第七話「武甲山・晴天その3」
登山開始である。ここまで長かった。
快晴だが五月の初旬。正午とはいえ気温も高くはない。駐車場から少し進み、一の鳥居で聞いた滝の音がするかと思えば登山道に向かう小さな橋に人口の滝が流れていた。しばらくはこの沢沿いを歩くことになりそうだ。
こんな場所にも民家がある。おそらくはこの辺りの管理者か。好きだから山に来ているのだが住みたくはないなとも思う。不便な上、夏は虫が半端じゃ無いだろう。そんな民家の向かい、左手に見えた囲いの中の池を覗く。てっきり鯉でも飼ってるのかと思ったが「ぐえ」苦手な人が見たら絶叫するであろうその光景に足が止まる。
池の中を満たすレベルのカエルの卵。何匹か動くこともなくトノサマガエルが堂々とし佇まいで水中に鎮座する。仰向けになって人間のように寝ているのもいるがあれは死んでるわけじゃないよな。
「高山はカエル苦手?」
「アマガエルぐらいなら構わんけど、こいつはちょっと……」
何かの間違いで池から出ていたなら猛ダッシュしていただろう。夜半にはカエルの鳴き声がひっきりなしの田舎に住んでいるとはいえ容認できるのは小さなカエルだけだ。
その先にあった林道の行き止まりを超えるとようやく登山道かと思いきや、舗装された道路が一直線に伸びていた。しかし車が入れない幅を見るにこれでも登山道らしい。これより登山道と看板が告げるのだから間違いない。
だが所詮舗装された道だ。なんのことはない。そう思っていた。
「はぁっ、はぁっ、ぐっ、……はぁっ」
数分経ってやたらデカい喘ぎ声をあげる俺。その声はまるで先のカエルのようだ。
「なにこれっ……まだ続くの……?ってか辛っ……」
「お前情けねぇな。序盤も序盤だぞ」
そうは言っても。
舗装された道路は一直線に伸びる。しかしそこは山登り。当たり前だが平坦ではない。分かっちゃいるがこの斜度はなんだ。視界の半分を埋める道路。立ち止まることすら難しいくらいだ。
「始めに言っとくけど、多分ここが一番キツい勾配だね。人によっちゃここでだいぶ体力持ってかれるよ。アスファルトだから登山靴だと逆に疲れやすいし。ゆっくり行こうぜ高山」
「あんま遅いと置いてくけどな」
会長と桐生のアメとムチ。そんな会話も相まって「なんだこれ修練?」そう思わずにはいられないほどの勾配だ。
一直線に伸びた道にも分岐路があったが二人が構わず進むので俺も後に続く。流石に二人の息も切れていた。
十一丁目と書かれた石の道標から先が本格的な登山道になる。斜度は緩やかになり、喘ぎ声はただの息切れへと変わる。
「ちなみにこの何丁目ってのいくつまであるか知りたい?」
「うーん……どうかな」
登るたびに数字が上がっていくということはこれがどこまで来たのかを知ることができる道標だというのは分かる。だが、その最大数を知ってしまえばこの後で「まだこのくらいしか進めてないのか」と苦しい思いをすることになる。特に中盤はそうだろう。
「五十丁目まであるぞ」
「言うなよ!まだどうしようか決めてないのに!」
「うるせぇ。親切にしてやったんだから文句言うな」
その親切が裏目に出ないことを祈りたいよ。でもこの舗装された道だけで五分の一が終わったということでもある。等間隔にこの石が並べられていればの話だが。
「こっから先は難所も急登もないし、ただただ九十九折に登ってくだけだからねぇ。体力よりも気力が大事だよ」
「九十九折ってなんだ?」
「こういった山で最短距離の登山道を作ろうと思ったらどうしても道が急勾配になりがちだろう?そうならないようにジグ、ザグ、ジグ、ザグってなってる道のことを言うんだ。歩行距離は伸びても体力はさほど削られなくなる。さっきの舗装された道よりいくらか楽になったでしょ?」
指を宙で右左に動かしながら会長が答えた。さすが解説役。サマになっている。伊達にメガネをかけてない。
立てかけられた簡易的な橋を渡ると目の前に滝が見えた。滝からは細いパイプが伸びてそこにコップがかかっている。飲めるのなら頂こう。
冷たい水が乾きかけた口の中を潤す。自然水は細菌が気になりがちだが、俺は割と構わず飲んでしまう方だ。だって美味しいし上流も上流の水じゃない。
「さてと」
桐生と会長が滝の脇にあった水で満たされた日本酒のペットボトルをザックに入れている。
「なにそれ」
「ボランティアだよ」
ボランティア……だと……?お前が……?桐生は本当にどうしちまったんだ。
「頂上に山小屋とかトイレとかがある場合って水が不足しがちなんだよ。だからこうやって登山者が水を上まで持っていく山があるんだよね。任意だけど、感謝の気持ちを表すなら持ってくのがベストだよね」
女の子二人が担いで行くのに俺が担がないわけにはいかない。素晴らしき同調圧力国家日本。ザックに一つペットボトルを入れる。
「あれ?一つしか持ってかないの?」
「いやだって、これ一つでも結構な重さが……」
事実、手がすでに重さに震えている。
「えぇー……幻滅だわぁ……男の子なら女の子の前で『俺は二本持っていく!』とか言ってみせなきゃ」
「ザックに一本入れて、あと両手に持てるんじゃね」
「えっ、三本いけるの!?すごいじゃん高山!見直したよ!」
待て待て待て。俺は何も言ってない。
「三本持ったらもうモテモテだよ。すぐに女の子寄ってくるよ!」
「暑苦しいからあたしは寄らない」
「じゃあ私は寄ってあげよっと」
組まれる腕と腕。急激に近くなる会長との距離。あれかこれが魔性の女お得意のボディッタッチとかいう必殺技か。
だがそんなもの俺には効かん。そんなものに引っかかる奴は大抵軽い男なのだ。女子に囲まれたぐらいで浮き足立っているチャラチャラした男か、女性経験のない男にしか効き目がない。風に吹かれりゃ飛んでくくだらない男にしか効かないことを流石の会長でも理解しちゃいないか。フッ……まったく。
俺のように地に足をついた中身がしっかり詰まった男ならその程度で動くわけがない。休日に都会でたむろするわけでも、女を探してカラオケや飲み会などを催さずに、わざわざ山に出向かうようなワイルドなナイスガイ高山昇太は動じないのだ。
九十九折の登山道はまだまだ続く。橋を越えると短調な道ばかりだ。振り返るその景色も高木に遮られて展望も良くはない。たしかにここは気力勝負だ。
三十丁目。半分以上は来た。しかしここからが長い。少し広くなった道で行動食と水分を二人が摂ったので自分もそれに続く。ようやく両手のペットボトルを下ろせる時が来たのだ。勾配の少ない登山道とはいえ両手が塞がっていて困り果てていたのだ。あれ、なんでペットボトル持ってんだ。
ここまで下山してくる人はいれど、登り途中の人には出会っていない。やはり朝に登るのがセオリーなのだろう。ところどころ木のウロにお地蔵や観音様が置いてある。歴史ある山岳信仰には思えないがこれはこれで良い。山岳会の方達の暖かみを感じるというものだ。
再び進み始め、しばらく歩き頂上の方へ頭をあげる。すると頂上付近が白く輝いているのに気づいた。まさか雪?いや、流石に五月の初旬とはいえ、ここは東北やアルプスではなく埼玉県のそれほど高くない山だぞ。
視線に気づいた会長が言う。「あれ、石灰石だよ。日光に照らされて光り輝いてるねぇ。私も最初見た時雪かと思った」
ともかくあれが見えたら頂上は近いだろう。ここから先はハイペースで行きたいが、その気力がない。せめてゼリー飲料でカロリーを補給する。
見上げようが見下ろそうが同じ景色が続く。晴れの山行なので木漏れ日が気持ちいいがそれだけだ。男一人、女二人の山行がただただ続く。
なんで山なんか登ってんだ。
ふと、そんなことを思い浮かべる。いや、だって俺たちたぶん一番色々行動できる時期で、いろんな楽しみがある年齢でもある。お酒も飲める。車だって運転できる。いろんな選択ができる。
これが海だったのなら、きっと二人の眩しい水着姿に歓喜の心を抑えつつ海を楽しんだのだろう。若く体格のいいヤンチャな男どもの羨望の眼差しを浴びながら冷たいラムネでも飲んだのだろう。
現実はこれだ。露出度もクソもない。通り過ぎる人はだいたいおっさんかおじいさんで「若くていいなぁ」くらいの感想しか持ち合わせないだろう。女の子二人と歩く事実に満足できる余力もない。今は歩くだけで精いっぱい。
でもどこか満足している気持ちもある。そんな邪な感情で歩ける道ではないから。あくまでも山を踏みしめている。
たぶん、たぶんだけど自分のはっきりしないところでこの道に満足しているのだ。表面的には苦しい気持ちしかないけど、来るんじゃなかったとは思えない。この先に頂があるのなら、そこまで登る以外に道はない。仲間はいても心は孤独だ。今は道を踏みしめるのみ。
幾重にも重なった九十九折の道が明るくなる。もうすぐ頂に違いない。
今の自分は登るペースを遅めたり早めたりすることもできない。足が動く通りにしか動けない。
これを登り切れば武甲山の山頂。
そう思っていた時期が、僕にもありました。
休日に登山ばっかしてるとなんか無性に東京に行きたくなる。いや、奥多摩の方じゃなくて。
人混みが苦手なもので都会って好きではないんですが自然に還ると人間社会に戻りたくなる。ただ都会に行ってる暇があったら山登りたいのでライブとかで予定が埋まってない限りは山に還るのでしょう。
武甲山の最初の舗装された道路への恨みつらみは何度でも書きたくなる。
どのルートで行こうが一の鳥居に戻るのなら下山も使わなくてはならない。舗装された道路で下るとき、後ろ向きで歩いたほうが楽ってそれあります?岩降りてんじゃないんだぞう?
たぶん次で降りてきて、その次は丹沢は塔ノ岳~鍋割山に登ります。ガスってたので六月前半でリベンジ予定。晴れてくれよ~。頼むよ~。




