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第21話 裏口を探す者たち

 店の火は、何かを隠すためにも使える。


 そう思うようになったのは、つい最近のことだった。


 朝倉恒一は、営業前の厨房で鍋の底を見つめながら、ふとそんなことを考えていた。

 火は本来、料理のためにある。食材の芯まで熱を通し、香りを立たせ、冷たいものを食べられるものへ変えるためのものだ。料理人にとって火は、最も信用できる道具の一つだった。


 だが今は、それだけではない。


 店に火が入っている。

 鍋が鳴っている。

 パンが焼ける匂いがして、グラスが並び、客が階段を下りてくる。


 その“普通の営業”そのものが、この店のもう一つの顔を覆い隠している。

 地下の店。

 冷蔵庫の底。

 石の階段。

 境界の森。

 別入口。

 誰かが運び、誰かが回収しようとしている“何か”。


 それらを今すぐ誰にも見せないために、料理店としてきちんと立っていなければならない。

 その感覚が、最近ようやく腹に落ちてきた。


「塩、強い」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、カウンターの内側でパンの発酵具合を見ながら、こちらへ目も向けずに声を飛ばしてきた。

「え?」

「今の帰りの白のベース。塩、少し前出すぎ」

「……ほんとだ」

 恒一は慌てて味を見る。

「わかるだろ」

「最近、考えごとしながら味見してると外す」

「それが一番危ない」

「すみません」

「反省して」

「してる」


 澪はそこでようやく振り向いた。

「今日の顔は昨日よりマシ」

「昨日そんなにひどかったか」

「かなり」

「紗雪さんにも似たようなこと言われた」

「だろうね」

「お前ら、そこだけほんと連携いいな」

「そこだけじゃないでしょ」

「……」

「何」

「いや」

「何」

「最近、お前がいると助かるなって」

「今さら?」

「今さら」

「遅い」

「すみません」

「許す」


 そのやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。


 昨夜の話のあと、二人の間には変な沈黙が残らなかった。

 むしろ逆で、言いにくいことを一度言葉にしてしまったぶん、以前より少しだけ呼吸が合っている。近すぎる相手だからこそ、ちょっとした言葉が遅れるのは変わらない。だが、遅れても届くという感覚が、今はある。


「今日、森は?」

 恒一が訊く。

「営業後」

 澪は即答した。

「朝はもう見たしね」

「うん。第二入口の確認は夜のほうが向いてる」

「どうして」

「向こうも夜に動いてる可能性高いから」

「それは嫌だな」

「うん。でも確認しないと」


 確認しないと。


 そればかりが増えていく。

 確認しなければならないこと。

 確かめないままでは動けないこと。

 その一方で、店はきちんと開けなければならない。


 両立できるのか。

 できなければ終わる。

 それが今の玻璃亭だった。


「営業のほうは」

 澪が黒板を見ながら言う。

「帰りの白、今日は三つまで」

「三つか」

「うん。限定感残したい」

「角兎は?」

「安定」

「風縫いは?」

「一皿」

「だな」


 店の“普通の顔”を育てること。

 それも今は重要な仕事だった。


 秘密を守るために、よりよく見える普通を作る。

 紗雪の言っていたことは、思った以上に核心だったのかもしれない。


 午後五時半。

 店を開ける。


 最初に来たのは、以前も一度来たことのある若い夫婦だった。

 今日は迷わず帰りの白を頼み、そのあと角兎の煮込みを追加した。食べ終えた時の顔が、もう“珍しい料理を体験した客”ではなく“また来た店で好きな皿を選んだ客”のそれになっている。


 その変化が、恒一には少しだけうれしかった。


「顔」

 澪が小声で言う。

「何」

「今のは浮かれていい」

「許可制なのか」

「今日だけ」

「厳しいな」

「管理者なので」

「何の」

「厨房と相棒」


 その言い方に、少しだけ笑ってしまう。


 次に来たのは、紗雪だった。


 今日は扉を開けた時の「ご、ごきげんよう」の声が、いつもよりほんの少しだけ自然だった。

 店へ来ることが、彼女の中で完全に“特別な外出”だけではなくなり始めているのだろう。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は店内を見回す。

「本日は、昨日ほど張っておりませんのね」

「そんなにわかります?」

「かなり」

「またそれですか」

「事実ですもの」


 彼女は席につくと、黒板を見て少しだけ口元を緩めた。

「帰りの白、本日もございますの」

「あります」

「では、それを」

「かしこまりました」

「それと」

「はい」

「本日は……できるだけ“普通に”して差し上げますわ」

「普通に?」

「ええ。普通の客として」

「……努力目標ですか」

「努力ではなく、決意ですの」

「そうですか」

「そうですわ」


 その時点ですでに少し普通ではなかったが、恒一は突っ込まなかった。


 帰りの白を出す。

 紗雪は一口飲んでから、今日は前よりも静かに言った。


「昨日よりも落ち着いておりますわ」

「店が?」

「ええ。ですから、こういう日は“普通のよい店”に見えますの」

「それ、褒めてくれてます?」

「最大級に」

「ありがとうございます」

「ですから、そうやって素直に受け取られますと困るのです」


 言いながらも、彼女の頬は以前ほど真っ赤にはならなかった。

 やはりこの店にいる時だけ、紗雪は少しずつ自然になっている。


 そうして営業は穏やかに流れた。


 常連が一人。

 新規が一組。

 予約はないが、空席が寂しく見えない程度に客が続く。

 満席ではない。だが、良い店の夜としてはむしろ理想に近いかもしれない。忙しすぎず、静かすぎず、料理の匂いがきちんと客席まで届く密度。


 その流れの中で、恒一はふと思った。


 普通の店であることは、つまらないことではない。

 むしろ、今の自分たちにはそれが何より強い。


 帰りの白が出て、角兎が出て、風縫いの一皿が静かに驚きを落とす。

 店はそれで十分に面白い。

 秘密がなくても、客はまた来る理由を持てる。

 その状態へ持っていけるなら、この地下の“もう一つの顔”に依存しすぎずに済む。


 それは、たぶん重要だった。


 営業が終わり、最後の客が帰ったあと。

 紗雪も今日はあまり長くは残らず、「本日はちゃんと普通の客でしたわよね」と確認するように言って帰っていった。


 足音が消える。

 店内に静けさが戻る。


 澪はすぐにエプロンを外した。

「行く?」

「行く」

 恒一が答える。

「今日は、本当に見るだけ」

「うん」

「第二入口の手前まで」

「うん」

「人がいたら戻る」

「うん」

「返事がよろしい」

「店主なので」

「はいはい」


 冷蔵庫の底板を開ける。

 石段を下りる。

 夜の森は、やはり朝とは違う顔をしていた。


 光る茸。

 淡く発光する葉。

 黒い木々の間を流れる青白い気配。

 朝に見た生々しさが、夜になるとまた別の意味で不気味さへ変わる。


「右」

 澪が小さく言う。

「うん」


 二人はチョークの印を頼りに、昨日確認した切れ目のほうへ進んだ。

 今夜は風がある。匂いが流れるぶん、逆に遠くの気配が掴みにくい。

 だからこそ、足元と音を優先する。


 第二入口らしき切れ目は、昨日よりはっきり見えた。

 木々の間に不自然に細い道が通っている。枝が何度も払われた痕。地面の踏み固まり方。そこだけ草の生え方が違う。


「……完全に道だな」

 恒一が言う。

「うん」

 澪が応じる。

「しかも、最近使われてる」

「わかる?」

「土がまだ新しい」

「便利だな、お前」

「森限定でね」


 さらに近づくと、木の幹に小さな切り込みが入っているのが見えた。

 印だ。

 自然にできた傷ではない。人が方向を見失わないためにつけた目印に近い。


「こっち側からも管理してる」

 澪が低く言う。

「ってことは、向こうにも……」

「あるかも」


 その時、ふいに風向きが変わった。


 匂いが来る。


 土。

 湿った木。

 それに混じる、こちらの世界の油と金属の匂い。

 そして、ごく薄く、薬品みたいな冷たい匂い。


「……誰かいる」

 恒一が囁く。

「うん」

 澪がすぐにしゃがむ。

「近い」

「どっち」

「道の先」


 二人は木の影へ身を寄せた。


 しばらくして、かすかな灯りが見えた。

 ランタンではない。もっと小さい、携帯用のライトに近い白い光。

 それが揺れるたび、木々の間に人影が二つ、三つと浮かぶ。


「三人」

 澪が言う。

「うん」

「増えた」

「……うん」


 男たちは低い声で話しているが、風のせいで内容までは聞き取れない。

 ただ、一人が何か細長いものを背負っているのが見えた。箱か、ケースか。もう一人は地面へしゃがみ込み、何かを確認している。最後の一人は、周囲を見張っているようだった。


「見張り、慣れてる」

 澪が小さく言う。

「わかるのか」

「素人の立ち方じゃない」

「……嫌だな」

「うん」


 この森をただの裏道だと思っている人間の動きではない。

 何かを運ぶ手順も、見張りも、最初から決まっているように見える。


 しばらくして、男たちは切れ目の向こうへ消えた。

 森の中ではなく、“別の出口”の向こう側へ。


 つまり、あの先に何かある。

 別の入口。

 あるいは、向こう側の拠点。


 恒一の喉が乾いた。


「追う?」

 気づけば、そう口にしていた。


 すぐ隣で、澪がきつく睨む。

「追わない」

「……」

「今の見て、まだ言う?」

「ごめん」

「謝るの早いのはいい」

「でも気になるだろ」

「気になるよ。でも今は帰る」

「……うん」


 その時だった。


 遠くで、金属が軽く鳴る音がした。

 男たちの消えた方向とは別。

 もっと森の内側から。


 二人は同時に顔を上げる。


 そして次の瞬間、澪が無言で恒一の腕を引いた。


 理由はわからない。

 だが、その引き方だけで、今は問答無用で戻るべきだと理解した。


 二人は来た道を急いで戻る。

 走るほどではない。だが、足は速い。

 背中に何か来る気配はない。けれど、森そのものがこちらを見ているような嫌な感じが、今夜はやけに強かった。


 石の通路へ飛び込み、階段を上がる。

 冷蔵庫の底を閉じ、厨房へ戻る。


 そこでようやく、二人とも息を吐いた。


「何だった」

 恒一が言う。

「わかんない」

 澪が短く返す。

「でも、今のは嫌な音」

「……うん」

「追わなくて正解」

「それは認める」


 恒一はステンレス台へ手をついた。

 手のひらが冷たい。

 店の現実へ戻ってきたはずなのに、耳の奥ではまだ森の金属音が鳴っている。


「別入口、確定だな」

 恒一が言う。

「うん」

「しかも、向こう側に何かある」

「うん」

「完全に、森を通路として使ってる」

「そうだね」


 澪はそこで、冷蔵庫の扉を一度だけ強く押さえた。

「嫌だ」

「……」

「ここ」

「うん」

「うちの店の下なのに、うちのものじゃない感じが強くなってきた」

「……わかる」


 その感覚は、恒一にも痛いほどわかった。


 冷蔵庫の底の先にある森は、祖父が残した秘密の食材庫であってほしかった。

 そうであれば、料理人として理解しやすかった。


 けれど現実は違う。

 あそこは“境界”であり、通路であり、誰かが使っている場所だ。

 自分たちはその一端に触れてしまったにすぎないのかもしれない。


 だからこそ、店の火を消してはいけないのだろう。


 料理店として立っていること。

 普通の顔を持ち続けること。

 それが今は、唯一の防波堤に近い。


「明日から」

 恒一が言う。

「うん」

「店の見せ方、もう少し整える」

「普通の店のふり?」

「ふりじゃなくて、普通の良い店を本気でやる」

「……いいじゃん」

「森に頼らなくても客が来る店に、少しでも近づけるように」

「うん」

「そうすれば、向こう側に飲み込まれなくて済むかもしれない」

「それは大事」


 澪は小さく頷いた。


「あと」

 彼女が言う。

「紗雪さんにも、全部じゃなくても少し共有したほうがいい」

「……」

「外の気配、あの人のほうが拾える」

「そうだな」

「一人で抱えるなって、最近ちゃんと言ってるでしょ」

「……はい」

「返事よろしい」

「誰の真似だ」

「私」


 少しだけ、二人とも笑った。


 店の中に戻ると、さっきまでの張り詰めた空気が少し薄まる。

 それでも、別入口の存在はもう消えない。


 玻璃亭は料理店だ。

 そして同時に、境界に触れている。


 その両方を抱えたまま、明日もまた店を開けるしかない。

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