届かなかった手紙と、冷えた酒
〈月夜の杯〉は、夜の始まりとともに淡く灯りをともした。
今日は珍しく、開店直後に常連がやってきた。
やせ型で背は高く、旅人のくたびれたコートを羽織った中年の男。
銀髪にうっすら白が混じり、杖をつきながら入ってくるその姿に、ミアは軽く会釈を返した。
「よお、ロルフ。開いててよかった」
「開けてなきゃ、誰が飲むんだって話だな」
「ハハ、そりゃそうだ」
男はカウンターに腰を下ろすと、ゆっくりと深いため息をついた。
「ミア、棚の上の“白の熟成酒”を頼む」
「了解です!」
ミアが奥からボトルを取り出す間に、ロルフが無言でグラスを拭く。
男の表情には、ほんの少しの陰りがあった。
「……誰か、死んだ顔してるな」
「……図星だ。まあ、そんなとこだ」
ロルフは黙ってグラスに酒を注ぐ。
熟成された白の酒が、淡い金色の光を放つ。
「これ、あいつの好物だったんだ」
「……あいつ?」
「ああ。シェルってやつでな。十年前、一緒に傭兵やってた仲間だ。
気が短くて、騒がしくて、酒癖が悪くて……でも、死にそうなときは真っ先に飛び出してくるような、バカ野郎だった」
男は静かに酒を口に含み、しばらくの間黙っていた。
そして、ポケットから小さな封筒を取り出した。
それは、少しだけ黄ばんだ紙。
折り癖がつき、封は未開封のまま。
「手紙、出しそびれたんだよ」
「……?」
「昔、あいつと大喧嘩してな。互いに言い過ぎたまま別れて、数年は連絡もしなかった。
でも……あるとき、偶然“あいつがこの町に来てる”って聞いてさ。
この手紙、書いて渡そうと思ってた。……なのに、届く前に、死んだって知らせが来た」
ミアは思わず息を呑む。
男は、未投函の手紙をじっと見つめながら言った。
「謝りたかった。馬鹿だったって言いたかった。
“また一緒に飲もう”って、一言書いてただけなんだが……結局、渡せなかった」
グラスの中の酒が、静かに揺れる。
「ロルフ。……この店、ずっとあったのか?」
「ここに店を出したのは、そいつが死んだ年の冬だ」
「……じゃあ、飲ませたかったな。あいつに、ここの酒」
しばらく沈黙が流れたあと、ロルフがぽつりと口を開いた。
「だったら――あいつの分も、飲んでいけ」
男は顔を上げた。
ロルフは、新しいグラスをもうひとつ出し、
そっと同じ酒を注いだ。
「“お前ともう一杯、飲みたかった”。
そう思ってるなら、それだけは実現してやれ」
「……ロルフ。そういうこと言うようになったんだな」
「“味を整える”ってのは、言葉も同じだ」
男は、手紙をそっとカウンターに置き、両手でグラスを持ち上げた。
そして、隣に置かれた“空のグラス”に向かって、ほんのわずかに傾ける。
――カチン、と、音がした。
乾杯の真似事。でも、それで十分だった。
「……また飲もうな。次は、俺が先に来て待ってるからよ」
そうつぶやいて、男は酒を飲み干した。
夜が更け、男はふらりと立ち上がった。
「ミアちゃん、うまい酒だった。ありがとうな」
「こちらこそ……また来てくださいね」
「……ああ。今度は、手紙じゃなくて口で言うさ」
扉が閉まり、静けさが戻る。
ロルフが、カウンターの手紙をそっと取り上げ、
そのまま、薪ストーブの炎の中へ入れた。
「味ってのは、飲んだ後に残るもんだ。……言葉もな」
手紙が静かに燃えていく。
小さく、白い灰になったそれが、ふわりと煙とともに舞い上がった。
ミアは黙って、空のグラスを一つ、丁寧に拭いた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──
そんな物語を目指して、のんびり綴っています。
この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。
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また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!




