん」
「でしたら」
彼女は少しだけ顔を上げた。
「わたくしたちも、そこは同じでいなければなりませんわ」
その言葉に、澪が珍しくまっすぐ紗雪を見た。
「わたくしたち?」
「ええ」
紗雪も視線を逸らさない。
「この店を守る側、という意味で」
「……」
「何か問題でも?」
「いや」
澪は少しだけ肩をすくめた。
「今のは、問題ない」
その返答が、思っていたよりずっと柔らかくて、恒一は少しだけ驚いた。
紗雪もそれを感じ取ったのか、ほんの少しだけ目元を和らげる。
この二人も、最初の頃とはずいぶん変わった。
距離が縮んだ、というより、同じ方向を向く時の呼吸が合い始めている。
「……でも」
恒一が言う。
「何ですの」
「今のところ、まだ店の外で動くしかない」
「ええ」
「森に入るのは、できるだけ二人でやる」
「それがよろしいですわ」
「紗雪さんには」
「わたくしには?」
「家の中の気配を」
「……ええ」
「危ないと思ったら、無理に拾わないでほしい」
「……」
「そこは約束してほしい」
「……」
紗雪は少し黙った。
たぶん、本当は全部知りたいのだろう。
自分の家で何が動いているのか。
祖父が何を守ろうとしているのか。
この店の下で何が流れようとしているのか。
だが、それでも彼女は最後に小さく頷いた。
「承知いたしましたわ」
「ありがとう」
「ですから」
紗雪はいつものように少しだけ頬を染める。
「そうやって、きちんと礼を仰ると困るのです」
「でも、助かるので」
「……もう」
けれど、その“もう”の中に、前より少しだけ親しさが混じっている。
やがて紗雪は帰り支度を始めた。
今日は立ち上がる前に、少しだけ店の中を見回した。
カウンター。
黒板。
鍋の残り香。
そして厨房の奥、古い冷蔵庫のほうへ。
そこまで見てから、彼女は静かに言った。
「このお店は」
「うん」
「やはり、ただ帰るための場所ではありませんのね」
「……」
「帰るための場所だからこそ、守らなければならないものがある」
「そうだな」
「ええ」
紗雪は小さく頷く。
「少しだけ、わかった気がいたしますわ」
その言葉は、今夜の一番深いところに落ちた。
玻璃亭は、ただ安心するためだけの店ではない。
帰る場所であることと、境界に立つことが、今はもう切り離せない。
だからこそ、帰る味も、店の火も、簡単には消せないのだろう。
紗雪が帰ったあと、しばらく店の中は静かだった。
先に口を開いたのは澪だった。
「回収じゃなくて、搬出」
「うん」
「嫌な感じする」
「うん」
「しかも急いでる」
「うん」
「……」
「何」
「最近、“うん”しか言ってないなって思って」
「言うことない」
「まあ、わかる」
恒一はカウンターの木へ手を置いた。
表では普通の店であること。
中では帰る味を育てること。
その下では、境界を通そうとする何かを止めること。
やることが増えすぎている。
だが、それでも不思議と折れそうにはならなかった。
理由が一つではないからだ。
祖父の店だから。
今の店だから。
澪と立つ厨房だから。
紗雪が帰りたいと言った場所だから。
そして、その下を誰かの都合のいい通路にさせたくないから。
その全部が、少しずつ形を持ち始めている。




