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第八話「武甲山・晴天その4」

 四十八丁目。もう山頂はすぐそこだ。ここまで長かった。……そういえば山登る前にも言ったような気がするが。一気に開けた視界に俺の胸が躍る。

 半ば駆け足で上がった山の頂上。俺を待っていたのは比較的緑の少ない光景だった。

 木製のベンチと……あれはトイレか。頂上にはいつ登ってきたのか、前にはいなかった登山者がベンチや草っ原に敷いたシートの上でやや遅いお昼ご飯を食べている。

 ……あれれぇ。展望はいずこ?ここが頂上で間違いはないのだろうがそれにしちゃ何も見えない。こんもりと盛り上がった丘が視界を埋めているだけだ。

 勢いで下ろしたペットボトルを再び持ち上げて、気づかぬうちに追い越した二人を見やった。


「あぁ、山頂標?もうちょい先のとこだよ」


 なんと。まだ登るのか。

 ただ既に登山道らしきものはない。広場の上には少し古ぼけた神社があって階段を登り三人並んで手を合わせた。


「今登ってきたのがこの御嶽神社の表参道なんだよ。帰りは別ルートで降りようか。とりあえず神社の裏に水を流すとこあるからそれから真の山頂だね」


 いったいどこにこの水を置けばいいのかという疑問がようやく解消され、会長の言う通りに神社の裏にあったマンホールに水を流し入れる。これと望みの少ない雨水がこの山頂のトイレの補給になるそうだ。通常の三倍の水を流し込むと、なんとなくしてやったり感が募る。


 認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを。見栄っ張りで負荷を掛け続けた手がいい加減痛い。


 そこから少し歩き、人二人通れるかどうかという狭い道を行くと、岩陰から待ちに待った展望が現れた。

 ここまで展望らしき展望がなかったからか、意図せずして笑みがこぼれた。


 秩父市街を望む展望。山頂は狭く、百八十度の展望は望めないがこの開放感は凄まじいものだ。標高は千三百四メートル。そこまでは高くない。それなのに雲は自分より下で漂っている。真下には採掘場の重機が置いてあり、更に下には先ほど見上げていた石灰工場が広がる。全てがミニチュアの世界。


 吹き付ける風も心地よく、頰や髪を撫でていく。感慨、というものだろうか。何を思うでもない。けどこの景色に何かを感じている。思うことと感じることの違いをなんとなく分かったような気になる。


「登頂おめでとう高山」


 会長が肩を叩く。


「二人もおめでとう」


 あくまで景色を見ながら返す。


「そう言われるほど疲れてもねぇよ」


「冷たいなお前」


「まぁ正直私もそこまで疲れてない」


 さいですか。俺はもうガタガタだ。降りられるかどうかもわからん。


「次は……丹沢だな。少し高山を鍛えるぞ」


「あぁーバカ尾根っすか。体力づくりにはちょうどいいかもね」


 俺の隣で交わされる不穏な会話。丹沢?バカ尾根?嫌な予感しかないんですけど。


 若干の不安と名残惜しさをひしひしと感じながら再び広場まで戻り昼食を摂る。全員で決めたわけではないが見事にカップラーメンで被った。


「たまには山ご飯ちゃんとしたの食べたいけどねぇ」湯が沸き上がるのを待ちながら会長がぼやく。


「そうなると山ご飯メインの装備になるからな。ザックの空きを作るとこからして面倒くせぇ」


「いつかやりゃいいじゃん。女の子の手料理は男として食べてみたい」


「てめぇがやんだよボケ」


「桐生は料理苦手だもんねぇ」


「うっせ。食えりゃなんでもいいんだ食えりゃ」


 ここは桐生らしい。正直これで料理もできるとかだったら頭が上がらなかった。いや、今も上がらないんだけど。

 山で食べるカップラーメンはなんとなく美味しい気がする。いつもと違う味とまでは言わないが特別であることに変わりはない。多分汗をかいた体が塩分を求めているのだろう。



 四十分ほどの停滞の後、下山を開始する。登ってきた表参道の右側から降りるようでダイナマイト使用の警告を促す、それこそ過去の遺物のような看板を目にする。おそらくはこの採掘場の最盛期に建てられたものだろう。

 シラジクボ・持山寺跡と書かれた道標の先は展望の変わらなかった表参道とは違い目の前は拓けている。登山道も九十九折ではなく急登?というのかこれ。とにかくこの山頂に向かって一直線に道が伸びている。


「足元気をつけろよ。落ちるから」


 滑落という意味ではなく、深い段差のことを指しているようだ。確かに一筋縄では下れない。数分下って山頂を見上げるといつのまにかかなり下がっていることに気づいた。体力的にはこちらの方が辛かったのだろうか。どちらも一長一短であるが。


「下山時は一番怪我しやすいからね。統計で言えばあと少しで登山口ってとこで一番怪我しやすいらしいよ」


「なんでまた」


「集中力が切れてんだよ。高山、気をつけろよ」


 まるで人が注意力散漫みた……


「でぇっ」


 足場を踏み外して見事にこける。呆然と崩れ落ちる俺をみて会長が腹を抱えて笑っていた。


「狙ってやったんか?」


「んなわけないだろ!ってぇ!」


「まぁそういうことだ。気張りなよ高山」


 表参道とは違いこのルートはバリエーションに富んでいる。と言っても歩くだけなのだが。急登があったかと思えば九十九折の道があり、再び急登。この急登を下るというのが怖い。疲れからか膝はガタガタになり、足場を確保するため数秒立ち止まっては降りていく。展望の良かった尾根道も気づけば針葉樹の中。木漏れ日だけが地面に届く。

 だいぶ下って来たところで道標で立ち止まった会長が「寄り道しよっか」と提案する。

 道標の先には「持山寺跡」とあった。


 道標から歩いて数分。針葉樹の落ち葉が地面を埋め尽くす場所にそれはあった。

 何の変哲も無い石造りの置物。寺があったことさえ看板がなければわからない。


 ただでさえ時間が少し遅く、下山ルート中でもないこの道に立ち寄る人の影もない。鬱蒼とした木々から漏れた日の光が場を満たす。


「なんもないな」


 桐生が呟く通り本当に何もない。石造りの置物も古びている以外感想を述べろと言われても無理がある。


「でもここ好きだなぁ」


 会長が木立の向こうの空を見上げながら言った。


「分かる気がする」


 確かに人の通らない寂しい場所だ。目につくものも全くない。山の緑と落ち葉の深い茶色のみ。けれどそれが心地よい。

 まるでこの場所だけ時が止まったように静かだ。忘れ去られたかつての遺物。俺たちは時折そんな場所に興味を惹かれることがある。

 草陰に隠れた文字の読めない石碑、林の中の誰もいないトタン屋根の廃墟。それらがなんとなく目に入ってぼんやりとその場所を見つめてしまうような感覚。

 ふかふかした落ち葉の上で三人は何を語ることもなく何もない中で何かを感じていた。不思議な時間だった。


 沢の音が聞こえ始めるとようやく降りて来たと胸を下ろしかける。いや、待て。それこそが油断だ。最後まで気を引き締めていこう。泥に汚れたズボンを睨みつけた。


 沢を渡す橋を越えると行きの地獄の中で見た分岐点に辿り着く。件の舗装された道路を見下ろすと余計にその勾配が際立った。


「さ、ラストスパートだぞ」


 覚悟を決めて足を進める。下手に歩き出すと勾配に足が持っていかれるのだ。それこそしばらく止まれないくらいに足が進みまくる。一歩一歩ブレーキをかけながら歩くことを強要される。


「下りもキツイなこれ。待って、後ろ向きで歩けば……」


 歩きやすい……歩きやすいぞ!!アキレス腱でブレーキがかけやすい!!


「馬鹿みたいだからやめろ」


 桐生のあまりに冷たい言葉にすぐさま元の歩き方に戻す。


「いやでもすごい歩きやすかったんだって!!これやってみてよ!!」


「馬鹿じゃねぇの」


「……あっ待って、歩きやすい」


 呆れる桐生の横で会長が後ろ向きに歩き始めた。ポニーテールがぐらぐらと揺れる。


「でしょ!?歩きやすいでしょ!」


「ねぇ桐生見てこれ。マイケルジャクッソォォォンっと!!」


 舗装された道にあるわずかな隙間に会長のかかとが挟まったようだ。背中から行きそうだった会長は自力で持ち直した。


「ダメだこれやっぱ前向いて歩かなきゃ」



 一の鳥居登山口。振り返る武甲山。下山時刻は四時近くなったが日はまだ高く煌々と俺たちを照らす。


「いやぁー……色々あったけど楽しかったねぇ」


「色々無きゃもっと楽しかったんじゃねぇか」


「もう言わないでくれ。これからはしっかりするから」


「さて、と」会長が入り口で振り返り深々と頭を下げる「ありがとうございましたっ」


 横目でそれを見て俺も頭を下げた。


「お前いっつもそれやってんな」


「当然だよ!お邪魔したんだからちゃんとお礼言わなきゃ」


「やってるやつなかなか見ねぇけど」


「いいの!これでこれからの登山も無事安全にできる気がするんだから!」


 なるほどなぁ。会長らしい気がする。

 きっと昔の人は今の会長みたいに自然に敬意を払っていたのだろう。誰に言われるでもなく、大自然の中に何かを感じて常に感謝の気持ちを捧げて来た。

 俺たち現代人は人間の作り上げた世界に染まりすぎたのかもしれない。いつからか人の思い通りに森羅万象全てが動くと誤解してきてしまったのだ。


 今日、山に登ってみると立場がまるで逆ということに気づいた。人間の中で自然が生きているのではなく、自然の中で人間が生きているのだと。当たり前のことだけれど多くの人はそれを表面上でしか理解していないのかもしれない。触れて初めて理解できるもの。それこそが自然なのだ。

 ありがとうございました。もう一度心の中で感謝を告げる。またいつかきっとここに来ると思います。その時はまたよろしくお願いします。


 荘厳な緑を背に、俺たちは再び人間の世界へと還っていく。

山行録なんてこんなもんだよね。無理やりドラマ要素を詰め込んでいくスタイル。

今日は棒ノ嶺って山に行ってきました。写真もパシャパシャやってきた。

早く書かないと丹沢の記憶が上書きされていくのでさっさと丹沢書きます。


今回使用した登山コース

生川一の鳥居駐車場~表参道~御嶽神社~シラジクボ~持山寺跡~生川一の鳥居

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