霧の夜、届かぬ手紙
雨がしとしとと降り続いていた。霧混じりの細い雨脚が、町の石畳をぬらし、軒先の植木の葉に小さな雫を垂らしていた。夕暮れを過ぎても空は明るくならず、世界全体が薄墨で塗られたような夜だった。
〈月夜の杯〉の中では、いつも通りミアが開店準備をしていた。ロルフは奥の棚で酒瓶の確認をしている。けれど、ミアは彼の様子がどこかいつもと違うことに気づいていた。無口なのはいつものこと。でも、今日は違った。酒瓶に触れる手が、ほんのわずかに慎重すぎる。まるで、心のどこかに引っかかりを抱えたまま、仕事に集中しているようだった。
それは、昨晩のせいだ。あの旅人が来て、「フローラ」という名を口にしたこと。彼の中で凍っていた何かが、少しだけ動いたのだろう。
店が静かに開き、ぽつりぽつりと客が訪れ始めた。小雨の夜にもかかわらず、常連たちはいつも通りやってくる。温かいスープと軽い酒で身体を温め、数杯の“月の雫”で心を整えて帰っていく。そういう夜だった。
そして、閉店間際。
あの旅人が、再び現れた。
霧雨に濡れたマントを脱ぎ、ゆっくりとカウンターの隅に腰を下ろす。ミアは一瞬驚いたが、顔には出さず、柔らかい笑顔で声をかけた。
「ようこそ。また、いらしたんですね」
「もう少しだけ、伝えたいことがあってな」
男はローブの中から、丁寧に折られた封筒を取り出す。それは手紙だった。
「ロルフに渡してほしい。本人に直接話せないなら、せめて……言葉だけでも残しておきたくてな」
ミアは手紙を受け取りかけて、ふと手を止めた。
それは、彼女にとって大きな選択だった。
ロルフがこの店で、何を抱えて生きているか。彼の“過去”がどれほど重く、そして繊細なものか。今この場所が“静かに息をつける場所”として保たれているのは、その過去をそっと棚の奥に仕舞ってあるからだ。
「……すみません。受け取れません」
旅人の目が細くなる。怒ったわけではない。ただ、静かにミアを見つめていた。
「君は、優しいんだな」
「私は、ロルフさんの弟子で、ここで生きている人間です。だから……彼が“今”を守ろうとしているなら、それを邪魔したくないんです」
旅人は、ふっと笑った。
「立派だよ。……あの人が店を持ったと聞いたとき、想像できなかった。けれど、今ならわかる気がする。彼は誰よりも、日常を守ろうとする人間だったんだな」
「……でも、気持ちは嬉しいです。ほんとに」
男はゆっくりと手紙を懐に戻した。そして、立ち上がる。
「また、来るよ。今度は……あいつの目を見て話せるようになったら、な」
店を出る男の背に、ミアは深く頭を下げた。
その直後、背後から声がした。
「受け取らなかったか」
ロルフだった。いつの間にか奥から出てきていた。ミアは驚き、そして何も言えなかった。
「……手紙くらい、受け取ってもよかったんだぞ」
「……でも、ロルフさん、きっと……そういうの、好きじゃないって思って」
ロルフはカウンターの端に座り、グラスを取り出して、月の雫を注いだ。
「好きじゃねぇな。でも……それでいいとも思う」
「……?」
「過去ってのはな、受け取らなくても、いつか勝手に届く。問題は、そのときに、ちゃんと受け止められるかどうかだ」
ロルフは酒を一口飲んだ。そして、ミアに視線を向けた。
「お前がそれを“今じゃない”と判断したなら、それでいい」
ミアは、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
静かな夜だった。
けれど、少しだけ、風向きが変わったような気がした。
月の雫が、グラスの中できらりと光を揺らしていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──
そんな物語を目指して、のんびり綴っています。
この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。
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また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!




