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第24話 老紳士の客

料理店には、客が店を選ぶ夜と、店が客を見定められる夜がある。


 もちろん、店側が客を選ぶなど本来はおこがましい。

 どんな客が来ようと、皿を整え、火を入れ、食べるに足るものを出す。それが料理人の仕事だ。


 だが、それでも長く店に立っているとわかる。

 客のほうもまた、料理だけを食べに来ているわけではない。


 空気を見に来る客。

 店主の顔を見に来る客。

 その店が今、どういう場所になっているのかを確認しに来る客。


 その夜の玻璃亭には、まさにそういう客が来た。


 営業前、朝倉恒一はカウンターの上にグラスを並べながら、黒板の文字を見ていた。


 本日のおすすめ

 角兎の赤ワイン煮込み

 帰りの白

 季節の小皿あり


 風縫いをあえて表へ出さない見せ方にも、少しずつ慣れてきた。

 客に問われれば出す。

 だが黒板では“店の顔”を整える。


 普通の良い店であること。

 それが今の玻璃亭の防御であり、同時に攻めでもあった。


「今日、ちょっと静かだね」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、カウンターの奥で帰りの白のベースを温めながら、厨房の外を見ている。

 まだ客のいない店内は、地下らしいやわらかな静けさに沈んでいた。


「悪い意味で?」

 恒一が訊く。

「まだわかんない」

「便利な言い方だな」

「便利だから」

「最近それ多いな」

「事実なので」


 澪はそう言ってから、少しだけ目を細めた。

「でも、何か来る感じはする」

「客?」

「客」

「普通の?」

「それは知らない」


 曖昧なのに、妙に嫌な予感だけは残る言い方だった。


 恒一が返そうとした時、階段の上から足音がした。


 ゆっくり。

 無駄がない。

 そして、一人ではない。


 恒一と澪は、ほとんど同時に視線を上げた。


 扉が開く。


 最初に入ってきたのは、いつもの上品な老紳士だった。

 濃紺のスーツ、整えられた白髪、静かなのに場の輪郭を変える気配。見慣れてきたはずなのに、やはりこの人が店へ入ると空気が一段深くなる。


「こんばんは」

 老紳士は穏やかに言う。

「こんばんは」

 恒一が頭を下げる。


 そして、その半歩後ろから、もう一人の客が入ってきた。


 五十代後半くらいの男だった。

 こちらも身なりはよい。だが、老紳士のような静かな品ではなく、“きちんとした場所で長く振る舞ってきた人間”の整い方をしている。グレーのスーツ、控えめなネクタイ、目元に刻まれた笑い皺。笑えば人当たりは良さそうだが、その目の奥には人を見る癖がある。


「こちらへ」

 老紳士が短く言うと、男は小さく頷いた。


 二人を奥のテーブル席へ案内する。

 老紳士が誰かを伴って来るのは、紗雪を除けば初めてだった。


「来たね」

 澪が小さく言う。

「来たな」

 恒一も低く返す。

「知り合い?」

「たぶん」

「でも、普通の会食じゃない」

「……うん」


 普通の会食なら、もう少し軽い空気になる。

 あるいは、もっとあからさまに店を使う側の顔になる。

 だが、今テーブル席にいる二人の間には、“久しぶりにここを確かめに来た”ような気配がある。


 メニューを開く前に、同行の男は店内を見渡した。

 照明、カウンター、厨房、棚、黒板。

 値踏みではない。確認に近い。


「お飲み物は」

 恒一が訊く。

「私は赤を」

 老紳士が答える。

「彼にも同じものを」

「かしこまりました」


 ワインを注ぎながら、恒一は二人の様子をちらりと観察した。


 同行の男は、席についてからも店全体に気を配っている。

 ただし、それは再開発側の男たちのような“探る視線”ではない。もっと別の、確認するような、安心するような目だった。


 グラスを置くと、男は軽く会釈した。

「ありがとうございます」

 その声音は柔らかい。

「噂には聞いていましたが」

「……」

「こうして残っていると、少しほっとしますね」


 恒一は一瞬だけ返事に迷った。


 残っている。

 その言い方には、ただ営業が続いていること以上の意味が含まれている。


「ありがたいことです」

 老紳士が代わりにそう返した。

「ええ」

 男はワインを一口だけ含み、微かに笑う。

「火はまだ保たれているようだ」


 その一言で、店の中の空気が静かに変わった。


 澪も、それを聞いてわずかに目を細める。

 “火”という言葉を、ただ営業中の厨房の比喩で使っているようには聞こえなかった。


「ご注文は」

 恒一は表情を変えずに訊いた。

「帰りの白を」

 老紳士が言う。

「彼にも」

「それと、角兎もいただけますか」

 同行の男が続ける。

「もちろんです」


 厨房へ戻る。


「今の聞いた?」

 澪が言う。

「聞いた」

「“火はまだ保たれている”」

「うん」

「完全に内輪の言葉」

「そうだな」

「嫌な感じ?」

「……嫌っていうより、重い」

「わかる」


 帰りの白を仕上げる。


 今日の白濁茸は少し香りが立っている。火を弱め、音を立てずにまとめる。

 帰りの白は今、店の静かな芯になり始めていた。

 だからこそ、こういう客に出すのは少し緊張する。

 店の今そのものを差し出すようなものだからだ。


 皿を出す。


 二人はまず香りを確かめ、それから静かにスプーンを取った。


 老紳士はいつも通り、変化を大きく見せない。

 だが同行の男は、一口飲んだ瞬間、ほんのわずかに目を見開いた。


「……」

 それから二口目まで、何も言わない。

 沈黙の質が悪くないとわかるのは、料理人の勘だ。


「どうでしょう」

 恒一が控えめに訊くと、

「驚きました」

 男は素直に言った。

「白いのに、静かなだけではない」

「……」

「懐かしいようでいて、今の皿だ」

「ええ」

 老紳士が小さく頷く。

「その通りです」


 同行の男はそこで、ようやく店内をもう一度見た。

「なるほど」

「何がですか」

 恒一が訊くと、男は少しだけ笑った。

「“残したい”と言われる理由が、少しわかりました」


 その言葉は、たしかに褒め言葉だった。

 だが同時に、ただの客の感想ではない。


 残したい。

 誰が。

 なぜ。

 それを知っている人間の口ぶりだ。


 角兎の煮込みも出す。

 今度は男のほうが先に口を開いた。


「こちらも良い」

「ありがとうございます」

「祖父君の鍋に似ているようで、似ていない」

 老紳士が言う。

「そのあたりが、今のあなたの良いところでしょう」

「……」

「受け継ぐだけなら、残せませんからな」


 同行の男は、その言葉に静かに頷いた。

「だからまだ、ここに価値がある」


 “まだ”。


 その一語が、恒一の胸に小さく引っかかった。


 まだ、ということは、価値がなくなる可能性もどこかで語られているのだろうか。

 あるいは、守る側の人間たちの中でも、“今の玻璃亭が本当に残すに値するか”を見定めている者がいるのかもしれない。


 料理を出しているだけなのに、いつの間にか試されているような気分になる。


 だが、不思議と不快ではなかった。

 少なくとも、再開発側らしき男たちに見られた時の不気味さとは違う。

 この二人は、店を潰すためではなく、店が本当に立ち続けられるかを見に来ている。


 それでも、重いことに変わりはないが。


 会食の途中、紗雪が店へ入ってきた。


 いつも通り、少しだけ緊張した「ご、ごきげんよう」。

 だがテーブル席に祖父の姿を見つけた瞬間、彼女の表情が一瞬だけ固まる。


「……お祖父様」

「こんばんは、紗雪」

 老紳士は穏やかに言った。

「お、お早いですのね」

「たまたまです」

 そのたまたまが、たぶん全然たまたまではない。


 紗雪の視線が、祖父の向かいの男へ向く。

 彼もまた、やわらかく一礼した。

「こんばんは」

「……ごきげんよう」


 紗雪はそれ以上は何も言わず、今日はカウンター席へ座った。

 その背筋はいつも通り綺麗だが、肩だけがほんの少し硬い。


 厨房へ戻ると、澪が言う。

「気まずそう」

「うん」

「知ってる人っぽい?」

「たぶん」

「でも好きじゃない感じ」

「……そんな気はする」


 紗雪に水を出すと、彼女は小さな声で言った。

「本日は、帰りの白を」

「はい」

「それと」

 彼女は少しだけ迷ってから続ける。

「あとで、もしよろしければ」

「はい」

「少しだけ、お話を」


 やはりそう来る。


「わかりました」

 恒一は頷いた。

「営業が落ち着いたら」

「ええ」


 帰りの白を出す。

 紗雪は今日は、味を見る前に祖父のテーブルを一度だけ見た。

 あの客が誰なのか、彼女は知っているのだろう。

 だが、その関係は単純な親しさではない。むしろ、家の中の“仕事の空気”に近い何かを感じているように見えた。


 食事を終えたあと、老紳士たちは長居せず席を立った。


 会計の際、同行の男は恒一へ名刺も何も渡さなかった。

 ただ一言だけ、静かに言う。


「良い店です」

「ありがとうございます」

「表へ出しすぎないほうが、長く残る店もあります」

「……」

「ですが、火が小さすぎても消える」

 男は微かに笑った。

「難しいものですね」


 それだけ言って帰っていった。


 老紳士もまた、最後に「また来ます」とだけ告げる。

 扉が閉まり、足音が階段の上へ消えるまで、店の中には誰も声を出さなかった。


 先に沈黙を破ったのは紗雪だった。


「……あの方」

「知ってるんですか」

 恒一が訊く。

「ええ。祖父の知人ですわ」

「それだけ?」

「それ以上でも、それ以下でもありませんの」

「……」

「少なくとも、わたくしにとっては」


 その言い方が、少し珍しく硬かった。


 紗雪はカップを持つ指先をわずかに締める。

「祖父の家には、時々ああいう方がいらっしゃいますの」

「仕事の?」

「そういう言い方でよろしいのかもしれませんわね」

「……」

「店を見に来たのですわ」

 紗雪ははっきり言った。

「祖父ではなく、この店を」

「やっぱり」

「ええ。ですから」

 彼女はまっすぐ恒一を見る。

「本日は、とても大事な夜だったのだと思いますわ」


 大事な夜。


 その言葉の意味は、痛いほどわかる。

 あの同行の男は、料理を食べに来た客でもあった。

 だが、それ以上に、玻璃亭が“残すに値する店か”を見に来た人間だった。


「どう見えたんでしょうね」

 恒一が小さく呟くと、

「……残したい、と仰ったのでしょう?」

 紗雪が返す。

「ええ」

「でしたら、少なくとも悪くはなかったはずですわ」

「そうだといいんですけど」

「そうですわ」

 紗雪は少しだけ顎を上げる。

「わたくしが保証して差し上げます」

「なぜ紗雪さんが」

「わたくしは客ですもの」

「またそれですか」

「客は、そういうことがわかるものですの」


 その言い方に、恒一は少しだけ笑った。


「ありがとうございます」

「ですから……」

「礼を言われると困る」

「もう覚えていらっしゃる」

「最近頻出なので」

「まったく」


 そう言いながらも、紗雪は少しだけ安心したように見えた。


 あの男が店をどう見たのか。

 それはまだ完全にはわからない。

 けれど少なくとも、“火はまだ保たれている”と確認しに来た人間に対して、玻璃亭は今夜、ちゃんと料理店として立っていた。


 それは大きい。


 営業後、片づけの最後に澪がぽつりと言った。

「見られてたね」

「うん」

「でも、悪い感じじゃなかった」

「うん」

「気持ち悪いけど」

「それは否定しない」

「店って大変」

「今さらだな」

「今さら」


 恒一は最後に、黒板の文字を消す前に少しだけ眺めた。


 普通の店のふり。

 いや、普通の良い店として立つこと。

 それが今夜、ちゃんと意味を持った気がした。


 そして同時に、この店を取り巻く“普通ではない人たち”の存在も、いよいよはっきりし始めていた。

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