風の噂と、宙を舞う酒瓶
夕暮れの〈月夜の杯〉は、いつにも増して賑やかだった。
今日やって来たのは、街道を旅する小さな商隊。獣使いや魔道具職人を含む男女6人ほどの集団で、どの顔にも旅の疲れと笑顔が混じっている。
「店主さん、この町に来るたび噂だけ聞いててな。やっと寄れたよ」
「“冷たい酒に、温かい言葉”って言うんだろ?」
「ここの“月の雫”ってやつ、一度飲んでみたかったんだ!」
初めて来たはずなのに、まるで常連のような勢いで喋る一団に、ミアはややたじろぎながらも笑顔で応じた。
「皆さん、お酒の種類はお任せですか?」
「おう、任せた!オススメで頼むよ、若いの!」
「若くてすみませんねー!」
ロルフはいつも通り無口に、それでいて的確に注文を捌いていく。
旅人の男のひとりが、カウンターでグラスを傾けながらロルフをじろじろと見た。
「アンタ、ただの店主にしては手際が良すぎないか?
もしかして昔、王都の貴族の執事とかだったんじゃ?」
「貴族の前でしゃべるときゃ、もっと猫かぶる」
「ははっ、たしかに!」
ふと、別の女性客が小声で言った。
「なあ、さっき飲んだカクテルさ……なんか、見た目がすごかったな。まるで……酒が、浮いてたみたいだった」
「そうそう!重力魔石でも仕込んでんのかと思った!」
ミアが、ふふんと胸を張る。
「それ、ロルフさんが“動きながら注ぐ技術”なんですよ。
3種類の比重の違う酒を、それぞれ傾けながら層にして――氷に当てる角度も計算してるんです」
「それ、魔法よりすげえだろ……!」
「ロルフさん曰く、“魔法で味は整わねえ。整えるのは技術と手間”だそうです!」
「名言っぽい!!」
店は笑い声と酒の香りに満ちていた。
そんな中、ひとりの獣使いの青年がふと思い出したように話し出した。
「そういや……ちょっと前、北の方の町で“あの香り”に似た匂いを感じたことがある」
「どの香り?」
「これだよ。“月の雫”の香り。
旅籠の台所近くでな。一瞬だったけど、甘くて、ほんの少しだけ冷たい匂いがして……なんでか、心に残ったんだ」
周囲の旅人たちは耳を傾ける。
ロルフは黙って、その声だけを聞いていた。
「で、厨房から出てきたのが……一人の女だった。
歳は……40前後くらいかな。旅人の格好で、くすんだ青のローブを着てた。
顔はよく見えなかったけど、黒髪で、動きが妙に静かで……なんていうか、料理人っていうより薬師に近い雰囲気だった」
「へぇ。話しかけたの?」
「いや、それができなかった。目が合ったんだけどさ、どこか遠くを見てる感じで……。
そのまま立ち去ってっちまって。あ、でも――なんか呟いてたな」
「なんて?」
「“もし伝えられるなら、また――”って。そこまでしか聞き取れなかったけど」
ロルフは、静かにグラスを磨いていた。
酒の瓶が、淡い光を反射してきらめく。
けれどその手は、一瞬だけ――ほんの一瞬、止まりかけた。
ミアはそれを見逃さなかった。
商隊は夜の終わりまで飲み、笑い、そして明るく帰っていった。
「いやー、うまかった!また来るぜ、“月夜の杯”!」
「今度は3日泊まるぞ!」
「予約してないけどな!」
扉が閉まり、静かになった店内。
「ロルフさん。……さっきの話、聞いてました?」
「ああ。……ああいう話、たまにある」
「……」
ミアはそれ以上聞かなかった。
けれど、ロルフがそのままグラスを一つだけ残し、もう一杯の“月の雫”を注いでいたことには、気づいていた。
その酒は誰にも出されることなく、カウンターの隅にそっと置かれたままだった。
今夜も、味は整っている。
だが、“思い”が溶け込んだ酒は、少しだけ――冷たくて、やさしかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──
そんな物語を目指して、のんびり綴っています。
この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。
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また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!




