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第18話 帰りたい場所に、帰れない夜

 店の中が静かでも、静けさの質が違うことがある。


 客が少ないから静かな夜。

 料理を味わうことに集中していて静かな夜。

 何か言葉にならないものが漂っていて、誰もそれを乱さないようにしている夜。


 その日の玻璃亭は、三つ目の静けさを帯びていた。


 帰りの白の小鍋を火にかけながら、朝倉恒一は東條院紗雪の横顔を何度も視界の端で捉えていた。

 いつものように姿勢は綺麗だ。

 服の乱れもない。

 けれど、落ち着いているように見せようとして、逆に少しだけ呼吸のタイミングがずれている。


 何かを話しに来た顔だった。


「完全に待ってるね」

 背後で澪が言う。


 火乃坂澪は鍋の横でパンを温めながら、呆れたようにこちらを見た。

「何を」

「紗雪さんの話」

「……まあ」

「隠す気ないじゃん」

「隠してない」

「それも珍しい」

「今さらだろ」

「今さらか」


 澪はそれで納得したのか、しなかったのか、微妙な顔でパンを籠へ移した。


 正直に言えば、恒一は気になっていた。

 朝、森で見つけた複数の足跡と、引きずられたような跡。

 それを店へ持ち込むつもりはなかった。料理店の営業中に顔へ出すべきことでもないし、紗雪へ話す類のことかどうかもまだ判断がつかない。


 だが、彼女のほうもまた何かを抱えて来ている。

 その気配だけは、もうごまかしようがなかった。


 帰りの白を仕上げる。


 白濁茸の静かな香り。

 風縫いの脂をほんのわずか。

 炙った薄切りの身を中央へ。

 前よりも、だいぶ自分の皿になってきている。祖父の影を背負いながらも、今の玻璃亭の温度で出せる一皿。


「お待たせしました」

 恒一が皿を置く。

「……ありがとうございます」


 紗雪は今日は、香りを確かめる前に一度だけ恒一の顔を見た。

 まるで、本当に大丈夫か確認するみたいに。


「そんなにひどい顔ですか」

 恒一が先に言うと、

「……ひどい、とまでは申しませんけれど」

 紗雪は少しだけ視線を逸らした。

「よい顔色ではありませんわ」

「二人に言われると、さすがに認めざるを得ませんね」

「二人?」

「澪にも」

「……そう」


 紗雪は小さく頷いてから、ようやくスプーンを取った。


 一口。

 いつものように、少しだけ表情がやわらぐ。

 その変化に、恒一も少し救われる。


「今日は」

 紗雪が言う。

「少しだけ、香りが強いですわね」

「わかりますか」

「ええ。ですが、嫌ではありませんの」

「よかった」

「ただ」

 紗雪はスプーンを置いた。

「本日は、帰ってきた味というより……どこか、出かける前の味にも思えますわ」

「出かける前?」

「ええ。落ち着くのに、少しだけ胸が騒ぐ感じ」

「……なるほど」


 その言い方は、妙にしっくりきた。


 今の店がまさにそうだ。

 落ち着く場所でありたいのに、何かが動き始めている気配がある。

 守られたままの静かな場所ではいられないのに、だからといって捨てたくもない。


 帰りの白は、いつの間にかそういう皿になり始めていたのかもしれない。


「お話があるんですよね」

 恒一が静かに訊くと、紗雪の指先がぴたりと止まった。

「……ええ」

「今、話しますか」

「その、できれば」

 紗雪は小さく息を吸う。

「他のお客様が落ち着いてからのほうが」


 その言い方が、普段よりずっと慎重だった。


「わかりました」

 恒一が頷く。

「営業が一段落したら」

「ええ。お願いいたしますわ」


 その後しばらく、店は穏やかに回った。


 常連の会社員風の男性が角兎の煮込みを頼み、今日は少し酒を控えめにして帰っていく。

 若いカップルが帰りの白を一つだけ頼んで分け合い、「これ、途中で味の空気変わるね」と笑い合う。

 いつもの老夫婦が今日はパンのおかわりまでしていった。


 悪くない夜だ。

 悪くないどころか、今の玻璃亭にとっては十分に良い夜だ。


 だからこそ、その穏やかさの中にある紗雪の緊張が、逆に際立っていた。


 最後の客を見送り、店の扉を閉める。

 閉店札を返し、階段の上の気配が遠ざかるのを確認してから、恒一はテーブル席へ向かった。


 紗雪はまだカップに指を添えたまま、まっすぐ座っていた。

 待たせたことへの不満はない。

 ただ、何をどう話すべきかを、今も測っている顔だ。


「お待たせしました」

 恒一が向かいに立つ。

「いえ」

 紗雪は小さく首を振る。

「待つのは、嫌いではありませんの」

「そうなんですか」

「ここでは、ですけれど」


 その一言だけで、少し空気がやわらいだ。


 恒一は彼女の向かいではなく、斜め横のカウンター寄りの位置へ立った。真正面だと、たぶん彼女はまた余計に緊張する。最近の距離感で、それくらいはわかるようになっていた。


「それで」

 恒一が言う。

「何かあったんですか」

「……」

 紗雪は少し黙った。


 それから、決めたように顔を上げる。


「祖父が」

 彼女は言った。

「ここ数日、少しだけ忙しくなっておりますの」

「忙しく?」

「ええ。普段は、もっと静かにしていらっしゃるのですけれど」

「……」

「家へいらっしゃる方の雰囲気も、いつもと違いますの」


 再開発の関係者か。

 あるいは、それに類する人間たちか。


 恒一は黙って続きを待った。


「詳しいことは伺っておりません」

 紗雪はすぐに言った。

「伺っても、祖父は必要以上のことを仰らないでしょうし、わたくしも、それを無理に聞き出したいわけではありませんの」

「はい」

「ですが」

 紗雪は手元のカップへ視線を落とす。

「この店の話が、家の中で以前より増えているのは事実ですわ」

「……」

「それも、“懐かしい店”としてではなく、もっと別の意味で」


 その言葉に、今朝の森の罠がまた頭をよぎった。


 別の意味。

 老紳士が昨夜言った、“もうひとつ守るべき役目”。

 それと繋がるものが、彼女の家の中でも動いている。


「紗雪さん」

 恒一は少しだけ声を落とした。

「無理して話してませんか」

「しておりますわ」

 紗雪は即答した。

「……」

「ですが、話したいのです」

「どうして」

「あなたが」

 そこまで言って、紗雪は少し詰まる。

「……こちらの店主でいらっしゃるからですわ」

「それだけですか」

「……」

「すみません。意地悪でした」

「ええ、とても」


 紗雪は軽く睨んでから、それでも小さく言った。


「それだけではありませんわ」

「……」

「この店が、あなた一人のものではないとわかっていても」

「うん」

「それでも、今ここで一番前に立っていらっしゃるのは、あなたでしょう」

「そうですね」

「でしたら、知らぬふりをしているのは卑怯だと思いましたの」

「卑怯」

「ええ」

「紗雪さんが?」

「そうですわ」

「……そんなことないと思います」

「ありますの」

 紗雪ははっきり言う。

「わたくしは、ここがなくなっては困るのです」

「……」

「でしたら、困るかもしれない兆しを見て見ぬふりして、ただ食べて帰るだけでは……だめでしょう」


 その言葉は、ひどく真っ直ぐだった。


 悪役令嬢みたいな話し方になる人だ。

 緊張すると変な方向へ言葉が飛ぶ人だ。

 けれど、こういう時の紗雪は驚くほど本音を外さない。


「ありがとうございます」

 恒一は自然にそう言っていた。

「だから」

 紗雪は少しだけ顔を赤くする。

「そういうふうに、すぐ礼を仰るのは、困りますのよ」

「でも、ほんとに助かるので」

「……そう」

「うれしいです」

「……もう」


 彼女は視線を逸らす。

 だが、今日はそこで終わらなかった。


「それと」

 紗雪は言う。

「もうひとつ」

「はい」

「もしも、祖父がこの店に何かを隠しているとしても」

「……」

「それは、壊すためではないと、わたくしは思っておりますわ」

「壊すためじゃない」

「ええ。祖父は、ああ見えて面倒なほど古い人ですもの」

「面倒なんですね」

「とても」

 紗雪は少しだけ頷いた。

「けれど、守ると決めたものには、最後まで筋を通す方ですの」

「……」

「ですから、あなたがたが今ここで誠実に店を続けている限り、祖父が敵になることはないと思いますわ」


 その保証がどこまで現実的かはわからない。

 けれど、紗雪がそれを言ってくれること自体に意味があった。


 東條院の家の中で何が動いているのか。

 老紳士がどこまで力を使っているのか。

 その全貌はまだ見えない。

 それでも少なくとも、今すぐこの店が見捨てられることはないのだろうと、少しだけ信じられる。


「……紗雪さん」

 恒一が言う。

「何ですの」

「帰りたい場所って、ありますか」

「え?」

「何でもない時に、ふっと戻りたくなる場所」

「……」


 唐突な質問だった。

 けれど、今はどうしても聞いてみたくなった。


 紗雪は少し考えてから、小さく答える。


「昔は、あまりありませんでしたわ」

「……」

「家は家ですけれど、帰りたい場所というのとは少し違いましたの」

「そうなんですね」

「ええ。けれど今は」

 そこで彼女は、店内を一度だけ見回した。

「ここも、そのひとつかもしれません」


 その言葉は、想像していたよりずっと静かに、深く入ってきた。


 玻璃亭が誰かにとって、帰りたい場所になっている。

 料理店として、それ以上に重い言葉はたぶんない。


「だから」

 紗雪は少しだけ顎を上げる。

「簡単に終わらせてはなりませんわ」

「……はい」

「約束なさい」

「約束します」

「そう」

「ただ」

「ただ?」

「終わらせないためには、たぶん、少し危ないところにも行かないといけない時があります」

「……」

 紗雪の瞳が揺れた。

「それは」

「まだ、はっきりは言えないんですけど」

「ええ」

「でも、無茶だけはしないようにします」

「……」

「そこは約束できます」

「……それでは、半分しか安心できませんわ」

「半分は安心してください」

「残り半分は?」

「頑張ります」

「抽象的すぎますのよ」


 その返しに、二人とも少しだけ笑った。


 笑いが落ち着いたあと、紗雪は立ち上がる。

 もうだいぶ遅い時間だった。


「本日は、話せてよかったですわ」

「僕もです」

「ええ」

「それと」

「はい」

「ここが帰りたい場所のひとつって言ってくれて、うれしかったです」

「……!」


 紗雪は一瞬、完全に言葉を失った。

 それから、耳まで真っ赤になって顔を逸らす。


「だ、だから」

 彼女は慌てて言う。

「そういうふうに真正面から受け取られると困りますの!」

「本音じゃなかったですか」

「ほ、本音ですけれど!」

「じゃあ、なおさら」

「も、もう!」


 そのまま逃げるように扉へ向かう。

 けれど、扉の前で一度だけ振り返った。


「……あなたも」

 紗雪が小さく言う。

「はい」

「帰る場所を、失ってはなりませんわよ」


 それだけ言って、彼女は階段を上がっていった。


 足音が消える。


 店内に残った静けさは、さっきまでと少し違っていた。


「……聞いてた?」

 恒一が振り返ると、厨房の奥で澪が腕を組んでいた。

「だいたい」

「盗み聞きだな」

「店狭いから」

「便利な言葉だな、それ」

「今日すごい使ってる」


 澪はそう言いながら、少しだけ真面目な顔で言った。


「帰る場所、か」

「うん」

「重いね」

「うん」

「でも、たぶんそうなんだろうね」

「何が」

「この店」


 その一言に、恒一は静かに頷いた。


 守るべき役目。

 再開発の線の外。

 森の罠。

 老紳士の後ろ盾。

 紗雪の記憶。

 全部の中心にあるのは、結局、この店という場所そのものなのだ。


 ただの地下の小さなレストラン。

 なのに、誰かが帰ってきたいと思ってしまう場所。


 それを守るために、今の自分たちは料理を作り、森へ入り、気づけば秘密の縁にまで立っている。


「……明日も開けるか」

 恒一が言う。

「当たり前」

 澪が返す。

「森も行く?」

「考える」

「珍しく慎重だな」

「帰る場所なくしたくないから」

「……」

「何」

「いや」

「何」

「お前もそう思ってるんだなって」

「そりゃそうでしょ」

 澪は少しだけ呆れたように言う。

「今さら何言ってるの」

「今さらだな」

「今さら」


 夜の最後に、恒一はカウンターの上へ手を置いた。


 磨き込まれた木の感触が掌に伝わる。

 祖父が触れ、自分が触れ、客が肘を置いてきた場所。

 ここは、もう単なる店ではないのかもしれない。

 けれど、だからこそ、まずは店であり続けなければならない。


 そうしなければ、何も守れない。

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