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第六話「武甲山・晴天その2」

 これは夢だ。たぶん俺はまだ布団の中でいずれくる朝を待っているに違いない。


 ただ、あまりにも生々しく頬に冷たい風が吹き付ける。頭上に広がる青に他の色などはなく、鳥の声ははっきりと耳に届く。

 認めなければならない現実。それが山間の道路でパンクしてしまったということだ。


「スペアタイヤあんの?」


 会長がしゃがみこんで俺と同じ方向を見る。女の子のいい香りだ。このまま隣でしゃがんでいたままで何もしたくない。


「いちどもこういうことになってないしたぶんあるよ」


 喉から出てきた焦りも何も存在しない声。山にすら登っていないのに気力はゼロに近い。

 かといってここでこうしているわけにもいかず、重い腰を上げて、車からスペアタイヤと工具を取り出す。さて、ここからが問題だ。


「交換できんのか?」


 いいえ、できません。ここで「余裕余裕」と言ってみせたかった見栄っ張り。


「調べればなんでも出てくる世の中だよ」


 ゆえにスマホを取り出す。今の時代スマホ一つでなんのプロにだってなれる。教習所すらいらないよ。だって教習所が教えてくんなかったんだもん。仮にどっかで教わってても記憶に残っていない時点で教わらなかったのと同義だ。


 桐生はため息をついて、しゃがみこんだ。


「てめぇ、それでも男かよ」


 それはセクシャルの問題じゃない。そんなこと言ってたらすぐ時代に取り残されるぞと、本当は声に出して言いたい。現実は反論の余地もない。


「ジャッキ貸せ。車持ちあげるからタイヤぐらい外せ」


 桐生は雑多に散りばめたタイヤ交換用の工具から一つ一つ選び、テキパキと車体の下にジャッキを置いて回し始める。本当のところジャッキはどこに取り付ければいいのかも俺には分からなかった。


「桐生」


 会長がその雄々しく小さな背中に声をかけた。


「やっぱ私と結婚して」


「アホなこと言ってねぇで高山を手伝わせろ」




 それから約四十分。自分の非力さと不器用さを思い知りながらスペアタイヤが装着された。若干の不安はあるが脱輪の心配はなさそうだ。


「つーかタイヤ減りすぎだ。メンテくらいちゃんとやれよ」


「はい桐生先生。大変お世話になりました」


「次先生とか言ったら殴るぞ」


 おお、警告がちゃんとある。全盛期(?)の頃はあり得なかった話だ。本当は殴って欲しかった。いやマゾじゃないけど。女の子二人乗っけてこのザマの自分を罰して欲しかった。殴られないことが逆に痛い。


「しっかし他のタイヤもダメそうなんでしょ?」


「ああ。時間の問題だ」


「それであと数時間車動かすのもねぇ。こりゃタイヤ交換してから出発だね。時間は?」


「そろそろ六時半」


 自分の奥歯がぎぎぎと鳴る。タイヤを交換するにしても近くの(といいつつも山間なので直近の店舗は数キロ先)店の開店は十時すぎてからだ。一番に乗り込むとしても、三時間近く時間がある。このど田舎で一体何をしろと?考えるべきは俺なのだが。


「まぁいいや。とりあえずコンビニで腹ごしらえしてそっから先はあとで考えよっか」



 救いはパンク現場から近くにあり。結局立ち寄ったコンビニの駐車場には長居も出来ず、軽い朝食を取ってすぐに出発をした後で、どこかいい場所がないかと探していたところそれはすぐに見つかった。

 東秩父村の道の駅である。

 道の駅なら駐車料金も無料で、長い時間停めてあるからと文句も言われず、ある程度なら暇つぶしもできる。すべての農協に感謝をしながら、道の駅にあるちょっとした高台からこの山間部を三人で望む。


「本当ならもう登山してる時間だねぇ」


 広がる山に登山道を見ているのか、会長の目はどこか霞んでいた。


「言わないでくれ会長。もう反省しきってる」


「まぁ仕方ないさ」


「仕方なくねぇ。高山(こいつ)がメンテさえしてりゃこんなことになってねぇ。どうせオイル交換とかもしばらくやってねぇんだろ」


 そういやしばらく気にしてもいなかった。ぐうの音も出ないとはこのことか。


「桐生車持ってんの?」


 先ほどの手際の良さといい、そう思うのは必然に近い。


「持ってないけど免許持ってんなら知ってて当然だろ。アホか」


 そりゃ車持ってたら乗せろなんて言わずに自分で色んなところ向かうよなぁ。それにしてもこの心構え、思わず先生と呼びそうになるのをこらえながら高台の展望を満喫していた。



 それから開店時間に合わせてタイヤ屋へ行き、タイヤを交換してもらう。予想外の出費に財布が軽くなる。作業終了時にはすでに時刻は昼前になっていた。


「さて、どうしよっか」


 タイヤ屋の駐車場でエンジンを始動した時、全員の気持ちを代弁するように会長が尋ねた。


「登山するのには少しギリギリの時間だな」


「羊山公園はもう駐車場いっぱいだろうしねぇ」


 二人の意見が交錯して俺のもとに届く。

 正直、気力が削れた後だが揺るがぬ思いがあった。せっかく装備を揃えてきたのに山に登らず帰るなんて不本意そのものだ。招いたのは俺なのだが。

 申し訳無い気持ちを胸いっぱいに溜め込んで桐生へと向き直る。


「桐生先生……登山がしたいです」


 無言で俺の側頭部がはたかれた。



 秩父市街から横瀬町へと向かう途中からすでに芝桜を見にきた車の渋滞が始まっていた。車は完全に止まるわけではないがノロノロと動いている。大型連休の土日なのだ。仕方ないといえば仕方ない。


「ちなみに今日登る山がもう見えてるのは分かるかい?」


「そりゃこの渋滞がなけりゃすぐ着く距離だし見えててもおかしくないだろ」


「まぁ、そうなんだけどさ。ほらあれだよ」


 後部座席からにゅっと伸びた腕が前方の山を指した。


「ほれ、あれが武甲山」


「……なんつーかすっげぇ異質だな」


 綺麗に切り拓かられた山肌。台形の上に三角形を乗せたような歪な形のその山肌に緑はなく、砂利や岩やらで無機質な色に包まれている。それは遠くからでも足場の様子が分かりそうなほどに。


「あそこは石灰石が取れるから採掘場になってるんだ。でも登るのはあれの裏っかわだから緑がいっぱいだよ」


「へぇー……でもすごいな。あんなにでっかい山をあんな風に切り取っちゃえるんだなぁ人間って」


「まぁ人間の業を感じるよねぇ。そのおかげで豊かな暮らしができるんだろうけどさ」


「あれも一つの自然との共生って言えんじゃねぇの」


 久方ぶりに桐生が口を開いた。皮肉めいたその言葉はどこか達観したような物言いにさえ思える。


「本当に元ヤンかお前」


 肩に弱パンチが2HIT。皆殺しの桐生と呼ばれたかつての面影が徐々に姿を現し始めていた



 生川交差点を右折。ここから勾配がついた車道になる。いかにも山の中といった車道を進むと目を奪われる景色が飛び込んできた。


「えっ、本当にこの先入っていいの?この先駐車場なの?」


 思わず焦りとともに二人に尋ねる。


「まぁ初見じゃそういう反応だよねぇここは」


 目の前に広がったのは巨大な工場。それは車道を挟んで両脇に雄大に坐している。一般道かどうかさえ怪しい。ナビはこの先に駐車場を示してはいるが。


「採掘した石灰の工場だよ。この大自然と人工建造物のミスマッチ具合が良いよねぇ」


 頭上を通る鉄の巨大なパイプ。年季の入った見上げるほどの大きな建物はところどころに赤錆の化粧をしている。ある意味荘厳な景色だ。高揚する気分とともにアクセルもベタ踏み。おそらく見えているよりずっときつい坂なのだろう。車の速度が上がらない。


 工場を抜けて車一台の幅しかない小さな橋を抜けると、となりに沢の姿が見えて、人間社会から一歩はみ出たことを知る。相変わらずの狭い道の脇で多くの車が停まっていた。


「全部登山客?」


「たぶんな。駐車場狭いからすぐ埋まる」


「俺らもここに停めた方がいいかな」


「いや、もう駐車場に停めた人たちは全員下山してるだろう。この時間じゃかえってガラガラだ」


 桐生の言葉通り登山口である生川一の鳥居の駐車場はいくつか停めるスペースがあった。さっそく車を停めて砂利道の駐車場から緑の山々を見つめた。先ほどの光景とはうってかわってありのままの大自然が目に飛び込む。近くで叩きつけられる小さな滝の音が心地よいくらいだ。


「十二時過ぎかぁ……普通なら下山する時刻だけど日の入り遅いのが救いだねぇ」


 ザックからクマ避けの鈴の音を響かせて会長がストックを伸ばす。


「この辺にもクマいるの?」


「あぁ、立派にツキノワグマの生息地だよ。ここでもツキノワグマの姿が発見されてるからね」


 埼玉にもクマがいるのか。武甲山を出ればすぐに人の居住地なので実感がわかない。見れば登山口にクマ注意の看板が出ている。願わくは動物園以外ではその姿を見たく無いというものだ。


「じゃあちゃっちゃとあがっちゃおうか」


 その声で三人が登山道へと足を踏み入れる。車はそこそこ停まっていてもこれから登るという人の影はなく、やけに静かな空気を踏みつけられた砂利の音が叩いた。

えぇ!?まだ登らないんですか!?(驚愕)

話の都合上、その3から登山開始です。これで筆者が車パンクさせて登りたいのになかなか登れなかった気持ちわかってもらえるかな。

あれですね。投稿ペースより登山ペースの方が早いです。ネタは溜まっていきます。

正直自分の文章力では景色を伝えきれないので、筆者のツイッターにあげてる写真を見てください。武甲山もすでに投稿済みです。とはいいつつも登山中の写真ってなかなかとってないですね。どうでもいい尾根道とか撮ってる。要所要所の写真撮影を心がけながら邁進しようと思います。


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