第九話 小さな騎士と翡翠の間のひととき
王都・ルクレ伯爵邸では、最近、帰りの遅かった長姉エルミージュが、珍しく早く帰宅した。
リオネルは早速、エルミージュの元に走った。
走りながら目にする長姉は、いつもとは違ってかなり疲れているように見えた。
「姉さま、どうしたの? 」
リオネルは、まだエントランスにいるエルミージュに飛びついた。
下から見上げながら、挨拶より疑問に思ったことを素直に聞いた。
「ん? なんでもないわよ 」
エルミージュは優しく笑い抱きしめてくれる。
その顔が、何とも言えない見たことのない表情だった。
「でも……何かあったの? 」
何でも言って欲しい。
何か嫌な気配を感じるリオネルは食い下がった。
リオネルのお気に入りの客間・翡翠の間にエルミージュを引っ張っていった。
侍女にお茶とお菓子を頼み、さぁ話しましょうと、ソファにエルミージュと並んで座った。
少し困ったような顔をしたエルミージュが言葉を濁した。
「うーん……リオネルにこんなこと言っても」
「言ってよ、姉さま! 力にならなくても、言うだけでも違うかもしれないよ」
小さな騎士のお願いに、エルミージュが根負けした。
リオネルの方に身体を向け、彼の頭を撫でながら話し始める。
頭を撫でられているリオネルは、満足気に顔の筋肉を緩めていった。
「あのね、最近王太子殿下、なんだか距離が近いのよ……」
唇を噛み締めながらポツリポツリと続ける。
「やたら触られるというか……元々、人との距離が近い方なのだけどね」
話し始めても、エルミージュは迷いながら話している。
これは、いつにないことだった。
撫でられ、ご満悦だったリオネルは気を引き締めて豪語した。
「姉さま! 嫌なことは、はっきり言ったほうがよいよ」
「うん。でもね、王太子殿下だから……」
リオネルが、じっと見つめ続けると、消え入りそうな声でエルミージュが続けた。
「それでもね、言ったのよ、やんわりと『触りすぎですわ。誤解されてしまいますよ』って」
リオネルは、思わず拍手した。
そこでエルミージュは項垂れた。
今度はリオネルが、目の前で項垂れた長姉の頭を撫でた。
撫で始めてすぐ、急にエルミージュが顔を上げ、
「言ったらね、何だか冷たくなったというか、避けられてる感じがして……酷いことを言っても、覚えていないみたいで」
なんだそれは? と、リオネルも驚いた。
リオネルが見かけたことがある王太子ジュリアンは、素直そうな少年だった。
遠くから見るだけだったが、悪い印象は持っていなかった。
どちらかというと長姉に甘えていると見えていたからだった。
「私はね、他人に無闇に触られるのは好きではないし、周囲に誤解させるわけにいかないでしょう? だから進言したのよ」
エルミージュは心を許している人以外に触られるのも、近付かれるのも苦手だった。
泣きそうな感じの弱りきったエルミージュにリオネルは抱きついた。
「僕が姉さまに付いて行く! ずっと傍にいて、ちゃんと見てるよ!」
と、小さな騎士ぶりを発揮した。
「ありがとう、リオネル。でも大丈夫よ」
本気で付いて行く気なのにと、リオネルは苛立った。
説き伏せようとした時、間が悪く、次姉のセリーヌがやってきてしまった。
「姉さまを独り占めするのはよくないわ、リオネル」
と、口を尖らせ少し開けた扉から、顔だけ覗かせている。
そこからは、セリーヌも混じえて三人で楽しんだ。
邸の庭に迷い猫が来た、その猫が父さまに懐いたので、父さまが泣いて喜んだとセリーヌが報告した。
そんな他愛もない会話を楽しむこととなった。
途中、エルミージュが
「このお菓子、味が変わったの? 甘さが足りないわね」
と言った。それは、いつもの味で変わってなかった。
この日の帰宅前、執務室で王太子ジュリアンにエルミージュは思いきって、ある疑問を投げかけていた。
ジュリアンにお茶を淹れた時に、さり気なく、
「殿下、私が職を退いても支障はございませんか?」
「うーん、誰がいなくなっても支障はないよ、なんとかなるさ」
ジュリアンはペンを走らせながら答えた。
エルミージュを見ることなく、言葉を続けた。
「アルベールが居なくなった時はさすがにどうにもならないと絶望したけど、なんとかなったからな」
「そうですか……」
エルミージュはジュリアンの言葉を少し寂しく思った。
(なら、気にすることはないわね)
(私が居なくても問題ないのなら、気にするのはやめよう。そして、時期が来たら辞めよう)
エルミージュは、自分は王太子の補佐を辞めてはいけないのではないか?と思っていた。『辞められると困るよ』くらいは言って貰えるかなと。
予想に反した言葉と、今までのジュリアンの挙動不審も重なり、辞職を考えて帰宅していたのだった。
エルミージュは、リオネルとセリーヌに接する事で癒してもらい、もう少し頑張ってみようと心に決めた。
やれるところまでやってみようと。
王太子の補佐を、辞めることはいつでも出来ることだからと……
この時、セリーヌも混じえて話せばよかったと。
家族会議にすれば良かったと、リオネルは大きく心に残ることになった




