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第19話 仕入れ先ではなく、境界の森

 朝の仕込みが始まる前の厨房には、独特の冷たさがある。


 火を入れる前の鍋。

 まだ乾いたままのまな板。

 夜のうちに拭き上げたカウンター。

 人が働き始める直前の店というのは、眠っているわけではなく、息を浅くして待っている生き物に近い。


 その朝、玻璃亭の空気はいつも以上に静かだった。


 朝倉恒一は、古い冷蔵庫の前に立ちながら、その白い扉をしばらく見つめていた。

 ただの業務用冷蔵庫。

 外から見ればそうとしか見えない。

 だが今は、その向こう側にあるものを、もう以前のように「異世界の仕入れ先」とだけ呼ぶことはできなかった。


 老紳士は言った。

 この店には、もうひとつ守るべき役目があると。


 紗雪は言った。

 ここは帰る場所のひとつかもしれないと。


 そして澪は、何も難しい言葉を使わず、帰る場所をなくしたくないとだけ言った。


 全部が、同じ一点へ向かっている気がしていた。


「……見すぎ」

 背後から澪の声。


 火乃坂澪は、今日はエプロンの上から薄いジャケットを羽織っていた。

 まだ朝の仕込み前だというのに、完全に“行く準備”の格好だ。革袋ももう足元に置かれている。


「そんなに見ても、冷蔵庫は喋らない」

「わかってる」

「でも、だいぶ喋ってほしそうな顔」

「そんな顔してるか?」

「してる」

「お前、ほんとそればっかりだな」

「便利だから」


 澪は変わらない調子で言いながら、冷蔵庫の横に立った。


「今日も行く?」

 恒一が訊く。

「行くでしょ」

「即答だな」

「昨日のまま放っておくほうが嫌」

「それはそうだけど」

「でも今日は、食材目的じゃない」

「確認優先」

「そう」


 昨夜の話のあとで、二人とも結論はすでに出ていた。

 森はもう単なる秘密の食材庫ではない。

 複数人の足跡。仕掛けられた罠。引きずられた跡。

 しかも、その気配は再開発側の不穏な動きや、店を探る視線と時期を同じくしている。


 繋がっているかはまだわからない。

 だが、無関係と決めつけるには、もう材料が揃いすぎていた。


「今日はもう少し奥まで見る」

 恒一が言うと、

「私もそう思ってた」

 と澪が返した。

「ただし」

「ただし?」

「追わない、踏み込まない、見つかったら即戻る」

「了解」

「あと、印増やす」

「チョーク?」

「うん。戻る時の目印」

「昨日のうちにそうしとけばよかったな」

「昨日は昨日で、帰るのが先だった」

「それもそうだな」


 石段を開ける。


 冷蔵庫の底板が持ち上がり、湿った空気が朝の厨房へ流れ込んでくる。

 この匂いも、もうだいぶ馴染んでしまった。

 だが慣れたことと、油断していいことは違う。


 二人は石の階段を下りる。


 森は今日も朝の薄い光の中にあった。

 夜の幻想めいた美しさはない。その代わり、朝の森はすべての輪郭を暴く。ねじれた幹、白く張る菌糸、透明な樹液、土に残る爪痕と足跡。夜なら“神秘”で済ませたくなるものが、朝だと“生態”として目の前に出てくる。


「やっぱり、朝のほうが嫌だね」

 澪が言う。

「うん」

「きれいじゃなくて生っぽい」

「わかる」

「でも、見える」

「それが助かる」


 二人は昨日チョークで印をつけた石まで進んだ。

 そこから先、足跡はさらに増えていた。新しいものもある。つまり、昨夜から今朝の間にも、誰かがここを通った可能性が高い。


「これ」

 澪がしゃがみ込む。

「昨日の上から重なってる」

「ほんとだ」

「しかも、こっち向き」

「こっち向きって……店側?」

「うん。通路のほうから入って、また戻ってる」


 その一言で、恒一の背中が冷えた。


 店側から入って、また戻っている。


 もちろん“店側”と言っても、この森の入口を直接知っている者しか辿れない。

 だが、足跡の向きだけ見れば、少なくともあの石の通路を使う人間が自分たち以外にもいる、あるいは知っている可能性があるということになる。


「待て」

 恒一が低く言う。

「これ、もし本当に通路使ってるなら」

「うん」

「冷蔵庫のことも……」

「知られてるかもしれない」


 澪はその可能性を、驚くほど平然と言った。


 平然としているように見えて、実際には緊張しているのがわかる。

 声がいつもより少しだけ低い。

 火乃坂澪は、本当に危ない時ほど落ち着いて見えるタイプだ。


「でも、断定はまだしない」

 彼女が続ける。

「何で」

「向こう側に別の入口があるかもしれない」

「……」

「この森が、うちの冷蔵庫とだけ繋がってるって決めつけるほうが危ない」

「たしかに」

「だから、先を見ないと」


 その言葉に、恒一は小さく頷いた。


 自分たちは今まで、“冷蔵庫の底の先に森がある”という認識でいた。

 だが、もしかしたら正しい順番は逆なのかもしれない。

 森があって、その一端がこの店の地下へ触れているだけ。

 だとしたら、別の接点が存在してもおかしくない。


「行くよ」

 澪が立ち上がる。

「うん」


 昨日見つけた、引きずられたような跡を追う。

 土は朝露で少し湿っていて、昨日より線が見やすい。幅は一定ではないが、ところどころ深く抉れている。重いものを引いたのか、あるいは足を引きずった何かが通ったのか。


 跡はゆるく曲がりながら、今まで自分たちが踏み込んでいない方向へ伸びていた。

 茂みの葉先に、ところどころ同じ種類の白い布が引っかかっている。向こうの世界の素材ではない。こっちの世界の、安物の作業着に近い繊維だ。


「完全に人間じゃん」

 恒一が言う。

「うん」

「嫌だな」

「うん」

「お前、今日ずっと“うん”しか言ってないな」

「嫌だから」


 その返しに、逆に少しだけ落ち着く。


 森を歩きながら、二人とも無駄口は多くない。

 だが、その少ない言葉のやり取りがあるだけで、怖さの形が少し変わる。一人で嗅ぐ森の匂いと、二人で確認しながら進む森の匂いは、似ているようで全然違った。


 やがて、開けた場所に出た。


 そこは今まで見たどの場所よりも不自然だった。


 木々が円を描くように少し開き、その中央の地面だけが妙に踏み固められている。

 草が薄い。

 しかも、土の上には複数の足跡だけでなく、何か四角いものを置いていたような跡まである。


「……ここ」

 恒一が息を呑む。

「休憩場所、みたい」

 澪が低く言う。

「狩り場の?」

「それか、見張り場」

「見張り……」

「わかんない。でも、何かを持ち込んでるのは確か」


 木の根元に、錆びた缶のようなものが転がっていた。

 拾い上げると、こちら側の世界の飲料缶だった。ラベルは剥げかけているが、完全に見覚えのある形だ。


 恒一は喉の奥がひりつくのを感じた。


 確定だ。


 誰かが、こちら側からこの森へ入っている。

 しかも、一度ではない。

 それなりの頻度で、ここを使っている。


「……戻る?」

 恒一が訊くと、澪は首を振った。

「もう一個だけ見たい」

「何を」

「向き」

「向き?」

「この場所から、どっちを見てるか」


 澪は踏み固められた中央へ立ち、周囲を見回した。

 そこで彼女は、北側――自分たちの通路とは別方向の木々の間に、微かな切れ目を見つけたらしい。


「あっち」

 彼女が指さす。

「道?」

「完全な道じゃない。でも、人が抜け続けた感じ」

「別の入口か」

「たぶん」


 そこまで言った瞬間、森の奥で枝が鳴った。


 二人とも反射的に動きを止める。


 乾いた、細い音。

 獣の気配ではない。

 もっと軽く、もっと規則的な、人の足の運び方に近い音だった。


 澪がすぐに恒一の袖を引く。

 無言で、しゃがめという合図。


 二人は近くの太い根の影へ身を沈めた。


 息を殺す。


 音は近づく。

 枝を払う気配。

 衣擦れ。

 そして――声。


 低い男の声が、二つ。


「……今日はこっちでいいだろ」

「向こうは?」

「後で見る。あっち、最近誰か使ってる」

「例の地下か」

「たぶんな」


 恒一の心臓が、どくりと大きく鳴った。


 地下。

 今、あの男は確かにそう言った。


 澪の目が、すぐ隣で鋭くなる。

 だが同時に、袖を掴む指先に力が入る。動くな、という合図だ。


 男たちは完全な姿を見せないまま、少し離れた場所で立ち止まった。

 一人は若い。もう一人は少し年上に聞こえる。言葉遣いは荒すぎないが、場慣れしている感じがある。少なくとも素人の肝試しではない。


「上がまだ抑えてるうちに、回収だけ済ませたい」

「でも、勝手に動くと後で面倒だろ」

「面倒でも、向こうが本格的に気づく前にな」

「店のほうは?」

「まだ保ってる。だから今のうちだ」


 店。

 保ってる。

 回収。


 断片だけで、意味はまだ組み切れない。

 だが、自分たちの知らないところで、この店と森と“上”と呼ばれる何かが、すでに同じ盤面の上に乗っているのがわかる。


 汗が背中を流れた。

 朝の森なのに、やけに寒い。


 やがて男たちの足音がまた動き出す。

 自分たちのほうへ来るのではなく、別の切れ目――澪がさっき見つけた、別の出入口らしき方向へ抜けていった。


 完全に気配が消えるまで、二人は動かなかった。


 先に息を吐いたのは澪だった。

「……聞いた?」

「聞いた」

「地下って言った」

「言った」

「完全に繋がってるね」

「うん」


 恒一は膝に手をつき、ゆっくり立ち上がった。

 頭が追いつかない。

 だが、はっきりしたことが一つだけある。


 自分たちはもう、店の秘密を偶然見つけた若い料理人と相棒ではない。

 知らないままではいられない場所まで来てしまった。


「戻る」

 澪が言う。

「うん」

「今すぐ」

「うん」

「今日は絶対、追わない」

「追わない」


 来た道を戻る。

 今度は食材の匂いなんて全く入ってこなかった。

 森はただ気味が悪く、そして静かに生きているだけだった。


 石段を上がり、冷蔵庫の底を閉じる。

 厨房へ戻った瞬間、二人ともほぼ同時に大きく息を吐いた。


 現実の空気。

 鍋。

 パン生地。

 黒板。

 今日の営業。


 全部が目の前にあるのに、数分前まで聞いていた男たちの声が、まだ耳の奥に残っている。


「どうする」

 澪が真っ先に訊く。

「……」

「店開ける?」

「開ける」

 恒一はすぐに答えた。

「ここで閉めたら逆に怪しい」

「うん」

「でも、今日のうちに整理しないと」

「何を」

「聞いたこと全部」


 地下。

 店。

 上。

 抑えてる。

 回収。


 断片だ。

 断片だが、断片のまま忘れていいものではない。


「おじいさんに話す?」

 澪が訊く。

「すぐは無理だろ」

「紗雪さんは?」

「……」

 その名前が出た瞬間、恒一は少しだけ迷った。


 東條院紗雪は確かに、この店のことを気にかけている。

 祖父の家の中の空気の変化も感じていた。

 だが、だからといってここで巻き込んでいいのか。

 帰りたい場所のひとつだと言ってくれた人に、その場所の裏にあるものをどこまで見せるべきなのか。


「今はまだ」

 恒一が言う。

「言わない?」

「うん。少なくとも、ちゃんと整理してから」

「そうだね」

「下手に不安だけ渡したくない」

「……」

「何」

「いや」

「何だよ」

「ちゃんと考えてるなって」

「失礼だな」

「最近は本当に一歩遅れてから考えてる感じだったから」

「うるさい」


 けれど、その言い方はどこか柔らかかった。


 時計を見る。

 営業まで、まだ少しだけ時間がある。


「メモする」

 恒一が言う。

「私も見る」

「お前のほうが、足跡とか位置関係は正確だろ」

「顔よりはね」

「まだ言うか」


 短く言い合いながら、二人は作業台に紙を広げた。


 森の簡単な地図。

 罠の位置。

 足跡の重なり。

 白い布切れ。

 缶の落ちていた場所。

 別の出入口らしき切れ目。

 そして、聞いた会話の断片。


 文字にすると、余計に気味が悪い。


 だが、書き出すことで少しだけ冷静になる。

 料理と同じだ。頭の中だけで煮詰めていると形を失う。いったん皿に乗せると、何が足りないかが見える。


「……店のほうは、まだ保ってる」

 澪が男の言葉を繰り返す。

「うん」

「ってことは、向こうもここがまだ潰れてないことを前提にしてる」

「つまり、店が残ってること自体に意味がある」

「たぶん」

「で、“上が抑えてるうちに”」

「それは、おじいさん側か、再開発側か」

「どっちにしても、店の外で何か止まってる」

「……」

「嫌だな」

「うん」


 嫌だ。

 だが、逃げられない。


 玻璃亭の地下は、もうただの厨房ではない。

 その下にある森まで含めて、この店の現実なのだ。


 やがて、準備の時間が来る。


 黒板を出し、グラスを並べ、火を入れ、パンを焼く。

 いつもの営業前の流れが始まると、逆に少しだけ呼吸が整った。


 店を開ける。

 料理を出す。

 今はそれが本分だ。


 そしてその本分の先に、答えがあるのかもしれない。


 その日の最初の客が来る直前、階段の上からまた、あの少しだけ速い足音が聞こえた。


 東條院紗雪だ。


 恒一と澪は、ほとんど同時に顔を上げる。


「……来たね」

 澪が言う。

「うん」

「顔、作って」

「お前もな」


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 紗雪はいつも通り、きちんと綺麗だった。

 けれど、今日は彼女のほうも少しだけ落ち着かなさそうだった。


 たぶん、こちらだけではない。

 今日は誰もが少しずつ、何かの続きを抱えてこの店へ来ている。

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