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第22話 普通の店のふり

 秘密を守るために、一番必要なのが“普通に見えること”だなんて、少し前までの朝倉恒一なら笑っていたかもしれない。


 料理店は料理で勝負するものだ。

 皿がすべてで、味が通れば客は戻る。

 逆に味が駄目なら、どれだけ店構えを整えても意味がない。


 それは今でも間違っていない。


 けれど、玻璃亭はいま、味だけでは片づかない場所になっていた。


 古い雑居ビルの地下。

 控えめな看板。

 祖父の残した厨房。

 冷蔵庫の底の先にある境界の森。

 別入口を使う者たち。

 そして、この店をただの再開発区画としては消させないように動いている老紳士。


 皿は大切だ。

 だが同時に、この店が「変に目立たない普通の良店」であり続けることも、同じくらい大切になっていた。


 営業前の玻璃亭で、恒一は黒板の前に立っていた。


 本日のおすすめ

 角兎の赤ワイン煮込み

 帰りの白

 風縫い胸肉のロースト


 書いてはみた。

 だが、少し眺めてから、チョークを持ち直す。


「……やっぱり、風縫いは下げるか」

 恒一が呟くと、

「そうしたほうがいいかもね」

 と、背後から紗雪の声がした。


 振り返ると、東條院紗雪がいつものようにきちんと綺麗な姿で立っていた。

 今日は少し早めの来店だ。薄いベージュのワンピースに細いベルト、肩に軽く羽織ったジャケットも上品で、相変わらず“ちゃんとした家の子”の空気を隠しきれていない。

 だが、この店の入口に立つ時だけは、その華やかさより先に、少しだけ緊張した呼吸が見える。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ。ごきげんよう」

 紗雪は小さく頷いた。

「本日は、開店前から邪魔して差し上げましたわ」

「それは邪魔って言わない気がします」

「そ、そう?」

「はい」

「……では、そういうことにしておきますの」


 後ろでは、澪が明らかに面白がっている顔でパン籠を並べていた。

「今日は早いね」

 澪が言う。

「た、たまたまですわ」

「そういうことにしとく」

「火乃坂さんまでそのような」

「便利なので」

「便利って何ですの……」


 この二人の会話も、最初の頃よりだいぶ棘が減った。

 紗雪は相変わらず言い方が回りくどいし、澪は相変わらず遠慮がない。

 だが今は、互いに相手が“この店を守る側”だとわかっている空気がある。


「風縫い、下げるって?」

 澪が黒板を見ながら訊く。

「うん」

 恒一はチョークを持ったまま答える。

「昨日の別入口の感じからして、あまり“珍しすぎる看板”は前面に出し続けないほうがいい」

「うん」

「帰りの白と角兎で十分、店の個性は出せる」

「うん」

「風縫いは“今日はあります”くらいで、聞かれたら出す形にする」

「それ、いいと思いますわ」

 紗雪が言った。


 恒一と澪が同時にそちらを見る。


「何ですの、その目は」

 紗雪が少し身を引く。

「いや」

 恒一が言う。

「ちゃんと実務の話だったなって」

「わたくしを何だと思っておりますの」

「たまにすごくまっとうなこと言う人」

「たまに、とは余計ですわ!」


 だが、頬は少し赤くなっていた。


 紗雪は黒板の前まで来ると、少し考えるように文字を見つめた。

「このお店、今は“秘密の店”の雰囲気が強すぎますの」

「……」

「それは魅力でもありますけれど、同時に“探られる理由”にもなりますわ」

「うん」

 恒一は素直に頷いた。

「だから」

 紗雪は指先で帰りの白の文字の下をなぞる。

「もっと、“ちゃんとした料理店”として見える工夫が必要ですの」

「例えば?」

 澪が訊く。

「限定を出しすぎない。説明を曖昧にしすぎない。おすすめに季節感や店の哲学を感じさせる」

「……」

「あと、予約の受け方も」

 紗雪は続ける。

「“特別な人しか来られない店”みたいに見えるのは、今はよろしくありませんわ」

「たしかに」

 恒一が言う。

「紹介制みたいな空気が出ると、逆に怪しい」

「ええ。今必要なのは」

 紗雪は少しだけ顎を上げた。

「たまたま見つけたら、とても良い店だった、という印象ですの」

「……」

「それなら、守る側も守りやすいはずですわ」


 その最後の一言に、店の空気が少しだけ変わった。


 守る側。

 紗雪はもう、自分をその外に置いていない。


 それが妙にうれしくて、恒一は少しだけ笑った。

「助かります」

「ですから、そうやって」

 紗雪は軽く睨む。

「すぐに礼を仰るのは困りますのよ」

「でも助かってるので」

「……もう」


 そのやり取りのあいだにも、澪は黒板のチョークをひょいと取った。

「じゃあ、こうする?」

 と言って、風縫い胸肉のローストの文字を消し、代わりにこう書く。


 本日のおすすめ

 角兎の赤ワイン煮込み

 帰りの白

 季節の小皿あり


「季節の小皿?」

 恒一が見る。

「風縫い、聞かれたらこれで出す」

 澪が言う。

「別に嘘ではない」

「……」

「たしかに、嘘ではありませんわね」

 紗雪が頷く。

「しかも、店として自然ですの」

「ちょっと逃げてる感じもあるけど」

 恒一が言うと、

「逃げるの大事」

 澪が即答した。

「今は」

「うん」

「真正面から全部出すのは違う」

「……そうだな」


 恒一は黒板を見直した。


 派手さは少し減る。

 だが、そのぶん“普通のよい店”の顔に近づく。

 そして今の玻璃亭に必要なのは、たぶんそっちだった。


「あと」

 紗雪が言う。

「お水のグラス」

「グラス?」

「今のままでも悪くありませんけれど、もう少しだけ重心の低いもののほうが、この店には合いますわ」

「え」

 恒一が目を瞬く。

「そこまで見るんですか」

「見ますわよ」

 紗雪はきっぱりと言う。

「お店は、お料理だけで成り立っているわけではありませんもの」

「……」

「そういう意味では、祖父も昔、よく申しておりましたわ。“皿の手前にあるものも、料理のうちだ”と」

「祖父が」

「ええ」

「……」

「何ですの」

「いや、料理以外の話でも、祖父と気が合ってたんだなって」

「そ、それは」

 紗雪は一瞬言葉に詰まる。

「祖父の受け売りですもの」

「でも今言ったのは、紗雪さんの目ですよね」

「……っ」

「違います?」

「ち、違わなくはありませんけれど!」

「じゃあ、採用で」

「採用……?」


 その返しに、紗雪は目を丸くした。


「グラスのことも、黒板の見せ方も」

 恒一が言う。

「今日から少しずつ変えてみます」

「……」

「この店を“普通の良店”に見せるなら、そういうの大事ですもんね」

「ええ、そうですけれど」

「じゃあ」

「……そういうふうに真正面から受け入れられると、少し困りますのよ」

「何でですか」

「わたくしが、ずいぶん口を出しているみたいではありませんか」

「口出してますね」

 澪が即答した。

「火乃坂さん!」

「でも必要なやつ」

「……」

「だから、いいんじゃない?」

 澪は肩をすくめる。

「三人目の意見って大事だし」


 三人目。


 その言い方に、紗雪は少しだけ黙った。

 それから、いつもより小さな声で言う。


「……三人目、ですの」

「嫌ですか?」

 恒一が訊くと、

「嫌では、ありませんわ」

 紗雪はすぐに答えた。

「ただ、そのように数えられるとは思っておりませんでしたの」

「数えますよ」

 恒一が言う。

「もうだいぶ」

「……」

「だよね」

 と澪も自然に続ける。

「最近は、外の気配拾う役としてかなり頼ってるし」

「火乃坂さんまで……」

「何か問題ある?」

「……いえ」


 その「いえ」は、いつもより少しやわらかかった。


 店を守るために、普通の顔を整える。

 料理の見せ方を調整する。

 限定の出し方を変える。

 客への説明を少し揃える。


 やっていることは地味だ。

 だが、たぶんこういう地味さこそが、玻璃亭を生かす。


 営業が始まると、その効果は思っていた以上に自然だった。


 若い会社員風の女性客が黒板を見て「季節の小皿って何ですか」と聞いてくる。

 恒一は「その日に少しだけご用意できるものです」と答える。

 その言い方なら、深く突っ込まれにくいし、妙な秘密感も出すぎない。


 別の客は、帰りの白の名前に興味を持った。

 恒一は「店で最近育てている皿なんです」とだけ説明する。

 祖父の記憶や森のことは言わない。けれど、嘘でもない。


「……いいかも」

 澪が小声で言った。

「うん」

 恒一も頷く。

「“全部言わない”のと“怪しくぼかす”のは違うんだな」

「そうですわ」

 カウンター席で帰りの白を飲んでいた紗雪が、小さく得意げに言った。

「秘密は、あからさまに隠しますと余計に見えますの」

「それ、経験談みたいに聞こえる」

「そ、そのようなことは」

「あるんだ」

「……多少は」


 そのやり取りをした時、ちょうど新規の客が一組入ってきた。


 初見の客だ。

 四十代くらいの男女。

 雰囲気は落ち着いているが、店を見る目が少しだけ細かい。

 だが、以前のような“探るための視線”とは少し違う。純粋に店としての温度を見ている感じだ。


「いらっしゃいませ」

 恒一が迎える。

「こんばんは」

 女性のほうが柔らかく笑う。

「感じのいいお店ですね」

「ありがとうございます」

「地下なのに、変に気取ってない」

 男性が黒板を見る。

「でも料理はちゃんとしてそうだ」

「それ、かなり理想の褒め言葉ですね」

 恒一が言うと、二人は少し笑った。


 その瞬間、紗雪が小さく満足そうな顔をしたのを、恒一は見逃さなかった。


 営業が終わる頃には、店の空気は昨日までと少し違っていた。

 秘密を削ったわけではない。

 ただ、“秘密の店”である前に、“ちゃんとした料理店”として立つ感覚が一段強くなった。


 閉店後、最後の客を見送ったあとで、恒一は黒板の前に立った。


「……悪くない」

 彼が呟くと、

「でしょ」

 と澪。

「当然ですわ」

 と紗雪。


 二人の返答が重なって、少しだけ可笑しかった。


「今日は」

 紗雪が言う。

「ちゃんと普通の良い店に見えましたわ」

「“普通”って褒め言葉になるんだな」

 恒一が言う。

「今は最上級ですの」

 紗雪はきっぱり答える。

「それなら、明日からも続ける」

「ええ。そのようになさい」

「命令ですか」

「助言ですわ」

「最近その使い分け多いですね」

「便利ですもの」


 その言い方に、恒一はふっと笑った。


 普通の良い店。

 それでいい。

 それがたぶん、今の玻璃亭に一番必要な仮面であり、本体でもある。


 秘密に寄りかかるのではなく、料理店として立つ。

 その上で、境界の森も、外の圧も、少しずつ見ていく。


 やることは多い。

 だが、ようやく順番が見えてきた気がした。

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