第23話 帰りの白に、続きが要る
同じ皿を出し続けることと、同じ店であり続けることは、たぶん少し違う。
朝倉恒一は、営業前の厨房で白濁茸を薄く裂きながら、そのことを考えていた。
帰りの白は、少しずつこの店の皿になってきている。
祖父のレシピ帳に残っていた、白いスープの記憶。
紗雪が幼い頃に覚えていた、帰ってきた味。
それを今の玻璃亭の一皿として形にしたことで、店はたしかに一歩進んだ。
けれど、進んだなら、その先が要る。
同じ料理を磨くことは大事だ。
だが、同じ料理だけにしがみついた瞬間、それは“今の店”ではなく“過去を繰り返す店”になってしまう気がした。
「また止まってる」
澪が言った。
火乃坂澪は、角兎の赤ワイン煮込みの鍋をかき回しながら、ちらりとこちらを見る。
今日の彼女はやけに手際がいい。昨日、店の“普通の顔”を少し整えたことで、厨房の中にも妙な落ち着きが戻ったのかもしれない。
「最近多いな、その指摘」
恒一が返す。
「最近多いから」
「便利な言葉だな」
「便利だから使ってる」
「そればっかりだな」
「顔と一緒」
「お前、ほんとそこ好きだな」
「好きじゃなくて使えるの」
澪はそう言ってから、鍋の火を少しだけ弱めた。
「今日は何で止まってるの」
「帰りの白の続き」
「続き?」
「うん」
恒一は裂いた白濁茸をボウルへ移しながら言う。
「帰りの白は、今の店の皿としてちゃんと立ち始めた」
「うん」
「でも、その次がないと弱い」
「次って、もっと白の先に行く?」
「そこが悩んでる」
「風縫い寄り?」
「寄りすぎると、また最初のローストへ戻る」
「白寄り?」
「寄りすぎると、ただのスープの延長になる」
「じゃあ」
澪が少し考えるように首を傾ける。
「帰りの白が“静かな入口”なら、その次は“ちゃんと店に残る皿”にしないと」
「店に残る?」
「食べて終わりじゃなくて、また帰ってきたくなるやつ」
「……」
「今の白は、思い出に触る皿」
澪は言う。
「でも、次は“今の客”を引っ張る皿が要る」
その言葉が妙にしっくりきて、恒一は手を止めた。
そうだ。
帰りの白は、記憶へ触る皿だ。
だからこそ、強い。
けれど、ずっと店を支えるには、それだけでは足りない。
思い出に帰るための一皿があるなら、
次には「ここへ戻ってきたい」と今の客に思わせる一皿が要る。
「……お前、たまにすごいな」
恒一が言うと、
「たまにじゃなくて結構いつも」
澪が即答した。
「そこは譲らないな」
「事実だから」
そこへ、聞き慣れた足音がした。
少しだけ速く、少しだけ緊張していて、けれどこの地下へ下りてくること自体にはもう迷いのない足音。
東條院紗雪だった。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日の紗雪は、淡い水色のブラウスに白の細いスカートという装いだった。きちんとしているのに、以前より“頑張って整えている感じ”が少ない。店へ来ることが、もう彼女の中でだいぶ自然になってきているのだろう。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は店内をひと目見てから、小さく頷く。
「本日も、ちゃんと“普通のよい店”でいらっしゃいますわね」
「そこ、確認するんですね」
「大事ですもの」
「そうですね」
「ええ」
そのやり取りに、澪が厨房の奥で少しだけ笑った。
紗雪は席へ着くと、今日はすぐにメニューを開かなかった。
黒板の前で、帰りの白の文字を少し眺めてから、小さく言う。
「本日は、その白を」
「はい」
「……だけではなく」
「はい」
「もしも、まだ形になっていない何かがございましたら、それも」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一は思わず笑ってしまう。
「よくわかるなって」
「客ですもの」
紗雪はすました顔で言う。
「最近のお二人、何かを考えている時は、黒板を見る時間が長いのですわ」
「見られてるなあ」
澪が小声で言う。
「かなり」
恒一も頷く。
ここで誤魔化すこともできた。
けれど、この店の今を誰より丁寧に受け取っているのが紗雪だということは、もうわかっている。
「まだ皿になってません」
恒一が言う。
「でも、考えてはいます」
「そう」
紗雪の目が少しだけ明るくなる。
「でしたら、それを考えているお顔のまま、営業なさいませ」
「そんなに出てます?」
「かなり」
「またそれ」
「事実ですわ」
結局そこへ戻るらしい。
営業が始まる。
その日は、客の流れが妙によかった。
派手な満席ではない。けれど、空いた席がすぐ次の客へ繋がる。前に来たことのある顔、初めてなのに店の空気へすぐ馴染む顔、その両方がほどよく混ざる。
黒板の前で迷った客に「帰りの白って何ですか」と聞かれれば、恒一は「静かな白い一皿です」と答える。
角兎を選ぶ客には、赤ワイン煮込みの深さを伝える。
季節の小皿について問われれば、「今日は少しだけご用意できます」とだけ言う。
昨日、紗雪と澪と整えた“普通のよい店のふり”――いや、もう“ふり”ではなく、普通のよい店として立つための言葉たちが、思っていた以上に自然に機能していた。
「いい感じ」
澪が小声で言う。
「うん」
「客の質問も深くなりすぎない」
「説明しすぎなくていいのは助かる」
「だね」
紗雪は今日は、帰りの白のあとに紅茶だけを頼んで、静かに店の様子を見ていた。
その視線はもう完全に“客の目”でありながら、同時に“この店の今を見守る目”でもある。
帰りの白を二口目まで飲んだところで、彼女はふいに言った。
「これは」
「はい」
「帰るための皿ですわね」
「……」
「ですが、店を前へ進めるには」
紗雪はスプーンを置く。
「続きが要りますわ」
恒一は、その言葉に思わず苦笑した。
「やっぱり、そう思います?」
「ええ」
「何で」
「帰りの白は、戻るためにはとても良いのです」
紗雪は言う。
「ですが、“また次にここで何を食べるのか”を期待させるには、少しだけ静かすぎますの」
「……」
「つまり?」
澪が厨房の奥から訊く。
「つまり」
紗雪は少しだけ顎を上げる。
「よい意味で、次の欲が出る皿が必要ですわ」
「……」
「これは、帰ってくるための灯としては美しいですの」
「うん」
「けれど、お店は灯だけでは歩けませんでしょう?」
その言葉は、驚くほどまっすぐだった。
帰りの白は、美しい。
でも、それだけでは店は歩けない。
まさに今、自分が曖昧に抱えていた不安の輪郭そのものだった。
「……紗雪さん」
恒一が言う。
「何ですの」
「今日、かなり核心つきますね」
「そ、それは」
紗雪は一瞬だけ崩れかけたが、今日は持ち直した。
「客として当然の意見ですわ」
「ありがとうございます」
「ですから、そうやってすぐ」
「礼を言われると困る」
「もう覚えましたの?」
「最近よく言われるので」
「まったく……」
けれど、どこかうれしそうでもあった。
営業が少し落ち着いたタイミングで、恒一は小さな試作を始めた。
白濁茸の静けさ。
風縫いの香り。
そこへ、もう一つ別の輪郭が欲しい。
角兎の煮込みほど深くはない。
ローストほど正面から香りをぶつけるのでもない。
だが、帰りの白の“先”として、今の客をもう一歩引っ張る皿。
「何入れるの」
澪が隣に立つ。
「今のところ、白濁茸のベースに」
「うん」
「炙った風縫いじゃなくて、細かく裂いた角兎の腹側を入れてみる」
「腹?」
「背じゃなくて腹」
「へえ」
「脂は少ないけど、旨味が静かに残る」
「風縫いは?」
「香りだけ最後に油で落とす」
「……」
「どう思う」
「やってみれば」
「雑だな」
「でも正しいでしょ」
「まあな」
小さな皿にまとめる。
正式なメニューではない。
客に出せるかどうかもまだわからない。
けれど、営業中の厨房で試すからこそ、店の空気に合うかどうかは見える。
まずは澪へ。
「どう?」
「……」
澪は一口食べて、少しだけ目を細めた。
「悪くない」
「悪くない止まり?」
「でも、帰りの白の続きには見える」
「うん」
「ただ、ちょっとだけ“正しすぎる”」
「正しすぎる?」
「綺麗に繋ぎすぎ」
「……」
「たぶん、もう一個だけ店の癖が欲しい」
その表現に、恒一は思わず頷く。
料理がきれいにまとまりすぎると、逆に店の匂いが消えることがある。玻璃亭は今、そんなに器用な店ではない。もっと少し、不器用さや熱が残っているほうが、この店らしい。
「紗雪さん」
恒一がテーブル席へ向く。
「はい」
「もしよければ」
「……!」
「試作、少しだけ」
「い、いただきますわ」
声が少し弾んだ。
小皿を前に置く。
紗雪はいつもより真剣な顔でそれを見つめる。
そして、一口。
数秒、黙る。
「……綺麗ですわ」
彼女が言う。
「でも?」
「でも、少しだけ……お行儀がよすぎますの」
「……」
「この店の皿にしては」
「それ、今まさに澪にも言われました」
「火乃坂さんと同じ意見なのは少し悔しいですわね」
「そこ悔しいんだ」
「悔しいですわ」
紗雪は二口目を食べたあと、少し考えてから言った。
「帰りの白が“思い出に触る皿”なら」
「うん」
「こちらは“ちゃんと今の店を見ている皿”にしたいのでしょう?」
「……」
「でしたら」
紗雪は皿の中央を指で示す。
「もう少しだけ、揺らぎがあってもよろしくてよ」
「揺らぎ?」
「ええ。綺麗にまとまりすぎていると、記憶には残りにくいのです」
「……」
「少しだけ“この店でしかありえない偏り”が欲しいですわ」
その言葉に、恒一はしばらく返事ができなかった。
澪の“店の癖”と、紗雪の“この店でしかありえない偏り”。
言い方は違う。
けれど見ているものは同じだった。
帰りの白の続きを作るには、正しく綺麗なだけでは足りない。
この店の偏り。
玻璃亭でしか生まれない不均衡。
それが必要なのだ。
「……ありがとうございます」
恒一がようやく言うと、
「ですから」
紗雪はすぐに赤くなる。
「そうやって真正面から受け取られますと困るのです」
「でも、今のは本当に助かった」
「……そう」
「はい」
「なら」
紗雪は少しだけ視線を逸らした。
「本日は、役に立ったということで、よろしいですわね」
「かなり」
「かなり、ですの」
「はい」
「……それなら、まあ」
その“まあ”には、思った以上の満足が入っていた。
営業が終わったあと、恒一は一人でレシピ帳を開いた。
祖父のメモには、当然、今日の試作のことなど書いていない。
だが、不思議とそれが前より怖くなかった。
自分たちは今、ちゃんと“その先”へ行こうとしている。
祖父を消すのではなく、祖父の火の上に今の店の皿を重ねようとしている。
それはきっと、悪いことではない。
「で」
澪が片づけをしながら言う。
「何」
「次、どう直す」
「正しすぎるのを崩す」
「うん」
「この店の偏りを入れる」
「うん」
「……でも、まだ形が見えきらない」
「じゃあ」
「じゃあ?」
「森だね」
「結局そこか」
「店の癖は、たぶん森と店の間にあるし」
「……」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「なら決まり」
「お前、そういう時だけ雑だな」
「だってたぶん当たってる」
たしかに、そうかもしれない。
この店の偏りは、銀座の料理店らしさだけでは生まれない。
祖父の味の延長だけでも生まれない。
境界の森を知り、それでも料理店であろうとする、この場所だけの歪みの中にあるのだろう。
だから、次の皿にもまた、その森の匂いが必要になる。




