第八話 静かな歪み
深夜の王太子執務室。
補佐官たちは帰路に就き、王太子ジュリアンとエルミージュは二人きりになっていた。
作業はなかなか終わらず、エルミージュが居なければ、徹夜になっていた。
目処がつき、帰り支度を始めた時、王太子の護衛騎士は、その場をエルミージュに任せ、他の騎士を手配しに部屋から出ていった。
騎士の帰りを片付けをしながら待っていると、ジュリアンがエルミージュの背後に来ていた。
エルミージュは戸締まり確認をしていて気付いていない。
ジュリアンは何を思ったのか、突然エルミージュを背後から抱きしめた。
エルミージュは一瞬困惑したものの、一切動揺も感情も見せず、
「どうされました?」
と、子供をあやすように、背後から首元に回された王太子ジュリアンの手を持った。
腕を離せと促すため、右手でペチペチとジュリアンの手を叩く。
ジュリアンはエルミージュの左肩に顎を乗せ、腕に力を込めていく。
「殿下? 何かございましたか?」
それを聞いた王太子ジュリアンは、心の糸が切れた。
——俺は幼子ではないぞ。
エルミージュの顔を自分の方に向け、また自らの顔も近付けようとした……
その瞬間、エルミージュは反射的に動いた。
腰を低く落とし、首もとに回された腕を自分の身体の横に流し捻る。
同時にほんの一瞬、机の上の書類が舞う微かな突風がジュリアンめがけて起きた。
体勢が不安定だったジュリアンはバランスを崩した。
体重のかかった一歩が支点となり、そのまま前方に投げ飛ばされてしまった。
「あっ、あー! 申し訳ございません! 失礼いたしました!」
エルミージュはその場に座り込み頭を下げた。
「殿下、お怪我はございませんか? ご無事ですか?」
ジュリアンも何が起きたのか理解できていない。
腰をさすりながら、ゆっくりと、起き上がった。
受け身など取れなかったのだ。
エルミージュは細身で小柄。
陽の光の下ではキラキラ輝く金の髪と吸い込まれそうな青い瞳。
大人しい、ご令嬢という印象しか与えない見た目と雰囲気を持っている。
幼少時からの付き合いではあるが、彼女が人を投げ飛ばせるとは思ってもみなかった。
「ひどいな……エルミージュ。俺は暴漢か?」
「そうですね。暴漢と同じですね。急に背後をとられると条件反射ですわ」
エルミージュは憮然として言った。
「これでも少し抑えたので、すぐには反応しませんでしたでしょ? 信頼している殿下だからですよ……他の方なら問答無用! 背後をとられた瞬間、私の餌食になってますわ!」
なぜか誇らしげに、エルミージュは語った。
「そういうものか?」
「はい、そういうものです。女性は強い生き物です!」
「いや、女性は……貴族令嬢はか弱い生き物だと、ずっと思っていたのだがな」
ジュリアンは開いた口が塞がらない。
ぽかんとしてエルミージュを見つめていた。
「ルクレ家の淑女教育は、どうなってるんだ?」
呟くように言ったジュリアンの声をエルミージュは拾っていた。
「父からは、幼少時、喧嘩して負けて帰った時、『負けて帰ってくるな! 勝って帰ってこい!』と放り出されましたわ」
感慨深くエルミージュは言った。
「それ以来、負けて帰りませんでしたわ! 百戦錬磨です!」
エルミージュは、なぜか胸を張って褒めてと言わんばかりに自慢気だった。
「ちなみに、その喧嘩の相手は、殿下、第二王子殿下、アルベール様ですけどね」
「俺達か!」
何ということだと、ジュリアンは頭が痛くなった。
(誰かの魔力が力を貸さなかったか?)
(……いや、考えすぎか)
腑に落ちない物を感じながらも、色々な意味で毒気を抜かれた彼は、気を取り直した。
「夜も更けた、さっさと帰ろう。今の物音で外の護衛が騒ぎになっている」
外に居た護衛騎士は、ノックしても返事がなかったため、慌てて入ってきていた。
騎士が入室した時、王太子ジュリアンが手を上げて、何事もないと制していた。
床にあぐらをかいて座り込んでいる王太子と、少し離れた場所で正座し、同じく床に座っているエルミージュ。
護衛騎士は二人を交互に見たあと、コケたか、高所から落ちたのか? と思ったが追求はしなかった。
主君の無事のみ確認し、護衛につくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
王太子ジュリアンはエルミージュに対しては、平素から距離感が近かった。
難しい仕事を頼む時、手を撫でまわし甘えてお願いをする。
エルミージュは一歳下なのに、彼はいつも甘えていた。
側近として、常に側にいた第二王子と宰相令息のアルベール。
二人がエルデリア王国から居なくなったことが、ジュリアンの心に大きな影を落としていた。
その上、様々な失態の尻拭いが多くなり疲弊していた。
精神的に疲弊しているだろうと思ったからこそ、エルミージュは子供をあやす対応をしてしまった。
だが、エルミージュは無意識の反応で台無しにしたと思い、少し落ち込んでいた。
自分が辛い時に助けてくれた事がある王太子ジュリアン。
その恩返しを、出来る限りしなければ、頑張れ私と思い、心で謝っていた。
(私にあんなに甘えてくるなんて、リオネルみたいだわ)
エルミージュは、先程のジュリアンの行動から、今年七歳になる、七歳下の弟リオネルの事を思い浮かべていた。
七歳になるというのに、まだ姉離れができないのか、暇さえあれば傍に居た。
ソファに座るエルミージュに背後から抱きついたまま、本の読み聞かせを強請ることも多かった。
エルミージュには二歳下の妹セリーヌもいるが、彼と彼女は優しくて少し抜けている姉が大好きだった。
早く帰れたらリオネルに遊んでもらわなければ、と心の中で思う。
回廊を歩く間、ずっとそのことを思い出し、自然と顔が緩んでいた。
そんなエルミージュを背後から見つめるジュリアンの瞳は、また仄暗い光が見え隠れしていた。
——エルミージュ、何がそんなに嬉しいんだい?
——君をこのまま持って帰りたいよ。
——君は俺の物だよ。傍から離れるのは許さないからね。




