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第27話 厨房の中の三人目

厨房という場所には、入っていい人間と、そうでない人間がいる。


 料理店で育った朝倉恒一にとって、それはずっと当然の感覚だった。


 客席は開かれた場所だ。

 誰が来てもいい。

 どんな顔の人間が座っても、皿を出す限り、その席はその人のものになる。


 けれど、厨房は違う。


 火がある。刃物がある。時間がある。段取りがある。

 そして何より、料理人の癖と焦りと集中が、隠しようもなくそのまま露出する。

 客へ向けて整えた顔ではなく、もっと剥き出しのものがある。


 だから、そこへ誰かを入れるというのは、ただ「中を見せる」以上の意味を持つ。


 営業後の玻璃亭で、恒一はふとそんなことを考えていた。


 その日の営業は悪くなかった。

 派手な満席ではない。

 けれど、角兎の煮込みも帰りの白も、ちゃんとそれぞれの役割を果たした夜だった。常連が新規客へ自然に溶け込み、黒板の前で立ち止まった客が、迷いながらも楽しそうに皿を選んでいく。


 普通の良い店。

 昨日までなら、そんな評価は少し地味すぎるように感じたかもしれない。

 だが今は違う。

 その“普通”を保つことが、この店にとってどれほど大事かを知っている。


 最後の客が帰り、扉のベルの余韻も消えた。


 カウンター席には紗雪がまだ残っていた。


 東條院紗雪は、今日は帰りの白のあとに紅茶を一杯だけ頼み、そのまま静かに席へ座っている。長居をするわけではない。だが帰る気配も急がない。最近はそういう夜が少しずつ増えていた。


「本日は」

 紗雪がカップを置いて言う。

「ええ」

 恒一が返す。

「少しだけ、昨日までと違いましたわね」

「昨日までと?」

「火乃坂さんとの距離が」

「……」

 厨房の奥で、皿を拭いていた澪の手がぴたりと止まる。

「何それ」

 恒一が言う。

「そのままの意味ですわ」

 紗雪は涼しい顔で言った。

「以前よりも、“二人で決めている空気”がございましたもの」

「それ、褒めてる?」

 澪が小さく聞く。

「最大限に」

 紗雪は頷く。

「店が落ち着いて見えるのは、たぶんそのせいですわ」

「……」

「何ですの」

「いや」

 澪は少しだけ視線を逸らす。

「そういうの、客って見てるんだなって」

「見ておりますわよ」

 紗雪は当然のように言った。

「お店というものは、皿だけでできているわけではありませんもの」

「またそれ」

 恒一が笑う。

「本当ですわ」

「最近の紗雪さん、だいぶちゃんと店の人っぽいこと言うな」

「“っぽい”ではありません」

 紗雪は少しだけ顎を上げた。

「客として、当然の観察ですの」

「便利な言葉だな」

「最近、みなさまそればかりですわね」


 そのやり取りで、店の空気が少しだけやわらいだ。


 澪が片づけを終え、布巾を畳みながら言う。

「そういう紗雪さんは、最近かなり店に馴染んでるけどね」

「……」

 紗雪が一瞬だけ黙る。

「え」

 澪が珍しく少しだけ笑った。

「最近さ、席に座った時の呼吸が前より自然」

「そんな」

「最初の頃、ここ入ってきた時毎回ちょっと肩上がってた」

「火乃坂さん!」

「でも今は、ちゃんと戻ってきた人みたい」


 その言葉に、紗雪は完全に不意を突かれた顔をした。


「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一が口を開く。

「それ、たしかに」

「あなたまで?」

「だって本当にそう見える」

「……っ」

 紗雪は耳まで赤くして顔を逸らした。

「そ、それは」

「それは?」

「わたくしが、慣れて差し上げたからですわ」

「そういうことにしとく?」

 澪が言う。

「そういうことに、しておきなさい」

「はいはい」


 けれど、その“慣れて差し上げた”という言い方自体が、もうかなりこの店の人間らしいのだった。


 少しして、紗雪が立ち上がる。


 今日はこのまま帰るのかと思ったその時、彼女はふと厨房のほうへ視線を向けた。


「……」

 言いかけて、やめる。

 また、言いかける。


「何ですの」

 澪が先に気づいた。

「いえ、その」

 紗雪は珍しく言葉を探すのに時間をかけた。

「前から、少しだけ気になっておりましたの」

「うん」

「厨房というのは」

「うん」

「もっと、殺伐としているものだと思っておりましたわ」


 恒一は思わず笑ってしまう。

「殺伐」

「ええ」

 紗雪は真面目な顔で頷いた。

「火と刃物があって、もっと……皆さま、怒鳴ったりなさるのかと」

「ドラマの見すぎでは」

 恒一が言う。

「そうでもありませんの」

「じゃあ誰にそんなイメージ植えつけられたんですか」

「……祖父ですわ」

「じいちゃん?」

「ええ。“厨房は戦場だ”と」

「……」

 恒一と澪が一瞬だけ顔を見合わせる。

「言いそう」

 澪がぼそりと言う。

「言いそうだな」

 恒一も頷く。


 紗雪は少しだけ肩の力を抜いた。

「ですから、もっと近寄りがたい場所かと思っておりましたの」

「実際、忙しい時は近寄らないほうがいい」

 澪が言う。

「それは、わかりますわ」

「でも今は平気」

「……」

「何?」

 澪が首を傾げる。

「もしかして、見たいの?」

「……!」


 その直球に、紗雪の頬が一気に赤くなった。


「み、見たいなどとは」

「見たいんだ」

 恒一がつい続ける。

「ち、違いますわ! ただ」

 紗雪は視線を泳がせる。

「その……ここが、どのような空気なのかを」

「見たいんだな」

「ですから、言い方というものが」


 そこまで言ってから、紗雪は小さく息を吐いた。


「……少しだけ」

 彼女は、今度は逃げずに言う。

「少しだけ、見てみたいですの」


 厨房に、少し沈黙が落ちた。


 恒一は反射的に澪を見る。

 この店の厨房は、今では自分と澪の領域でもある。

 祖父から受け継いだ場所であり、今の店の心臓部だ。

 そして――森へ繋がる冷蔵庫もある。


 無闇に見せていい場所ではない。

 それはそうだ。


 だが同時に、紗雪はもうただの客でもなかった。


 この店の変化を見ている。

 家の中の断片を拾っている。

 外の気配を持ち込んでくれる。

 そして何より、ここを帰りたい場所のひとつだと言った。


 その彼女が、「少しだけ見てみたい」と言うのを、ただ客だからと断ち切るのは、少し違う気がした。


「……どこまで?」

 澪が静かに言う。

「え」

 紗雪が目を瞬く。

「全部じゃない」

 澪は言う。

「でも、仕込み台のあたりまでなら」

「火乃坂さん」

 恒一が小声で言う。

「何」

「いいのか」

「恒一は?」

「……」

「私は、いいと思う」

 澪は紗雪をまっすぐ見た。

「でも、今見せるのは“店の厨房”まで」

「……はい」

 紗雪はすぐに頷いた。

「それ以上を見たいなどとは申しませんわ」

「なら、いい」

「……」


 そのやり取りを聞きながら、恒一は少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。


 澪は線を引く。

 だが、その線の内側に入れる相手は、ちゃんと見て決める。

 それが今の返答だった。


「じゃあ」

 恒一が言う。

「足元だけ気をつけて」

「ええ」

 紗雪は立ち上がる。

「お邪魔いたしますわ」


 その一言だけで、空気が少し変わる。


 客席から厨房へ入る一歩は、思っているよりずっと大きい。


 紗雪は恐る恐る、けれど所作は崩さずに一歩踏み入れた。

 狭い。

 思った以上に近い。

 鍋と作業台とシンクの距離が近すぎて、人の熱が逃げにくい。

 客席から見ているより、はるかに“人の仕事場”の匂いが強い。


「……まあ」

 紗雪が小さく息を呑む。

「何ですの、これ」

「何って」

 恒一が少し笑う。

「厨房です」

「それは存じております」

「じゃあ何」

「もっと、広いのかと思っておりましたの」

「この店に何を期待してたんだ」

 澪が言う。

「だって、客席から拝見しておりますと、もっと奥があるように見えますのに」

「錯覚」

「そうですの……」


 紗雪は作業台へ視線を移す。

 白濁茸。風縫いの骨。角兎の煮込みの鍋。パンの生地。使い込まれた布巾。鍋底の薄い焦げ跡。どれも、客席からは見えない距離のものたちだ。


 彼女は、それらをひどく真剣に見ていた。


「……昔と違いますわ」

 ふいに紗雪が言う。

「昔?」

 恒一が訊く。

「祖父様に連れられて来ていた頃のことですの」

「うん」

「もちろん、全部覚えているわけではありませんのよ」

 紗雪は慎重に言葉を選ぶ。

「けれど、あの頃の厨房は、もっと……静かだった気がいたしますわ」

「静か?」

「ええ。悪い意味ではなく」

 彼女は少しだけ首を振る。

「今のほうが、人がいますの」

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一は少し困ったように笑う。

「それ、どういう意味で?」

「そのままですわ」

 紗雪は言う。

「昔は、祖父様の店だったのでしょう」

「うん」

「でも今は」

 彼女の視線が、恒一から澪へ、そしてまた厨房全体へ流れる。

「今のこの厨房には、朝倉さんと火乃坂さんの空気がございますもの」


 その一言で、時間が少しだけ止まった気がした。


 恒一は返事ができない。

 澪も、珍しく何も言わない。


 厨房は仕事場だ。

 火と音と匂いのある場所だ。

 客へ皿を出すための通過点でもある。


 だが同時に、それは今の店の人間関係そのものが一番濃く出る場所でもある。

 近すぎる距離。

 遠慮できない会話。

 無言でもわかる段取り。

 失敗すればすぐに見える焦り。

 うまくいった時にだけ、一瞬だけ揃う呼吸。


 その全部を、紗雪は感じ取ったのだろう。


「……褒めてる?」

 澪がようやく言った。

「もちろんですわ」

 紗雪はすぐに答える。

「お二人でなければ、こういう空気にはならないのでしょう?」

「……」

「そういう意味では」

 彼女は少しだけ頬を赤くしながらも、続けた。

「わたくし、今の厨房のほうが好きかもしれませんわ」

「……」

「何ですの、その沈黙は」

「いや」

 恒一がようやく言葉を絞り出す。

「ちょっと不意打ちだった」

「そう?」

「かなり」

「……そうですの」


 紗雪はそこで少しだけ視線を伏せた。

「失礼いたしましたわ」

「いや、違う」

「違いますの?」

「うれしい」

「……」

「かなり」

「……そういうふうに言われますと」

「困る?」

「困りますのよ」

「最近そればっかりだな」

 澪が言った。

「火乃坂さんまで」

「でも、ほんとにいいこと言ったと思う」

「……」

「私も」


 澪がそう言った瞬間、今度は紗雪が完全に言葉を失った。


 頬が赤い。

 けれど、逃げるようには視線を逸らさない。

 その代わり、厨房の一番奥――古い冷蔵庫の手前で、ぴたりと足を止めた。


 ほんの一瞬。

 ほんの一瞬だけ、三人の間に別の緊張が走る。


 冷蔵庫。


 その先は、まだ“店の厨房”ではない。

 澪が言った線引きの外側だ。


 紗雪もその空気を感じ取ったのだろう。

 それ以上は一歩も踏み込まず、静かに言った。


「……ここまで、ですわね」

「うん」

 澪が答える。

「今日は」

「ええ」

 紗雪は小さく頷く。

「それで充分ですの」


 その言い方があまりに自然で、恒一は少しだけ安堵した。


 この人は、やはりちゃんとわかっている。

 見えていないものに無神経に手を伸ばさない。

 その距離感があるからこそ、ここまで入れられたのだ。


 紗雪は客席へ戻る前に、もう一度だけ厨房全体を見渡した。


「……好きですわ」

 彼女が小さく言う。

「何が」

 恒一が訊くと、

「この匂いと」

 紗雪は少しだけ笑う。

「この、狭いのにちゃんと回っている感じが」

「褒めてる?」

 恒一がまた訊く。

「だから、最大級に」

 紗雪は言った。

「この店が、今のあなた方のお店になっている感じがいたしますもの」


 それはたぶん、今日一番深い言葉だった。


 営業後の静かな店で、厨房に立ったまま、恒一はしばらくそれを噛みしめていた。


 祖父の店。

 自分の店。

 澪と立つ厨房。

 紗雪が好きだと言った空気。


 玻璃亭は、少しずつ、本当に“今の店”になりつつある。

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