第17話 地下の店と、開けてはならない朝
朝というものは、たいてい夜の熱を少しだけ薄める。
昨夜どれだけ胸が騒いでいても、朝の厨房に立ち、包丁を握り、鍋の底を見つめているうちに、人間の頭は現実へ引き戻される。店とはそういう場所だ。眠れないほどの不安も、手放したくないほどの高揚も、朝の仕込みの前ではいったん同じ高さに並べられる。
だが、その朝は違った。
朝倉恒一は、玻璃亭の厨房に立ちながらも、昨夜の老紳士の言葉をまだ胃のあたりに抱えたままだった。
――この店には、もうひとつ守るべき役目がある。
しかも、その役目は地上の銀座だけで完結していない。
老紳士は、はっきりそう示した。
古い冷蔵庫の底。
石の階段。
夜の森。
仕掛けられた罠。
祖父の残したメモ。
再開発の線から、この区画だけが外れている理由。
それらが一本の線として結ばれかけているのに、まだ最後の答えだけが指先から逃げていく。
わかりかけているのに、わからない。
わからないのに、もう無視できない。
「三回目」
背後から澪の声がした。
恒一は振り返る。
火乃坂澪が、パンの仕込みに使う粉の袋を抱えたまま、呆れたような顔でこちらを見ている。
「何が」
「鍋、かき混ぜる手が止まった回数」
「……そんなに止まってたか」
「止まってた」
「悪い」
「悪いじゃなくて、焦がすと怒る」
「怒られる前提なんだな」
「当然でしょ」
澪は粉を作業台へ置き、恒一の横へ来ると、鍋の中身を覗き込んだ。
白濁茸のベース。帰りの白のための下支えになる、静かなスープだ。
「まだセーフ」
澪が言う。
「でも、今日はほんとに心ここにあらず」
「そんなつもりは」
「顔」
「お前ほんと顔好きだな」
「好きじゃなくて便利なの」
その言い方に、恒一は少しだけ息を吐いた。
昨夜の続きを、どこかで話してしまいたかったのだと思う。自分の中だけで抱えるには、あの老紳士の言葉は重すぎた。
「……澪」
「何」
「昨日のことなんだけど」
「おじいさん?」
「うん」
「私も考えてた」
「そっちから言うの珍しいな」
「考えるくらいする」
澪はそう言いながら、冷蔵庫のほうへ一瞬だけ目をやった。
その視線には、警戒と、少しの苛立ちと、どうしようもなく引き寄せられてしまう好奇心が混ざっている。
「“役目”って何だと思う?」
恒一が訊く。
「わからない」
澪は即答した。
「でも」
「でも?」
「守るって言い方してる時点で、ただの食材の仕入れ場所じゃない」
「うん」
「祖父さんも、おじいさんも、“使う”じゃなくて“守る”って言ってる」
「……そうなんだよな」
「そこが気持ち悪い」
気持ち悪い。
その表現が妙にしっくりきた。
異世界の森は、最初はただ魅力的な匂いのする場所だった。
風縫いの肉を持ち帰り、角兎の煮込みを作り、白濁茸でスープを引き、そのどれもが店を前へ押した。料理人にとっては、あまりに魅力的な場所だった。
だが今は違う。
罠があり、人の痕跡があり、こちら側の再開発や不自然な後ろ盾まで絡み始めている。
あそこは、もう「都合のいい秘密の仕入れ先」では済まない。
「……朝のうちに、見に行くか」
恒一が言うと、澪が即座に顔を上げた。
「今?」
「うん」
「営業前」
「明るい時間に、向こうがどう見えるか知りたい」
「夜しか入ったことないもんね」
「それに、今のうちに確認したい」
「何を」
「罠の位置とか、通った痕跡とか、こっちから見えてないものが朝なら見えるかもしれない」
「……」
澪は数秒考えた。
その沈黙の長さに、恒一は自分が少し強引なことを言っていると自覚する。
営業前に異世界へ入る。
料理店の段取りとしては最低だ。何かあればランチも仕込みも飛ぶ。そうなれば店主として失格に近い。
だが、だからこそ朝のうちに一度だけ見ておきたかった。
昼の光の中で、この店の“もうひとつの顔”を見なければ、今後の判断を誤る気がした。
「……短時間」
澪がようやく言う。
「本当に見るだけ」
「うん」
「何か見つけても、追わない」
「うん」
「食材も取らない」
「そこまで?」
「そこまで」
「……わかった」
「返事だけじゃなくて」
「努力する」
「努力じゃなくて、守る」
「はい」
澪はそこでようやく、小さく頷いた。
「じゃあ十五分で準備」
「十五分?」
「朝なんだからそれくらい」
「お前、軍隊か」
「店員兼相棒です」
その返し方が、少しだけいつもの調子で、恒一は変に救われる。
準備は本当に十五分で終わった。
包丁や鍋を使う朝の厨房よりも、狩りの準備をしている時のほうが、澪の手際はさらにいい。
革袋。短槍。縄。ランタン。小型のメモ帳。
そして今日は、森の中の位置関係を残すために、白いチョークまで持っていくことになった。石や木に印を残すつもりらしい。
「それ、店の備品だろ」
恒一がチョークを見て言う。
「黒板の予備」
「営業に支障出るぞ」
「一本くらい平気」
「雑だな」
「あとで買えばいい」
「そういう問題か?」
言い合いながら、冷蔵庫の底板を持ち上げる。
朝の空気の中で開く通路は、夜とは別物だった。
夜はあの森の匂いが先に来る。
だが朝は、匂いの前に空気の重さが違った。
ひんやりしているのに、生きている。湿度があり、土の細かな粒が漂っていて、東京のどんな冷気とも似ていない。
石の階段を下りる。
通路の先に見える光も、今日は青白い夜光ではない。もっと淡く、白に近い薄い光だ。
森へ出る。
「……うわ」
恒一は思わず声を漏らした。
朝の森は、夜よりずっと異様だった。
夜は発光する茸や葉が幻想めいて見える。
だが朝は逆だ。光が弱いぶん、森の輪郭そのものがよく見える。木々は思っていた以上にねじれ、幹の表面には透明な樹液が筋のように走り、地面には細い菌糸みたいなものが白く張っている。夜には“きれい”で済ませていた景色が、朝だと急に“生き物の内側”みたいに見えた。
「気持ち悪いね」
澪がぽつりと言う。
「うん」
「夜のほうがまだごまかせる」
「それはわかる」
それでも、見えるものは多い。
昨夜までうまく見つけられなかった地面の窪み。
踏み分けられた草。
そして、自分たちが以前見つけた罠の位置。
二人は慎重にそこまで歩いた。
朝の森では、昨日までの違和感がいっそうはっきりしていた。
罠の周囲には、複数の足跡が残っている。人間のものに近い。少なくとも風縫いや角兎のものではない。しかも、一方向ではない。何度か往復している。
「これ……」
恒一がしゃがみ込む。
「うん」
澪もすぐ隣にしゃがむ。
「同じ人じゃないかも」
「足幅違う?」
「それもあるし、重さも違う」
「お前ほんとそういうの見えるな」
「森だとわりと」
「店だと?」
「顔」
「便利すぎるだろ」
冗談めかして返しながらも、背中にはじわりと汗が滲んでいた。
複数人。
しかも何度か往復している。
つまり、偶然入り込んだ誰かではない。ここを目的地として使っている人間がいるということだ。
「こっち」
澪が指をさした。
少し離れた木の根元に、白っぽい小さな布切れが引っかかっていた。
近づくと、それは向こうの世界の繊維ではなく、明らかにこちら側の量産品に近い布だった。シャツか、作業着の袖か、そういうものの破れ端に見える。
恒一は思わず顔をしかめる。
「完全に人間じゃん」
「うん」
「しかも、こっちの」
「たぶんね」
「気持ち悪いな」
「うん」
澪はチョークで近くの石に小さく印をつけた。
位置を覚えるためだろう。
「もう少し奥見る?」
恒一が小声で言うと、澪は即座に首を振った。
「約束」
「……そうだな」
「今日は見るだけ」
「わかってる」
そう答えた瞬間だった。
森の奥で、何かが鳴いた。
ギィ、と金属を引っかくような声。
風縫いに少し似ている。だが、もっと大きい。しかも一度だけではなく、間を置いて二度、三度と重なった。
恒一と澪は同時に顔を見合わせた。
「複数」
澪が低く言う。
「うん」
「戻る」
「うん」
二人はすぐに踵を返した。
だが、数歩戻ったところで、恒一はふと足を止める。
地面に、細くて新しい線が走っていたからだ。まるで、誰かが何か重いものを引きずった跡みたいに、黒土が浅く抉れている。
「どうした」
澪が振り向く。
「これ」
「……」
「昨日まで、あったっけ」
「なかったと思う」
「こっちから奥へ続いてる」
「見ない」
澪はぴしゃりと言った。
「でも」
「見ない」
「……はい」
口調が強かった。
強かったが、それでよかった。
今の恒一は、料理人の好奇心が勝ちすぎている。
もしここで一人なら、たぶんその跡を追っていた。
だからこそ、澪が相棒でいてくれる意味がある。
二人はそのまま石の通路まで戻った。
階段を上り、冷蔵庫の底を閉じる。
厨房の空気が一気に現実へ引き戻してくる。
コンロ。
鍋。
まな板。
パンの生地。
店の朝の匂い。
だが、その現実の奥に、今も森の冷たい気配がくっついていた。
「……複数人」
恒一が言う。
「うん」
「しかも、向こうを使ってる」
「うん」
「完全に仕入れ先どころじゃないな」
「うん」
「どうする」
「営業はする」
澪が即答した。
「そのあとで?」
「考える」
「ざっくりだな」
「だって、今は店だから」
「……そうだな」
結局、それに尽きる。
森の中で何が起きていても、今この時間に自分たちがやるべきことは変わらない。
仕込みをして、店を開けて、客へ皿を出す。
それがこの店の本分であり、たぶん役目を守るための一番手前にあることでもある。
「ねえ」
澪が言った。
「何」
「今日、顔に出さないで」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「守る」
「よし」
澪はそれでようやく、パン生地へ戻った。
恒一も鍋へ向き直る。
白濁茸の香りは、さっきまでより少しだけ繊細に感じられた。森の本体を見たあとだからかもしれない。皿になった時の静かな美しさの裏に、もっと生々しい、得体の知れないものが確かにある。
その二重性ごと、この店は抱えていくのだろう。
午後の営業が始まる頃には、厨房の空気はある程度整っていた。
整ってはいたが、胸の奥のざわめきまでは消えていない。
そんな状態で店を開けたのだから、最初の一時間は少しだけぎこちなかった。
常連の一人に「今日は少し緊張してる?」と笑われて、恒一は「新しい仕込みで」とごまかした。嘘ではない。だが、全部でもない。
そして午後六時を少し回った頃。
階段の上から、あの足音がした。
少し速く、少しだけ緊張していて、でももうこの店へ来ること自体には迷いのない足音。
東條院紗雪だった。
「ご、ごきげんよう」
今日の紗雪は、いつもより少しだけ顔が強張っていた。
服装は上品で整っている。だが、その目元には明らかな落ち着かなさがある。店へ来ることに緊張しているのではない。別の何かを抱えて来た顔だ。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷く。
「本日は……少し、早く参りましたわ」
「ありがとうございます」
「別に、他意はありませんのよ」
その言い方の時は、だいたい他意がある。
紗雪は席につくなり、周囲を一度だけ見回した。客の数、厨房の様子、恒一の顔、澪の位置。その全部を確認してから、小さく口を開く。
「……本日は、少しお顔がよろしくありませんわ」
「二人目ですね」
「二人目?」
「いえ、何でもないです」
「何でもないことはありませんわ」
「あとで話します」
「……そうなさい」
紗雪は素直に引き下がった。
それが少し意外で、恒一は逆に気になった。
「ご注文は」
「帰りの白を」
「はい」
「それと……本日は、できるだけお席を長くお借りしても?」
「もちろんです」
その一言で、わかった。
彼女もまた、何かを抱えている。
店の中に、料理とは別の会話が生まれそうな気配が、静かに満ち始めていた。




