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第28話 帰る味は一つでなくてよい

 料理人が「この皿は残る」と思う瞬間は、完成した時ではないのかもしれない。


 むしろ逆で、まだ少し足りないのに、それでも誰かの中に引っかかる何かを持ってしまった時。技術としては未完成でも、記憶に残る手触りだけは先に生まれてしまった時。そういう皿のほうが、あとから店の顔になることがある。


 帰りの白は、たぶんそういう皿だった。


 営業前の玻璃亭で、朝倉恒一は白濁茸を前にしていた。


 昨日、紗雪が初めて厨房の中へ入った。

 ほんの数歩。

 仕込み台のあたりまで。

 それだけだったのに、不思議なほど大きな出来事だった。


 彼女は言った。

 今の厨房には、恒一と澪の空気がある、と。

 祖父の時代の静けさとは違う、今の店の熱がある、と。


 あの言葉が、妙に胸の奥へ残っている。


「今日も止まってる」

 背後から澪の声がした。


 火乃坂澪は、パン生地を丸めながらこちらを見ている。今日は髪を少し高めに結んでいた。作業の邪魔にならないようにしているだけなのだろうが、そういう小さな変化が目につくくらいには、恒一も最近この厨房の景色に慣れすぎていた。


「最近それしか言ってないな」

 恒一が返す。

「最近それしかしてないから」

「そんなに止まってるか?」

「うん」

「……悪い」

「何考えてたの」

「昨日のこと」

「厨房?」

「うん」

「紗雪さん?」

「……」

「はいはい」


 澪はそれ以上からかわず、丸めた生地を布の下へ置いた。


「でも、あれはちょっとわかる」

 彼女が言う。

「何が」

「今の店の空気」

「……」

「言われてみると、昔の店とはたぶん違うんだろうなって」

「覚えてるのか?」

「祖父さんの時代?」

「うん」

「少しだけ」

 澪は素っ気なく答える。

「でも、今みたいに無駄話する感じじゃなかった」

「無駄話かよ」

「無駄話でしょ」

「ひどいな」

「でも必要」

「どっちだよ」

「どっちも」


 その返しが、いかにも澪らしかった。


 恒一は白濁茸を裂きながら、小さく息を吐く。


 帰りの白は、今の店の皿になってきている。

 紗雪の記憶に触れ、老紳士にも認められ、常連にも少しずつ届き始めた。

 だが同時に、その皿だけに頼るのは危ういとも感じていた。


 なぜなら、帰りの白はあまりに“戻るための皿”だからだ。


 戻ってくる。

 思い出す。

 安心する。

 そういう力は強い。


 けれど店は、それだけでは前へ進めない。


「……じいちゃんのメモ、持ってきてくれ」

 恒一が言う。

「どの?」

「白濁茸のあたり」

「はいよ」


 澪が棚の上から古いレシピ帳を取って寄越す。

 油染みのついた、祖父の字だらけの帳面。

 何度見ても読みやすいとは言えない。だが最近は、この読みにくさにも少し慣れてきていた。


 頁をめくる。


 《白濁茸 音を立てるな》

 《風縫い 胸は火を入れすぎるな》

 《角兎 背より腹》

 そんな断片の中に、以前にも一度見つけた一文が、また目に入る。


 《帰る味は、一つでなくてよい》


 恒一はそこで手を止めた。


「それ」

 澪が言う。

「うん」

「前にも見てたね」

「見た」

「また引っかかった?」

「うん」


 何度見ても不思議な一文だ。


 祖父のメモはたいてい実務的で、雑で、料理人本人にしかわからない省略だらけだ。

 なのにこの一文だけは、やけに言葉の形をしている。


 帰る味は、一つでなくてよい。


 それはたぶん、今の玻璃亭に必要な考え方だった。


「……帰りの白だけじゃなくていいんだよな」

 恒一が言う。

「うん」

 澪が頷く。

「帰る味が増えれば、そのぶん店は強い」

「そう」

「でも、増やし方間違えると、ただメニューが増えるだけ」

「そうなんだよ」


 そこが難しい。


 料理を増やすこと自体はできる。

 異世界の食材もある。祖父のメモもある。今の自分と澪の感覚もある。

 だが、“この店の帰る味”として残る皿を増やすのは、単なる新作とは違う。


 記憶に触れすぎてもだめ。

 派手に驚かせるだけでも違う。

 今の客が、次にまたこの階段を下りてきたくなるような、今の店の芯が要る。


「……」

 恒一が考え込んでいると、また足音がした。


 もうだいぶ聞き慣れた、少しだけ速く、少しだけ緊張していて、でもこの店へ来ること自体には迷いのない足音。


「来たね」

 澪が言う。

「うん」


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 東條院紗雪だった。


 今日は薄い藤色のワンピースに、生成りのカーディガンという落ち着いた装いだった。以前より肩の力が抜けて見えるのは、店に馴染んできたからだけではないだろう。少なくとも、この地下へ来る時だけは“完璧なお嬢様”でいなくてもいいと、少しずつ体が覚えてきている。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は小さく頷く。

「本日は、少しだけ早めに参りましたわ」

「最近よく早いですね」

「……たまたまですの」

「たまたま、増えてません?」

「気のせいではなくて?」


 そう言い返す時の余裕が、だいぶこの店の人間らしい。


 席へ座る前に、紗雪は黒板を見た。

 帰りの白の文字を目で追い、それから恒一の手元にあるレシピ帳へ視線を落とす。


「本日は、また考えていらっしゃいますのね」

「わかります?」

「最近は」

 紗雪は少しだけ得意げに言う。

「そのくらい、見えるようになってまいりましたわ」

「客として?」

 澪が横から言う。

「もちろんですわ」

「便利な言葉」

「最近みなさま、本当にそればかりですのね」


 そのやり取りをしながら、紗雪は席へ着く。


「ご注文は」

 恒一が訊く。

「帰りの白を」

「はい」

「それと」

 紗雪は少しだけ首を傾げる。

「本日は、何か新しいことを考えていらっしゃるのでしょう?」

「……」

「その顔は当たりですわね」

「顔に出るなあ」

 恒一が苦笑すると、紗雪はほんの少しだけ笑った。

「以前より、ずっと」


 帰りの白を出す。


 紗雪は今日は、ひと口目を飲んでからすぐに感想を言わなかった。

 代わりに、二口、三口と静かに飲み進める。

 その様子を見ているうちに、恒一はふと、この皿が彼女の中で“驚きの一皿”から“確かめる一皿”へ変わり始めているのだと気づいた。


「……」

「どうですか」

 恒一が訊くと、紗雪はゆっくり顔を上げた。


「帰りの白は」

 彼女が言う。

「ええ」

「もう、ちゃんと帰るための皿になっておりますわ」

「……」

「ですが」

 そこで彼女は少しだけスプーンを置く。

「お店としては、それだけでは足りませんのよね」

「……やっぱり、そう見えます?」

「見えますわ」

 紗雪ははっきり言った。

「このお皿は、思い出と今を結ぶにはとてもよいのです」

「うん」

「ですが、“次にまた何を食べに来るか”という期待は、また別に必要ですもの」

「……」

「つまり」

 澪が厨房の奥から口を挟む。

「続きが要る」

「ええ」

 紗雪は頷いた。

「帰る味は、たしかに一つではなくてよいはずですわ」


 その言葉に、恒一はレシピ帳をそっと見下ろした。

 まるで祖父の一文を、そのまま今の言葉へ訳してもらったような気がした。


 帰る味は、一つでなくてよい。


 帰りの白だけが正解ではない。

 風縫いも、角兎も、これからまだ見ぬ皿も、その可能性を持っていていい。


「……じゃあ」

 恒一が言う。

「今の店の“帰る味”って、何だと思います?」

「難しいことをお聞きになりますのね」

 紗雪は少し困ったように眉を寄せた。

「でも」

「でも?」

「たぶん、“懐かしい”だけでは足りませんわ」

「……」

「わたくしがこの店を好きなのは」

 そこまで言って、彼女は少しだけ頬を染める。

「好き……」

 と澪がぼそりと繰り返す。

「な、何ですの」

「いや、別に」

「火乃坂さん」

「続けて」


 紗雪は軽く睨んでから、言い直した。


「わたくしがこの店へ戻ってきたいと思うのは」

「うん」

「昔の記憶があるからだけではありませんの」

「……」

「今ここに来るたび、少しずつ違うものがあるからですわ」

「違うもの」

「ええ」

 紗雪は帰りの白をひと口だけすくう。

「同じ皿でも、昨日と今日では少し違う」

「……」

「店の空気も、少しずつ違う」

「……」

「それでいて、“ここでしかない感じ”はちゃんと残っておりますの」


 その言葉を聞いた瞬間、恒一の中で何かがひとつだけ繋がった。


 変わること。

 変わらないこと。

 その両方が必要なのだ。


 帰りの白は、どこか安心する。

 だが安心するだけなら、記憶の中の味で終わってしまう。

 店として生きるには、昨日と少し違う今日がいる。

 同じ場所なのに、また来たくなる揺らぎがいる。


「……澪」

 恒一が言う。

「何」

「前に言ってた“店の癖”って、たぶんそこだ」

「変わるのに、同じ感じがするってやつ?」

「うん」

「それなら、たしかにこの店っぽい」

「そうですわね」

 紗雪も静かに頷いた。

「完成されすぎたお店ではございませんもの」

「それ褒めてる?」

 恒一が苦笑すると、

「最大級に」

 紗雪はきっぱり答えた。

「この店は、少しだけ不揃いだからよろしいのです」

「……」

「整いすぎたお店は、息が詰まりますわ」

「それは……わかる気がする」


 紗雪の家のような“完璧に整えられた場所”を思い出したのか、彼女の横顔がほんの少しだけ遠くなる。

 だが次の瞬間には、帰りの白の湯気を吸い込むように、小さく息を吐いた。


「ですから」

 彼女は言う。

「次のお皿も、きっと少しだけ不揃いなほうが、この店には似合いますの」

「……」

「綺麗すぎる正解より、ちゃんと戻ってきたくなる偏りですわ」


 偏り。


 それはまさに、自分が欲しかった言葉だった。


 祖父の味をまっすぐ再現するだけでは生まれないもの。

 銀座の綺麗な料理店らしさだけでも足りないもの。

 境界の森と、地下の店と、今の厨房でしか生まれない歪み。


 それが、この店の次の皿になるべきなのだろう。


 営業後、紗雪が帰ったあと。


 恒一はレシピ帳をもう一度開いた。

 祖父の一文は、前と変わらずそこにある。


 《帰る味は、一つでなくてよい》


「……じいちゃん」

 恒一が小さく呟く。

「たぶん今、それが少しわかった」


 返事はない。

 だが、その沈黙はもう、ただの空白ではなかった。


 厨房の奥で、澪が鍋を片づけながら言う。

「で?」

「うん?」

「次の皿」

「……」

「何か見えた?」

「少しだけ」

「どんな」

「帰りの白の続きだけど、白に寄せすぎない」

「うん」

「角兎の腹側の旨味を使う」

「うん」

「風縫いは香りだけじゃなく、食感も少し残す」

「へえ」

「でも、綺麗にまとめすぎない」

「……」

「この店の偏りを残す」

「いいじゃん」

 澪は少しだけ笑う。

「やっと“次”になりそう」

「まだ、かなり試すけどな」

「試せばいい」

「その言い方、楽だな」

「でも必要でしょ」

「必要」


 恒一はレシピ帳を閉じた。


 帰る味は、一つでなくてよい。

 なら、増やしていけばいい。

 この店に帰りたいと思う理由を。

 昨日と少し違う今日を。

 それでも変わらない、この店だけの匂いを。

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