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第20話 地下を知る者たち

 店に秘密があると知った瞬間から、同じ景色は同じ顔では見られなくなる。


 朝倉恒一は、そのことをこの数日で嫌というほど思い知っていた。


 銀座の裏通り。古びた雑居ビル。地下へ続く細い階段。控えめな看板。カウンター六席にテーブル二つ。祖父の遺した狭い厨房。どれも少し前まで、守るべき“店そのもの”でしかなかった。


 だが今は、その全部が別の意味を帯びている。


 冷蔵庫の底にある石の階段。

 異世界の森。

 複数人の足跡。

 罠。

 別入口。

 そして、森の中で聞いた男たちの会話。


 ――例の地下か。

 ――上がまだ抑えてるうちに、回収だけ済ませたい。

 ――店のほうは、まだ保ってる。


 どこからどう切っても、玻璃亭はもう「偶然見つけた異世界食材の仕入れ先がある店」では済まない。

 この店は、もっと前から、もっと別の何かの上に置かれていたのだ。


 営業前の厨房で、恒一は紙を広げていた。


 メモだ。

 森で見た位置関係、罠の場所、足跡、白い布切れの落ちていた場所、缶、そして男たちの会話の断片。字はあまり綺麗ではないが、自分たちなりに整理しないことには頭の中が散ってしまう。


「そこ、もう三回書き直してる」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、白濁茸を下処理しながらちらりとこちらを見ている。今日の彼女は動きに無駄がなく、その分だけ少し機嫌が悪いようにも見えた。たぶん、朝の森で聞いた声のせいだ。


「“地下”って言葉が気になって」

 恒一が言う。

「気になるのはわかる」

「店の地下のことだとしたら、かなりまずい」

「うん」

「でも、森の中の別の通路を“地下”って呼んでる可能性もある」

「うん」

「どっちにしても嫌だな」

「それも、うん」


 澪はそこで包丁を止めた。

「でも、一個ずつ」

「何が」

「嫌なこと整理しないと、全部同じ重さで潰れる」

「……」

「まず、複数人が森を使ってる」

「うん」

「次に、その人たちは店の存在も知ってるっぽい」

「うん」

「でも、今のところ直接店に入ってきてる証拠はない」

「……たしかに」

「あと、“上が抑えてる”って言い方」

「うん」

「それが老紳士側なのか、別の誰かなのか、まだわからない」

「そこだよな」


 恒一は紙にもう一つ線を引いた。


 不穏なことは多い。

 だが、不穏なことほど分けて考えないと形を失う。

 祖父のレシピ帳もそうだった。断片しかないメモを、匂いと火加減で料理へ戻すには、一つずつ皿に並べるしかない。


「……紗雪さん、今日来ると思う?」

 恒一が言うと、澪は露骨にため息をついた。

「話戻るね」

「戻してない」

「戻してる」

「でも、家の中のことはあの人のほうがわかるだろ」

「それはそう」

「東條院の家で最近何が動いてるのか、少しでも知りたい」

「それもそう」

「じゃあ」

「じゃあ、来ると思う」

「即答だな」

「だって昨日の最後の顔」

「……」

「話すって決めた顔だった」

「お前ほんと気配読むの得意だな」

「店でも森でも必要だから」


 必要、か。

 それはきっと本当だ。


 恒一は紙を折り、引き出しの奥へしまった。

 客に見られるわけにはいかない。店の営業中に出していいものでもない。


 それでも、こうして紙へ落としただけで少しだけ呼吸が整う。


 営業が始まると、店はきちんと“店”になる。


 それが今はありがたかった。


 午後五時半。

 玻璃亭を開ける。


 最初の客は、黒板を見て少しだけ迷い、角兎の煮込みを頼んだ。

 二組目は帰りの白を一つだけ分け合う夫婦。

 三組目は、以前一度来た会社員風の女性で、今日は迷わず風縫いのローストを選んだ。


 店は穏やかに回る。

 穏やかに回るほど、厨房にいる自分たちだけが別の現実を抱えていることが妙に際立つ。


「顔、少しマシ」

 澪が言った。

「少しだけな」

「さっきよりは」

「店始まると助かる」

「わかる」


 そこへ、聞き慣れた足音がした。


 少し速く、少しだけ緊張していて、それでももうこの店へ来ること自体は自分の中で決めている足音。


 東條院紗雪だった。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日の紗雪は、いつも以上に整って見えた。

 薄い灰青色のワンピースに、白の短いジャケット。髪は軽くまとめられ、耳元の小さな飾りが灯りを受けて揺れる。だがその綺麗さの下に、はっきりとした緊張がある。店へ来ることへの緊張ではない。話さなければならないことを抱えた人間の緊張だ。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ。……本日も、席はございますわよね?」

「あります」

「そう」

 紗雪はわずかに息を吐いた。

「よかったですわ」


 今日はそれだけで、彼女が本当に少し強張っていたのがわかった。


 席へ案内する。

 紗雪はメニューを開く前に、小さく言った。


「本日は、少しお話を」

「はい」

「したいのですけれど」

「営業が落ち着いたら」

「ええ」


 それだけで十分だった。


 厨房へ戻ると、澪が小声で言う。

「来たね」

「来たな」

「言ったでしょ」

「はいはい」

「顔も当たった」

「そこまで誇るな」

「だって当たったし」


 紗雪は今日は、帰りの白と紅茶だけを頼んだ。

 食事そのものより、ここへ来て話すことのほうが目的なのだろう。


 帰りの白を出すと、彼女は一口飲んでから小さく目を閉じた。

 その仕草はすっかりこの店のものになっている。最初の頃の、皿を前にしてもどこか構えていた空気は、もうかなり薄い。


「……今日は少し、塩の輪郭が」

 紗雪が言う。

「強い?」

「いいえ。昨日より、気持ちが前へ出ている感じ」

「それ、料理の感想としてすごいですね」

「わたくしは客ですもの」

「そうですね」

「ええ。ですから、見ておりますの」


 その“見ておりますの”の言い方が、妙に静かで、恒一は少しだけ背筋を正した。


 紗雪は本当に、この店を見ている。

 皿だけではなく、空気も、人の顔も、たぶん少しずつ。


 営業が一段落するまで、彼女はそれ以上何も言わなかった。


 そして閉店後。

 最後の客を見送り、店の札を返し、階段の上の気配が消えたあとで、恒一は紗雪の席へ向かった。今回は澪も隠れず、カウンターの内側で片づけをしながら耳を傾けている。隠す必要も、もうない気がした。


「お待たせしました」

 恒一が言う。

「いえ」

 紗雪は首を振る。

「本日は、わたくしのほうから参ったのですもの」


 彼女は少しだけ呼吸を整えたあと、真っ直ぐに言った。


「祖父の家にいらっしゃる方々の中に」

「……」

「最近、“地下の店”という言葉を口にした方がおりましたの」


 恒一の喉がわずかに強ばる。


 森の中で聞いた言葉と、同じだ。


「はっきり、そう?」

 恒一が訊く。

「ええ。ただし」

 紗雪はすぐに続ける。

「会話の全部を聞いたわけではありませんわ。廊下の向こうから、断片だけ」

「それでも十分です」

「そう」

 紗雪は少しだけ視線を伏せる。

「ですから、やはりこの店は、祖父の中でも“普通の店”としてだけでは扱われておりませんの」

「……」

「けれど、同時に」

 紗雪は少し迷ってから言う。

「祖父は、その地下の店を“壊させるつもりはない”とも申しておりましたわ」

「……!」


 澪がカウンターの内側で手を止めた。


 壊させるつもりはない。

 つまり、誰かは壊したいと思っている。

 そして老紳士は、それを止める側にいる。


「他には、何か」

 恒一が慎重に訊く。

「“回収”という言葉も」

 紗雪は小さく言った。

「あと、“境界”とも」


 境界。


 その二文字で、朝の森の空気がそのまま店内へ流れ込んできた気がした。


 罠。

 別入口。

 木々の切れ目。

 踏み固められた休憩場所。

 境界。


 あの森は、やはりただの異世界の一角ではない。

 こちらと向こうの境目として、誰かに意識され、利用され、守られようとしている場所なのだ。


「紗雪さん」

 恒一が低く言う。

「はい」

「ありがとうございます」

「……ですから」

 紗雪はすぐに少し眉を寄せた。

「そうやってすぐ礼を仰るのは困りますのよ」

「でも、本当に」

「本当にでも、ですわ」

「……」

「わたくしは、ただ」

 紗雪は少しだけ頬を赤くしてから続ける。

「この店が、帰る場所であり続けてほしいだけですもの」

「……」

「でしたら、それを脅かす気配を拾った以上、見て見ぬふりはできませんわ」


 その言葉は、何度聞いてもまっすぐだった。


 東條院紗雪は、この店の秘密を全部知っているわけではない。

 森の中へ入ったこともない。

 冷蔵庫の底の石段を見てもいない。


 それでも、彼女は彼女の立場から、この店を守ろうとしている。


 そのことが、不思議と頼もしかった。


「……こっちも」

 恒一は少し迷ってから言う。

「何か、言ったほうがいいと思います」

「何を?」

「まだ全部じゃないですけど」

「……」


 紗雪の表情が強ばる。

 怖がっている。

 だが、それでも逃げずに聞こうとする顔だった。


「この店の外だけじゃなくて」

 恒一は声を落とした。

「もっと別のところでも、同じ言葉を聞きました」

「同じ?」

「地下、とか、回収、とか」

「……!」

「それで、たぶん」

 恒一は一度だけ息を整える。

「この店は、普通の再開発の話だけでは済まない場所なんだと思います」

「……」


 紗雪はしばらく黙っていた。


 目の前の紅茶はもう冷めている。

 けれど彼女はカップにも触れず、ただ静かに考えていた。


「それでも」

 やがて彼女は言う。

「それでも、表向きにはこの店がただのレストランであることが大事ですわね」

「……たぶん」

「ええ。そうでなければ、守れるものも守れなくなりますもの」

「そう思います」

「でしたら」

 紗雪は少しだけ顎を上げた。

「いっそう、営業を続けなければなりませんわ」

「……」

「賑わう店であり続けることが、隠れ蓑にもなりますのよ」

「お嬢様なのに発想が実務的ですね」

「誰のせいだと思っておりますの」

「すみません」

「まったく」


 そのやり取りを聞きながら、澪がカウンターの奥で少しだけ笑った。


「何」

 恒一がそちらを見ると、

「いや」

 と澪は肩をすくめる。

「三人とも、思ってること同じだなって」

「三人?」

 紗雪が小さく聞き返す。

「店を続けるしかないってこと」

 澪が言った。

「で、たぶんそれが一番強い」


 紗雪はその言葉を受けて、少しだけ目を瞬いた。

 そして、ゆっくり頷く。


「……そうですわね」

「うん」

「火を消さぬことが、まず第一」

「おじいさんも似たようなこと言ってた」

 恒一が言うと、紗雪は小さく笑った。

「祖父らしいですわ」


 その笑みは、いつもより少しだけ大人びて見えた。


 秘密や不安を抱えながら、それでもここで話している。

 紗雪ももう、この店の“外側の客”ではいられなくなりつつあるのかもしれない。


 最後に、彼女は立ち上がる前に一言だけ言った。


「もし、今後」

「はい」

「祖父の家でまた何か拾いましたら、お伝えいたしますわ」

「助かります」

「ですから」

「はい」

「そういうふうに真正面から礼を言われると困るのです」

「でも助かるので」

「……もう」


 紗雪はまた少し赤くなる。

 けれど、今日はそれで終わらなかった。


「ただし」

 彼女は扉の前で振り返った。

「無茶は、なさいませんことよ」

「……」

「前にも申しましたけれど」

「はい」

「この店を守るために、あなたが壊れては意味がありませんの」

「……約束します」

「半分だけ安心いたしますわ」

「残り半分は?」

「見張っております」


 そう言い残して、彼女は階段を上がっていった。


 扉が閉まる。


 店内には、しばらく誰も声を出さなかった。


 先に息を吐いたのは澪だった。

「境界」

「うん」

「完全にそういう話になってきたね」

「なってきた」

「嫌だな」

「嫌だな」

「でも」

「でも?」

「ちょっと、はっきりしてきた」

「……うん」


 あの森は境界。

 この店はその境界に触れている。

 そして、誰かがそこから何かを“回収”しようとしている。

 老紳士はそれを抑えようとしている。

 再開発も、もしかしたらその盤面の一部にすぎない。


「……明日」

 恒一が言う。

「うん」

「第二入口、ちゃんと見る」

「行くと思った」

「ただし、慎重に」

「それなら付き合う」

「付き合うって、お前も行くんだろ」

「確認しただけ」

「はいはい」


 言い合いながらも、二人の間にはもう迷いがあまりなかった。


 店を守る。

 営業を続ける。

 そして、森の正体に少しずつ近づく。


 やることが増えただけで、本分は変わらない。

 その感覚が今はありがたかった。

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