山の獣と、静かな刃
山の空気は、街のそれとはまるで違う。
澄んでいるが、どこか張りつめている。深呼吸をすれば肺が冷たくなるほどで、ミアは何度も鼻をすんすんさせていた。
「くしゃみ出そう……」
「出すな。獣が寄ってくる」
「はい……」
ロルフの後を歩くミアの肩には、小さな布袋が斜めにかけられている。採取用の道具、薬包、簡易の護身短剣などが入っていた。
「……あの、さっきから聞こえてる声……なんですかね、あれ」
「おう。あれは《ウカリ鳥》だな」
「ウカリ鳥?」
「ああ。“気まぐれ鳥”とも呼ばれてる。黒い羽根で、尾が三つに分かれてる。雨が近づくと、えらく悲しそうな声で鳴くんだ。
――この辺じゃ、“別れの兆し”って言われてる」
「……縁起でもない」
ミアが眉をひそめると、ロルフはニヤリと笑った。
「気にすんな。鳴き声がへたくそなだけだ」
山道を進むにつれて、道は細く、足場も悪くなっていく。
途中、くぼ地の湧き水で喉を潤し、風で倒れた薬草をいくつか摘んだ。
それを見たロルフがぽつりと口を開く。
「……摘み方、悪くねぇな。よく見てたな」
「えへへ。いつか、ロルフさんがいなくなっても“味”を守れるようにって……」
「縁起でもねぇこと言うな」
「そっちこそです!」
ふたりがそんな他愛もない会話を交わした、その直後だった。
――ガサッ。
茂みの奥から、低い唸り声が響いた。
「下がれ、ミア。距離をとれ」
「な、なに……?」
茂みを割って現れたのは、四つ足の獣。《爪斑グリル》だった。
全身にまだらな斑点模様、異様に発達した前脚の爪。
この地域に棲む魔獣で、俊敏かつしぶといのが特徴だ。
「ロルフさん、どうするんですか……!」
「倒す。それしかねぇ」
ロルフは腰の後ろから、大型の調理用ナイフ――“戦場帰りの包丁”を抜いた。
戦うために研がれたそれは、料理にも魔獣にも等しく振るわれる。
戦いは、わずか数十秒だった。
ロルフの一撃は無駄がなく、力強く、そして正確だった。
グリルの動きを見極め、一閃で右脚の腱を断ち、次の瞬間には喉元を押さえ込んでいた。
しかし――
「ミア、次!」
「えっ……!?」
「動けるうちに、倒せ。お前も“客の命”を預かる側になるんだろ」
「……はいっ!」
ミアは震える足を押さえながら短剣を構えた。
ロルフが脚を押さえている間に、深く、狙って――突く。
ぬるりとした手応えと、温かい血の跳ね返り。
ミアの瞳が一瞬だけ揺れ、だが――すぐに落ち着いた。
「……倒しました」
「ああ。よくやった」
「でも……すごい怖かったです。ずっと手が震えてて、見えなくなりそうで……」
「それが“初陣”ってもんだ。……怖ぇまま動けたなら、上出来だ」
ロルフが魔獣の死骸を手早く処理し、持ち帰れる素材を取り分ける。
ミアはその隣で、ひとつ深呼吸をした。
その夜、ふたりは焚き火を囲んだ。
山中の静けさに、木のはぜる音と湯を沸かす音だけが響いている。
「……ロルフさん、戦う時の顔、すごかったです」
「そりゃあな。もともと、そういう顔してる」
「ちがいますって。なんていうか……昔、すごい人だったんだろうなって。今さら聞きませんけど」
ロルフはしばらく黙って湯を見つめていたが、やがてぼそりと答えた。
「強い奴ってのは、他人のために命を張れる奴のことだ。
俺はそこまでの人間じゃねぇ。あの頃は、自分の中の“怒り”で動いてたからな」
「……でも今は、誰かの“心”のために動いてる」
ミアが、そう言った。
「……なんか、ずるいです。そんな大人になれって、言われてるみたいで」
ロルフは、湯に少しだけ“焚き火酒”を垂らし、小さなカップに注いだ。
「大人ってのはよ。ずるいくらいがちょうどいいんだ」
夜は更けていく。
風は冷たく、焚き火はやわらかい。
誰も知らない山の中で、ふたりだけの“静かな夜”が流れていた。




