過去の足音
夜の月夜の杯には、珍しく緊張感があった。
その日やってきたのは、どこか影のある男だった。黒いマントに、顔の半分を隠すような長い前髪。目元は鋭いが、旅の疲れと年季の入ったブーツが、長い距離を歩いてきたことを物語っていた。
「……ひとつ、月の雫をもらえるか」
静かに出されたその声に、ミアが一瞬だけ動きを止めた。
けれど彼女はすぐに笑顔を取り戻し、
「はい、かしこまりました!」
と、カウンター奥に下がる。ロルフはそのやりとりをちらと見やり、黙ってグラスを取り出した。
酒を注ぐ手には、いつも通り無駄がない。けれど、その指先が少しだけ強張っているようにミアには見えた。
「いい香りだな。……あの頃と、変わっていない」
客がぽつりと呟いた。
ロルフはその言葉に対して何も言わず、ただ静かに酒を置いた。
「俺は、ある人を探している。女だ。……数年前、この辺境で“月の雫”を作っていたと聞いている」
ミアは思わずロルフを見た。
だが、ロルフは変わらずグラスを拭き続けていた。
「名は……フローラ。ロルフ、お前の妻だったはずだ」
空気が、止まった。
ミアは息を呑んだ。彼女がこの店に来てから、ロルフの妻の話は断片的にしか聞いたことがなかった。もう亡くなっているとだけ聞かされていた。それ以上を聞くことはなぜか許されないような、そんな気配があった。
「……死んだ。あいつは」
ようやく口を開いたロルフの声は、低く、静かで、しかしその奥に熱があった。
「俺もそう聞いた。だが、確かな証拠はなかったらしいな」
「遺体は見つかってねぇ。けど、あの場所にいたら助かるわけがねぇ。それだけだ」
沈黙が落ちる。
男はグラスを傾け、月の雫をひと口飲んだ。そして、目を閉じる。
「……変わらないな。この味。俺は昔、彼女に助けられたんだ。ひどい熱にうなされて、意識も朦朧としていた。あの薬草のスープと、香りだけを残した甘い酒……忘れられるはずがない」
ロルフの手が止まった。
「生きていたら、何かの形で“あの味”を残しているはずだ。……そう思って、旅をしている。もし、何か知っていたら……」
ロルフは静かにグラスをもうひとつ取り出し、月の雫を注いだ。
それを、客の隣に置く。
「……伝えとけ。あの味は、今でもここにあるってな」
男は目を細めた。
「十分だ。ありがとう」
やがて客は立ち去り、静けさが戻った。
ミアが、恐る恐る口を開く。
「ロルフさん……あの人、誰だったんですか?」
「昔の……旅の仲間だ。……あいつに世話になったらしい」
「フローラさん、本当に……」
「……わからねぇ。けど、あの味を覚えてる奴がいるなら、まだどこかに“残ってる”のかもな」
ロルフの目は、遠くを見ていた。
月の光が、酒瓶に反射して、ほんの少しだけ揺れていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──
そんな物語を目指して、のんびり綴っています。
この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。
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また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!




