閉ざされた暖簾、開かれる足音
「……数日、店を閉める」
ロルフの言葉に、常連たちの箸が止まった。
夕暮れ時の〈月夜の杯〉。いつも通りのんびりとした空気が流れるなか、ふいに告げられたその一言は、小石が水面に落ちたような静かなざわめきを生んだ。
「え、マジで?」
「風邪でもひいたんですかい、旦那?」
「まさか閉店じゃないよな……?」
「んなこたぁしねぇ。ただの仕入れだ。――ちょっと、遠出になる」
ロルフはそう言って、グラスを拭く手を止めなかった。
それが冗談でも一時的な気まぐれでもないと悟った客たちは、それぞれ納得したように頷き、残りの酒に口をつけた。
夜も更け、暖簾を下ろしたあとの店内。
テーブルを片付けていたミアが、おそるおそる口を開いた。
「……仕入れって、“あれ”ですよね?」
「ああ。“霧花”だ。もう在庫が底をつく。次の“月の雫”は、あれがないと作れねぇ」
「そっか……。ロルフさん、一人で行くんですか?」
「最初はそのつもりだったが――」
ロルフは椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。
「ついて来るか?」
「……! ほんとに!? いいんですか!?」
「まぁ、お前もそろそろ“外”を見ておいた方がいい。素材の顔も知らずに、酒は語れねぇ」
「よしっ! じゃああたし、準備します!武器、薬草袋、干し肉と水と……!」
わたわたと店の奥へ駆けていくミアを見送りながら、ロルフは肩をすくめた。
「やれやれ。……旅慣れてねぇな」
翌朝。
まだ街が目覚めきらぬ薄明の中、ふたりは店の前に立っていた。
「じゃあ、看板下ろしますね」
ミアがいつもの笑顔で言う。
「……なんか変な感じですね。“月夜の杯”が閉まってるなんて」
「店ってのはよ、“開いてる”ことより、“帰ってこられる”ことの方が大事だ」
「……深いようで、ちょっとズルいような言い回しですね」
そう言いつつも、ミアの顔は笑っていた。
看板を裏返しにし、「休業中」と手書きの札をかける。
それは、あたかも一つの物語の幕がいったん下りるような、少しだけ寂しさのある動作だった。
町の門を出て、二人は南へと歩き出した。
春の終わりの山道には、まだ朝霧が残り、遠くに野鳥の鳴き声が響いている。
「ロルフさん。……これって、奥さんと一緒に採りに行ってた素材なんですよね?」
「ああ。あいつが見つけたんだ。“この香り、絶対お酒に合う”ってな。
実際、こいつが入るとまろやかになるんだよ。“あの味”になる」
ミアは一歩歩くたびに、胸の奥がぎゅっとなるのを感じていた。
何年も前、自分が熱にうなされていたあの夜。
あの人――ロルフの妻――がくれた、甘くてやわらかな飲み物。
その香りは、今も忘れられない。
「ねえ、ロルフさん。……あたし、やっぱり、来てよかったと思ってるんですよ」
「……ほう?」
「あの時の味を思い出して、ここに来て、ここにいさせてもらえて……。
あの時、助けてくれた人がどんな人だったのか、少しずつ知っていけるのが、うれしいんです」
ロルフはしばらく無言で歩いたあと、ぽつりと呟いた。
「……あいつ、子供好きだったからな。
よく作ってたよ、あの甘い飲み物。“大人の真似して飲める酒”だって」
「えへへ、それ、ちょっと嬉しいです」
道はまだ続いている。
街道から山道へ。山道から獣道へ。
この先には魔獣も出る。霧も出る。危険もある。
けれど、ロルフは“あの味”を守るために、
そしてミアは“あの味”を覚えているために――共に歩くことを選んだ。
ふたりの足音が、朝霧の中にゆっくりと消えていった。




