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第26話 澪の線引き

森に入る時、人は自分が何者なのかを少しだけ誤解しやすくなる。


 朝倉恒一は、それをこの短いあいだで何度も味わっていた。


 冷蔵庫の底の先に、異世界の森がある。

 そこには風縫いがいて、角兎がいて、白濁茸が生えている。

 銀座の地下の小さな店では到底手に入らない食材が、現実の仕入れ表の外側で息をしている。


 料理人がそこへ足を踏み入れれば、最初に起こるのは恐怖ではない。

 たぶん、欲だ。


 この匂いを皿にしたい。

 この味を客へ出したい。

 この食材で、今の店をもう一歩先へ進めたい。


 その欲は、料理人として間違っていない。

 けれど、間違っていないからこそ危ない。


 今では恒一もそれがわかっていた。


 営業前の厨房で、彼は革袋の中身を確認しながら、隣の澪をちらりと見た。


 火乃坂澪はいつもより少しだけ無口だった。

 怒っているわけではない。

 むしろ逆で、本気で危ないと判断している時ほど、彼女は言葉を削る。


 短槍、縄、チョーク、薄い布、折りたたみのナイフ。

 必要なものだけを、必要な順番で入れていく手つきに迷いがない。


「……今日は、かなり本気だな」

 恒一が言うと、

「今日は、かなり本気」

 と澪はそのまま返した。

「オウム返しかよ」

「オウム返しじゃなくて確認」

「何の」

「恒一が、ちゃんと本気で慎重になるかどうか」

「……」

「顔はまだちょっと怪しい」


 その一言に、恒一は苦笑した。


「そんなに出てる?」

「出てる」

「最近ほんとそればっかりだな」

「最近ほんと出てるから」

「便利な言葉だな」

「便利だから」


 その返しに、少しだけ空気がやわらいだ。

 けれど、澪の手は止まらない。


 昨夜、紗雪が持ち込んだ情報は大きかった。


 地下の店。

 境界。

 回収。

 搬出。

 店の下を通路にしてはならない。


 断片は断片のままだ。

 けれど、断片の輪郭はもう十分に鋭い。

 玻璃亭の地下は、ただの秘密の仕入れ先ではない。

 あの森は境界であり、その一部を誰かが使っている。

 そして、こちらは“店”としてそこへ噛んでいる。


 だとすれば、なおさら線引きが要る。


「今日、確認するのは二つだけ」

 澪が言った。

「二つ?」

「別入口の手前の印の増減」

「うん」

「それと、前に見た休憩場所みたいな開けたところ」

「……」

「それ以上は行かない」

「別入口の向こうも?」

「行かない」

「でも、気になるだろ」

「気になる」

 澪は即答した。

「でも、行かない」

「何で」

「線を決めないと、あっちに引っ張られるから」


 その言葉は妙に重かった。


 あっちに引っ張られる。

 森のことを言っている。

 けれど同時に、料理人の欲のことも言っているのだとわかった。


「……」

 恒一が黙っていると、澪はようやくこちらを見た。

「この前から、ずっと言おうと思ってた」

「何を」

「森ってさ」

「うん」

「入るたびに、“もう少し先を見たい”って思わせるでしょ」

「……」

「それ、たぶん危ない」

「……うん」

「食材の匂いのせいだけじゃない」

「じゃあ何だよ」

「わかんない。でも、あそこって“先へ行ける気がする”場所なんだよ」

「……」

「だから線決めないと、たぶん普通にやられる」


 普通にやられる。

 その言い方がやけに生々しくて、恒一は息を吐いた。


 たしかにそうだ。

 森へ入るたび、自分は“もう一つだけ見てみたい”“もう一歩だけ進みたい”と思っていた。

 別入口が気になる。

 引きずられた跡の先が気になる。

 人の声がした方向が気になる。


 好奇心でもある。

 店のためでもある。

 けれど、それだけで済ませてはいけない類の引っ張られ方だった。


「……わかった」

 恒一が言う。

「本当に?」

「本当に」

「じゃあ今日から、ちゃんとルール作る」

「ルール」

「うん」

 澪は革袋の口を閉じた。

「森に入るのは二人だけ」

「まあ、それは当然」

「一人では絶対入らない」

「……」

「“ちょっとだけ”もなし」

「はい」

「印のない先へは進まない」

「……はい」

「収穫より帰還優先」

「うん」

「客が多い日、営業に響きそうな日は無理に入らない」

「……うん」


 一つひとつは当たり前だ。

 当たり前なのに、今まではどこかで“その日その場の判断で何とかなる”と思っていた。


 そうではない。

 もう、そういう段階ではないのだ。


「あと」

 澪が続ける。

「何か一つでも変な感じしたら、即戻る」

「変な感じ?」

「匂いでも、音でも、足跡でも、空気でも」

「ずいぶん曖昧だな」

「曖昧でいい」

「……」

「そういうの、曖昧なまま拾わないと間に合わない時あるから」

「……そうだな」


 澪の言うことは、理屈だけでなく、感覚の側からも正しい。

 森はまだ、自分たちに説明できるほど整理された場所ではない。

 だからこそ、説明できない違和感を無視してはいけない。


「……お前」

 恒一がぽつりと言う。

「何」

「いつの間に、そんなにちゃんと危ない場所の人間みたいになったんだ」

「失礼」

「褒めてる」

「褒められてる感じしない」

「でも頼りになる」

「それならまあ」


 澪は少しだけ肩をすくめた。

「というか、誰かが現実担当しないと危ないでしょ」

「俺が現実見えてないみたいに言うな」

「最近はちょっと」

「……否定しきれないな」

「でしょ」

「森と店が絡み始めてから、ちょっと欲張ってる自覚はある」

「うん」

「店のためにって思うほど、先見たくなる」

「それ」

 澪が指さす。

「それが危ないって言ってる」

「……はい」


 言い返せなかった。


 玻璃亭を立て直したい。

 祖父の店を、自分の店として続けたい。

 紗雪が帰ってきたいと思う場所を守りたい。

 老紳士が消させたくないと言う火を、自分の火として保ちたい。


 理由が増えている。

 そして理由が増えるほど、無茶をしなくなると澪は言った。

 たしかにその通りだ。


 けれど反面、理由が増えるほど、“そのためにもっと先を見なければ”とも思ってしまう。

 その矛盾の中で、自分は少しずつ森のほうへ寄りすぎていたのかもしれない。


「……悪い」

 恒一が言った。

「何が」

「言われるまで、わかってるつもりでわかってなかった」

「うん」

「森って、もう完全に仕入れの延長じゃないな」

「うん」

「だったら、線は必要だ」

「そう」


 澪はそれでようやく、少しだけ表情を緩めた。


「あと、もう一個」

 彼女が言う。

「まだあるのか」

「大事だから」

「はいはい」

「森のこと、店に持ち込みすぎない」

「……」

「営業中に顔へ出すなって意味」

「それは努力してる」

「努力じゃなくて守る」

「最近それ多いな」

「大事だから」


 そこへ、階段の上から足音がした。


 少しだけ速く、少しだけ緊張していて、それでももうこの地下へ下りてくること自体は決まっている足音。


「来た」

 澪が小さく言う。

「うん」


 東條院紗雪だ。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日の紗雪は、少しだけ珍しく黒に近い濃紺のワンピースだった。

 華やかさよりも落ち着きが先に立つ色。だが、彼女が着ると暗くは見えない。細い首筋と白い肌が際立ち、むしろ静かな品が増していた。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は頷き、すぐに二人の顔を見比べた。

「本日も、何か決めていらしたお顔ですわね」

「また顔ですか」

「見えますもの」

「この店、みんなそこばっかり見るな」

「だってわかりやすい」

 澪が言う。

「火乃坂さんまで」

「事実なので」

「便利な言葉ですわね」

「便利だから」


 その返しに、珍しく紗雪が少しだけ笑った。


 席についたあと、紗雪は水を一口飲み、それから真面目な顔で言う。

「何か、変わりましたの?」

「森のことで」

 恒一が言いかけると、澪がすぐにその言葉の頭を切った。

「店の動き方」

「……」

 恒一は一瞬だけ黙り、それから頷く。

「うん。少し、ルールを決めた」

「ルール?」

 紗雪が首を傾げる。

「この店を守るための」

「……そう」

 紗雪は少しだけ目を細めた。

「でしたら、よいことですわね」

「そう思います」

「ええ。勢いだけで守れるほど、店というものは軽くありませんもの」

「……」

「何ですの」

「今日、やけに刺さる」

「客ですもの」

「便利な言葉だな」

「便利ですもの」


 最近、本当にそういう返しばかりだった。


 営業が始まる。


 今日の店は落ち着いていた。

 客の入りは悪くない。だが、満席のような熱ではなく、呼吸の整った夜の流れだった。


 帰りの白を頼む客。

 角兎の煮込みを頼む常連。

 黒板の“季節の小皿あり”に興味を示す新規。

 どの皿も、もう少しずつ店の顔になってきている。


 その安定感の中で、恒一はふと気づいた。


 線引きというのは、森にだけ必要なものではない。

 店にも必要なのだ。


 どこまで見せるか。

 どこから先は見せないか。

 どの料理を前へ出し、どの食材を引かせるか。

 どの客にどこまで話し、どこで止めるか。


 そういう線を引くことが、今の玻璃亭には必要だった。


 閉店後、紗雪が帰る前に言った。


「本日、少しだけ落ち着いて見えましたわ」

「僕が?」

「ええ」

「それはよかった」

「火乃坂さんのおかげですわね」

「……」

 澪が少しだけ目を上げる。

「何でそう思うんですの?」

「なんとなく」

 紗雪は少しだけ微笑んだ。

「本日の厨房は、“二人でちゃんと決めた空気”がしておりましたもの」


 それを聞いて、澪が珍しく返答に困った顔をした。


 恒一はその横顔を見て、少しだけ笑いそうになる。

 森の中では即断即決で線を引く相棒が、こういう時だけ妙に不器用なのは、少し可笑しくて、少しありがたかった。

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