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第25話 紗雪、家で耳を澄ます

 大きな家というものは、不思議なほど音を飲み込む。


 廊下は長く、天井は高く、扉は厚い。人が何人いても生活音は遠く、気配だけがすれ違う。足音は絨毯に吸われ、会話は曲がり角で薄まり、笑い声ですら、どこかよそゆきになる。


 東條院紗雪は、その静けさが昔から少し苦手だった。


 賑やかな家ではない。

 冷たい家でもない。

 きちんと整えられ、守られ、上等で、何不自由なく暮らせる家だ。

 けれど、その“何も欠けていない感じ”のせいで、時々、自分の呼吸だけが妙に大きく聞こえる。


 だからこそ、銀座の地下にある小さな店の音が、余計に恋しくなるのかもしれなかった。


 鍋の鳴る音。

 皿の触れ合う音。

 低い換気扇の唸り。

 カウンター越しに交わされる短い言葉。

 何かを無理に言わなくても、そこにいてよいと感じられる空気。


 紗雪は自室の窓辺に立ちながら、昨夜の玻璃亭を思い出していた。


 老紳士の客。

 祖父の知人。

 店を“確認”しに来たようなあの男。

 そして、帰り際に祖父が何も言わず、ただ静かにその客を見送っていた横顔。


 あの表情を、紗雪は知っている。


 普段よりほんの少しだけ、言葉を減らす時の祖父の顔だ。

 感情が薄いのではなく、むしろ逆で、軽々しく外へ出したくないものを内側へ留めている時の顔。


「……」


 紗雪は小さく息を吐いた。


 何でも知りたいわけではない。

 祖父が自分へ話さないことを、無理に聞き出したいとも思わない。

 だが、玻璃亭のことが家の中で“懐かしい店”以上の意味を持ち始めているのは、もうはっきりしていた。


 だったら、自分も少しは耳を澄ませるべきなのではないか。


 それは、盗み聞きとは違う。

 少なくとも紗雪は、そう思いたかった。

 ただ、この家の中を流れる空気の向きを、以前より真剣に知ろうとするだけだ。


 夜の食事を終えたあと、祖父はいつもの書斎へ入った。

 紗雪も自室へ戻ったが、しばらく本を開いたまま、頁をほとんどめくらなかった。


 廊下の向こうに、人の気配が増えている。


 昔からこの家には来客があった。

 祖父は公には引いていても、完全に人付き合いを断つような人ではない。

 だが最近の来客は、どこか質が違う。

 人数が多いわけではない。声が大きいわけでもない。むしろ逆だ。慎重で、静かで、こちらへ聞かせたくない空気をまとっている。


 紗雪は本を閉じた。


 自室の扉を開ける。

 廊下へ出る。

 それだけで、少し胸が鳴る。


 別に悪いことをするわけではない。

 自分の家の廊下を歩くだけだ。

 だが、祖父の家の空気には、“今はここへ来るべきではない”という無言の境界がある。幼い頃からそれを感じ取って生きてきたせいで、その線をほんの少し跨ぐだけでも、妙に息苦しい。


 書斎のほうへ向かう途中、角を曲がった先で、低い声が二つ重なった。


 男の声だ。

 一つは祖父ではない。

 もう一つも、見知った使用人の声ではない。


 紗雪は思わず足を止めた。


「……だから、地下の店が今も機能しているうちに」

「わかっている」

「ですが、向こうも気づき始めています」


 “地下の店”。


 その一言だけで、心臓が強く跳ねた。


 紗雪は壁際へ身を寄せる。

 聞くつもりなどなかった、という言い訳はもう通らない。

 けれど、このまま引き返すこともできなかった。


「気づくのが遅いくらいだ」

 落ち着いた低い声。祖父だった。

「火が戻れば、人も戻る。人が戻れば、目も戻る」

「では、なおさら」

「なおさら、今は手荒に動けん」


 祖父の声は大きくない。

 だが、きっぱりとしていた。


 相手の男はしばらく黙り、それから少しだけ声を落とす。

「例の搬出についてですが」

「……」

「境界の向こうで動きが早まっています」

「回収側か」

「おそらく」

「店の下を使わせるな」

 祖父は即座に言った。

「少なくとも、あそこを通路にしてはならん」


 紗雪の指先が、ぎゅっと強くなる。


 店の下。

 通路。

 境界。

 回収。


 断片だけだ。

 けれど断片のままでも、充分すぎるほど不穏だった。


 祖父は、玻璃亭を守りたいと思っている。

 そのこと自体はわかる。

 だが、それは単に昔から通った店だからではない。

 もっと別の理由で、あの店が“使われること”を警戒している。


「では、地上側は」

 男が問う。

「まだ抑える」

 祖父が答える。

「だが長くは持たん。向こうも、店そのものの価値を測り始めている」

「……」

「だからこそ、今は営業を保たせるほうが先だ」


 営業を保たせる。


 その言葉に、紗雪はわずかに目を伏せた。


 やはり、祖父は店のことを見ている。

 しかも、ただ残すだけではなく、“ちゃんと店として立っているか”まで含めて。


 その時、廊下の反対側から足音がした。


 紗雪は反射的に身を離す。

 ちょうど通りかかった使用人がこちらへ会釈した。

「お嬢様」

「……ええ」

 紗雪は平静を装って頷く。

「少し、お水を」

「かしこまりました」


 使用人が去る。

 だが、そのわずかなやり取りの間に、書斎の向こうの会話は止んでいた。


 もうこれ以上は無理だ。


 紗雪はそのまま自室へ戻った。


 扉を閉めた瞬間、足から力が抜ける。

 椅子へ座り込んで、両手で膝を押さえた。


「……通路に、してはならない……」


 小さく呟いた声が、やけに部屋の中へ響く。


 玻璃亭は、祖父にとっても、ただの思い出の店ではない。

 境界。

 回収。

 搬出。

 店の下。

 通路。


 そこまで聞いてしまえば、もう見て見ぬふりはできなかった。


 同時に、怖くもある。


 自分は今、どこまで踏み込んでよいのか。

 祖父が話さない領域へ、勝手に近づこうとしているのではないか。

 けれど、あの店が帰る場所のひとつである以上、何も知らないまま“守ってください”とだけ願うのは卑怯な気もした。


 紗雪は机の引き出しを開け、小さなメモ帳を取り出した。


 普段ならこんなものに家の会話を書くことはない。

 だが今は、断片のまま消してしまうほうが怖い。


 地下の店

 境界

 回収

 搬出

 通路にしてはならない

 営業を保たせるほうが先


 書き留めた文字を見つめていると、胸の奥が少しずつ冷えていく。

 だが、不思議と同時に、別の熱もあった。


 祖父は、あの店を守ろうとしている。

 店の火が消えないことを、今も重要だと見ている。

 それは救いだ。


 そして、その火を実際に守っているのは、今は朝倉恒一たちだ。


 祖父の家の中だけで物事は動いていない。

 店の中でも、もう流れは変わり始めている。

 帰りの白。角兎の煮込み。黒板の見せ方。客の目。普通の良店として立ち続ける工夫。


 玻璃亭は、誰かの都合でただ残されているだけではない。

 少なくとも、恒一と澪は、店として立たせようとしている。


 そのことを、紗雪は思い出した。


「……話さないと」


 誰に、は考えるまでもない。


 翌日。

 紗雪はいつもより少し早い時間に玻璃亭へ向かった。


 銀座の裏通りは、夕方になると独特の光を持つ。

 表通りの華やかさが少しだけ届き、だがそのままではない。人の多さも喧騒も、細い路地へ入ると少し整理される。玻璃亭のある古いビルは、その“整理された気配”の中で、時代に取り残されたように静かだった。


 階段を下りる。


 この数段の感覚も、今ではかなり体に馴染んでいた。

 初めて来た時のような、ここへ来てしまっていいのかという緊張は薄い。

 代わりに、今日は“伝えなければならないことがある”重さがある。


 扉を開く。


「ご、ごきげんよう」


 恒一はちょうど黒板の前にいた。

 澪はカウンターの内側でパンを並べている。


 二人が同時にこちらを見る。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は小さく頷く。

「本日は……少し早く参りましたの」

「たまたまじゃない感じですね」

 澪がさらりと言った。

「火乃坂さん」

「だって顔」

「……」

「今日、完全に話ある顔」

「お二人とも、そこばかり見すぎではなくて?」


 紗雪はそう言ったが、否定はしなかった。


 席へ着く。

 いつものようにメニューを開く前に、店内を見渡す。

 この地下の空気が、昨夜より少しだけ現実の避難所みたいに感じられた。


「本日は、帰りの白を」

「かしこまりました」

 恒一が答える。

「それと」

 紗雪は少しだけ迷った。

「営業が落ち着いたら、少し」

「わかりました」

 恒一はすぐに頷いた。

「今日もですね」

「ええ」


 その短いやり取りだけで十分だった。


 帰りの白が出る。

 白い湯気が立ちのぼる。

 紗雪は一口飲んで、ようやく少しだけ呼吸を整えた。


「……話せそうですか」

 恒一が静かに訊く。

「はい」

 紗雪は頷く。

「昨夜、家で少し……聞いてしまいましたの」


 そこで、澪が厨房の奥から一度だけこちらを見た。

 目つきが変わる。

 もう冗談を言う気配はない。


「何を」

 恒一が声を落とす。

「地下の店、と」

 紗雪も同じく声を抑える。

「境界、回収、搬出」

「……」

「それから」

 紗雪は恒一をまっすぐ見た。

「“店の下を通路にしてはならない”と」


 帰りの白の湯気が、二人の間を静かに揺れた。


 店の下を、通路にしてはならない。


 それは、森で感じていた違和感と、昨夜の老紳士の言葉と、すべてを一本に結ぶのに充分な一言だった。


 玻璃亭はただの料理店ではない。

 そして、誰かはそこを“通路”として使いたがっている。

 老紳士は、それを止めようとしている。


 その真実が、ついに紗雪の口からももたらされたのだった。

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