第七話 揺らぐ均衡
——は? 聞いてないぞ、そんな話
相変わらず宰相補佐官は、王太子執務室に遊びに来ている。
表面上は変わらない日々を送っていた、ある日の昼下がり。
王太子ジュリアンはエルミージュの言葉を聞いた瞬間、内心では固まった。
爽やかな笑顔を保ってはいるが、瞳は仄暗く淀み始める。
補佐官たちは、その淀みに気付くことなく話に夢中になっていた。
数刻前のことだが、補佐官の一人が婚約が決まった事を話題に出した。
執務室では、仕事ばかりで忙しく、婚約者が決まっていない者が多い。
自然と、それぞれの恋の話題に移った。
意中の人がいるのかと興味津々で騒いでいた。
その輪には加わらず、書類整理をしていた数名の中にエルミージュもいた。
「ルクレ補佐様は、お心にお決めの方などいらっしゃいますか?」
入ったばかりの男性補佐官が、無邪気に尋ねた。
急に話を振られてエルミージュは戸惑っていた。
「わたくしですか……ええ、想う方はおりますわ。離れた場所にいらっしゃいますけれど、まだ正式な婚約前ですわ」
彼女は戸惑いながらも、さらりと言った。
「さぞ素晴らしい方なのでしょうね。憧れますわ」
「僕は、ルクレ補佐様をお慕いしております」
「ぜひその方を、この場にお連れください」
憧れる者、どさくさ紛れに告白する者、悲喜こもごもになっていた。
笑い話となり、すべて軽口だとわかる他愛ない会話だった。
その中でただ一人、王太子ジュリアンだけは反応が違った。
エルミージュの言葉以外、周りの喧騒などジュリアンの耳には入ってこなかった。
彼の中では、エルミージュが発した婚約という言葉が繰り返し響いていた。
——離れた所? まさか他国か?
——君はずっと俺の傍に居るんだろ? 嫁いでも仕事は続けるんだよな?
ジュリアンは、自分の中にある焦りや不機嫌さの正体がわからなかった。
胸が締め付けられ、たとえようのない不安に呑み込まれていく。
内面の荒れ狂う感情の嵐に翻弄され、息をすることすら忘れていた。
——君まで俺から離れるというのか?
——そんなことは許さない。 許されない。
——俺には君しか残っていないんだぞ。
補佐官たちはジュリアンの空気に、誰も気付かなかった。
エルミージュに話を振った新人補佐官が、ふとジュリアンと視線が合った。
ジュリアンは穏やかな笑みを浮かべていた。
騒いでいた事を咎められるかと思っていた新人補佐官は、どこまでも、優しい上司のもとで働けていると嬉しくなった。
(殿下とルクレ補佐官様は幼馴染なんだよな。信頼関係に憧れるな……)
(殿下のもとで働けてなんて幸運なんだ)
新人補佐官だけが、まともにジュリアンを見たのに、笑顔の裏など読み取れるはずもなかった。
ジュリアンのエルミージュを、ニコニコと見つめる瞳に妖しい光が混ざったことにすら。




