第29話 第二入口の先
店の外に秘密があるのではない。
もう今の玻璃亭にとっては、店そのものが秘密の縁に立っている。
朝倉恒一は、営業前の静かな厨房で、古い冷蔵庫を見ながらそんなことを思っていた。
白い塗装は少し剥げ、取っ手の金属は使い込まれて鈍く光っている。
見た目だけなら、祖父の代からなんとなく使い続けているだけの業務用冷蔵庫だ。
だがその底の先には、境界の森がある。
そして今では、その森を自分たち以外の誰かもまた使っていると、かなりはっきりわかってしまった。
別入口。
切れ目の向こうへ消えた男たち。
こちらの世界の保冷材や缶。
“地下の店”という言葉。
“回収”と“搬出”。
“通路にしてはならない”という老紳士の意志。
全部が少しずつ、同じ輪郭へ寄ってきている。
「また見てる」
澪が言った。
火乃坂澪は、今日はもう森へ入る準備を終えていた。
黒シャツに細身のパンツ、袖を軽く捲り、革袋の口を指で確かめている。狩りに行く時とも違う、探索に寄せた装備だ。今日の目的は食材ではない。第二入口の先、その手前までの確認。そして“どこまでが自分たちの線か”を改めて確かめること。
「見てる」
恒一は素直に認めた。
「喋らないよ」
「わかってる」
「でも、見すぎ」
「お前、最近ほんとそればっかりだな」
「最近ほんと見すぎだから」
澪はそこで少し真面目な顔になった。
「今日、もう一回言っとく」
「何を」
「第二入口の先を見るのは、“踏み込む”ためじゃなくて、“どこまでが危ないかを知る”ため」
「うん」
「向こう側に何があるか全部知る必要は、まだない」
「……」
「必要なのは、“どこから先を店の下に通したくないか”を見極めること」
「……そうだな」
その言葉が、妙に腹へ落ちた。
つい先を知りたくなる。
誰が何を運んでいるのか、どこへ消えていくのか、何を回収しているのか。
気になる。気になって仕方がない。
けれど今の自分たちに必要なのは、全部の答えではない。
玻璃亭がどこまで巻き込まれているか。
どこから先を“店の外”として線引きすべきか。
そっちのほうだ。
「……わかった」
恒一が言う。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、今日は第二入口の先へは三歩まで」
「三歩?」
「比喩」
「雑だな」
「でもわかるでしょ」
「まあ、わかる」
そのくらいでいい。
今の自分には、それくらいの曖昧さのほうが必要だった。
営業前の短い時間に、二人は森へ入った。
石段を下りる。
夜とは違う薄い朝の光。
湿った土の匂い。
白く張る菌糸。
白濁茸の群れを横目に、今は食材としてではなく“地形の一部”として通り過ぎていく。
「贅沢だな」
恒一がぼそりと言う。
「何が」
「前ならあれ見た瞬間、絶対収穫してた」
「今日はしない」
「わかってる」
「じゃあ見ない」
「見るなは無理だろ、料理人だぞ」
「そこは知ってる」
二人はチョークの印を追って進んだ。
前回までにつけた小さな印は、思った以上に役立つ。森は毎回同じようでいて、光や湿度や匂いで輪郭が変わる。だから“自分たちの通った線”があること自体が、気持ちの支えになる。
やがて、第二入口らしき切れ目へ着く。
やはり、道になっていた。
自然に開けたのではない。何度も人が抜けた結果としてできた細い通路だ。木の幹の傷、払われた枝、踏み締められた土、そしてところどころに残るこちら側の世界の布の繊維。
「増えてる」
澪がしゃがみ込んで言う。
「足跡?」
「うん。昨日より新しい」
「人数は」
「二人、いや三人分」
「また三人か」
「たぶん固定の組み合わせかも」
恒一もしゃがむ。
土の上の跡は、前よりはっきりしていた。昨夜の雨が地面をわずかに柔らかくしたらしく、靴底の模様まで少し読める。
「これ、完全に向こうから来てるな」
恒一が言う。
「うん」
「第二入口の先に拠点がある」
「ありそう」
「……行くか」
「行く」
澪が言う。
「でも三歩」
その言い方に少しだけ笑いそうになる。
だが、今日はそれでいい。
二人は切れ目を抜けた。
木々の密度が、ほんの少し変わる。
自分たちがこれまで“森”として認識していた領域より、先は少し乾いていた。菌糸が減り、土に小石が混じり始める。匂いも、湿った緑だけではない。油と布と、微かな金属臭が強い。
「……」
「どうした」
澪が振り返る。
「いや」
恒一は小さく首を振る。
「ほんとに、“向こうの森”って感じしなくなってきた」
「うん」
「人間の使う場所の匂いがする」
「それが嫌」
さらに数歩進む。
そこで、初めて“それ”が見えた。
木々の間に、低い屋根のようなものがある。
建物と呼ぶほど大きくない。
だが自然物でもない。木と布と何かの板材で、簡易に組まれた半屋外の小屋に近い。完全な拠点ではない。けれど、荷をいったん置くための場所としては十分だった。
「……あれ」
恒一が息を呑む。
「うん」
澪も目を細める。
「やっぱり、ある」
小屋の奥までは見えない。
だが手前には、細長い木箱が二つ。
一つは閉じている。もう一つは蓋が半分開いていた。
そこから見えたのは、土でも肉でもない。
白く発光する、薄い結晶のようなものだった。
白濁茸とも違う。
鉱石にも見える。
だが、その表面には生き物めいた湿りがあって、光り方も均一ではない。脈を打つように、かすかに明滅している。
「……何だあれ」
恒一が小声で言う。
「知らない」
澪の返答も小さい。
「でも、食材じゃない」
「うん」
「少なくとも、そのまま皿に乗る類じゃない」
「うん」
その時、風向きが変わった。
結晶のほうから、微かな匂いが届く。
冷たい。
だが氷ではない。
薬品に似ているが、もっと生々しい。
白濁茸の“静かな白”を極端に尖らせて、そこから土の湿りを全部抜いたような、不自然な匂いだった。
恒一は思わず顔をしかめる。
「嫌な匂いだな」
「うん」
「生きてるのか、これ」
「それもわからない」
小屋の脇には、こちら側の世界のものらしい保冷材が散っていた。
そして、床に近い位置には古い血痕のような黒ずみもある。
恒一の背筋が冷えた。
これは、ただ高く売れる珍しい素材をこっそり運んでいる、というだけではないかもしれない。
少なくとも、“丁寧な搬送”ではない。
何かを無理に押さえ込み、保たせ、急いで動かしている気配がある。
「戻る」
澪が言った。
「え」
「見た」
「……」
「十分」
「でも、あれ」
「十分」
声は低いが、強かった。
たしかにそうだ。
ここでこれ以上見る必要はない。
少なくとも今日は。
だがその時、木箱の向こうで、何かが微かに動いた。
ぱき、と小さな音。
二人とも固まる。
箱の内側からか。
風か。
あるいは、結晶そのものがきしんだのか。
「……帰る」
澪がもう一度言う。
「うん」
恒一もすぐに頷く。
今度は迷わなかった。
二人は静かに来た道を戻る。
振り返らない。
音を立てない。
それでも背中のどこかが、あの白い明滅をまだ見ている気がした。
切れ目を抜け、自分たちのつけた印のある場所まで戻る。
ようやくそこで、少しだけ呼吸が戻った。
「……見たな」
恒一が言う。
「見た」
澪が返す。
「拠点、ってほどじゃないけど」
「中継地点」
「うん」
「しかも、普通の荷じゃない」
「うん」
「……嫌だな」
「うん」
結局そこへ戻る。
森の匂いに心を動かされた時の“嫌じゃなさ”は、もうかなり減っていた。
今はただ、あの小屋が店の下の世界と繋がっていること自体が不気味だった。
石の通路へ戻り、階段を上がる。
冷蔵庫の底板を閉じた瞬間、二人とも深く息を吐いた。
厨房の現実。
鍋。
布巾。
まな板。
火を入れる前の静かな店。
だが、その“いつものものたち”が、少し前より頼もしく見える。
森の向こうに不気味なものがあればあるほど、こちらの現実を手放したくなくなるのだろう。
「……あれ」
恒一が言う。
「うん」
「何だと思う」
「わかんない」
「鉱石?」
「かも」
「菌?」
「かも」
「でも」
「うん」
「絶対、皿のためのものじゃないな」
「それは確実」
澪はそこで、冷蔵庫の扉を指先で軽く叩いた。
「これ」
「うん」
「もう完全に、仕入れ先って言葉でごまかせなくなったね」
「そうだな」
「境界の森」
「……うん」
「そう呼ぶしかない」
その言い方に、恒一も頷くしかなかった。
仕入れ先ではない。
少なくとも、それだけではない。
あそこは境界の森で、自分たちの店はその縁に触れている。
そして誰かは、その境界を使って、あの白い何かを回収し運んでいる。
「紗雪さんに、言う?」
澪が訊いた。
「全部はまだ」
恒一が答える。
「でも、別入口の先に中継地点があることは、伝える」
「うん」
「で、老紳士にも」
「どうやって?」
「わからない」
「雑」
「でも、あれ見た以上、もう黙ってるのも違う」
「……それはそう」
営業までの時間は少ない。
だが、料理店としての時間は待ってくれない。
黒板を出し、グラスを並べ、火を入れる。
現実へ戻るための動作を一つずつこなしていくと、少しずつ頭も冷えた。
そして、店を開けてしばらくした頃。
階段の上から、聞き慣れた少しだけ速い足音がした。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日の紗雪は、いつもより少しだけ顔色が硬かった。
こちらもだいぶ顔に出ているのだろう。
目が合った瞬間、彼女は一拍置いてから、小さく言った。
「……何か、見ましたのね」
「……」
「本日は、かなりそのお顔ですわ」
恒一は思わず苦笑した。
やはり、この人には隠しきれない。




