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第五話「武甲山・晴天その1」

 午前四時五分。待ち合わせ場所のコンビニにつき、これから太陽が昇る東の空を見つめる。風は冷たく、タバコの煙が結構な速さで宙に消える。


 ソフトシェルの防風、防寒性は流石のものだ。10度ちょいの気温でも全く寒さを感じない。

 朝早くからのシフトが日常の俺にはこの時間に起きて家を出ることは容易く、桐生が先に来た時のことを考えると少し早い時間に到着する必要があった。こんな晴天の早朝から殴られたくはない。おかげでコンビニ前の灰皿付近には静かでゆったりとした時間が流れている。気持ちがいいものだ。

 思えばこんな時間を俺は睡眠で逃していたのか。早起きは三文の徳とはよく言ったものだ。この時間を享受できるだけでも得した気分になる。


 駐車場にはこれから出かける人や仕事に行く人の車がたびたび止まっては消えていく。ふと、歩道の方からこちらへ向かってくる影があったが、金髪で小柄の桐生でないことは一目瞭然で、俺は二本目のタバコに火をつけた。

 煙を吸って吐く。登山を始めたならいつかやめなければいけないのだろう。肺の汚染は体力に響く。でもあれか。山のきれいな空気を吸えばチャラになるか。医者が聞いたら呆れそうな言い訳だ。


 さて。

 人影が視界の隅から消えない。タバコを吸っているような気配もない。なんとなく気になってそちらへと振り向く。


 瞬時に合う目と目。


「あ、ほんとだ高山だ」

 

 呼ばれる俺の名前。


 ポニーテールの背の高いその女性は「ご無沙汰ー」と手を振りながら気の抜けた挨拶をする。眉間にしわを寄せたまま、心当たりを記憶の中に探る。そして見つけ出すあの頃の面影。


「……会長?」


「えっ、何今の間。もしかして忘れてた?」


「いや、まぁ、忘れてたっていうか」


 なんで会長がここにいるの?そんな疑問を浮かべていると彼女は首を傾げて口を開いた。


「桐生から聞いてないの?」


「いや、何も……っていうかそのカッコ、会長も一緒に来るの?」


 赤いザックから恐らくはペットボトルに入った水の音がして会長が腰を曲げた。


「はぁぁぁ……まったくあいつはしょうがない子だねぇ」


 ああ、そっか。そうなんだ。会長も一緒なんだ。聞いてなかったけど、まぁ納得。

 するわけないんだよなぁ。


 


 向井楓。言わずもがな高校時代の同級生で生徒会長を務めていた。成績優秀。運動もそこそこできて、人望も厚く、男女を問わず人気のあった、どこにでもいるふつうの生徒会長だ。誰とでも仲良くし、時には男子の集団に混じって会話をしていた事から、俺も気兼ねなく彼女としょうもない話をしていた。

 故に桐生と仲がいいわけもない。というか、彼女が生徒会長の時には桐生は退学して行方知らずだ。退学するまでのほんの僅かな間だけでも会長が彼女のことを気にしていたことは知っているが。

 はっきり言って真逆の存在だ。混じり合うことなど永遠に無いであろう白と黒だ。


「会長って桐生と仲良かったっけ?」


 必然、そんな質問がこぼれる。


 「んぁー……まぁここだけの話かれこれ十年近い付き合いだね」


 遡れば大体高校入学の頃だ。つまり会長は桐生が退学してもなお、桐生と付き合いがあったということになる。


「そりゃあ驚いた」


「声色が驚いてないぞ高山」


「早朝からそんなリアクションとれねぇよ」


 そんなこともあるもんだなぁと物思いに耽る横で会長がタバコを吸い始める。あの会長が吸っているのは意外だが何をいうこともあるまい。俺らはもう大人になったのだ。

 灰皿に吸い殻を捨てた時、桐生がとぼとぼと歩いてきた。朝焼けに照らされた金髪がやけに神々しい。


「うっす桐生。高山になんも教えてなかったの?」


 灰を落として会長が尋ねた。


「……言う必要なくね?」


 いや、まぁそうかもしれないが。結果的に変なサプライズにはなった。眠いのか平常通りなのか、桐生は眠たげな声でタバコを取り出す。それから特に何かを話すでもなく、三人で煙を燻らせた後、車を秩父に向けて走らせた。




「しかし良く晴れたねぇ」


 早朝の大きな国道を走る。渋滞するわけもなく、車は一定の速度で走り続ける。バックミラーに映った会長は黒縁メガネの奥にある瞳を見張らせながらフロントガラスの向こうに広がる空を見ながら言った。


 確かに今日はよく晴れている。この前の高尾山が嘘のようだ。昨日の夜、今日の朝と登山者向けの天気予報サイトを確認したが実に恵まれた天気になった。今回の山行はいい思い出になりそうだ。山頂からの展望も期待できる。


「つか、なんで桐生と会長なんだ?たぶんあの頃の誰が聞いてもびっくりすると思うけど」


「だろうねぇ」


 その顔を見ずとも会長がにやけているのは分かる。だがそこから先は何も言わない。


「いや、だから、何で?」


「ご想像にお任せするよ。な、桐生?」


 桐生は会長の言葉に頷くわけでも無く窓から流れる景色を見ていた。機嫌が悪いわけではなさそうだが。

 時刻は未だ五時過ぎ。このまま道を迷わなければ六時半ごろには登山を開始できるであろう。滑り出しは順調だ。


 関越道東松山ICを有するこの国道254号線は観光目的で秩父に向かう多くの人が使用する道路だ。県民なら一度は使ったことがあるだろう。県民からは「ニコヨン」の愛称で呼ばれている。by俺調べ。いずれも確証はない。

 秩父市街に向かうルートとして大きく二つのルートにこの国道は別れる。一つはこのまま大きな道路を走り続け、ライン下りで有名な長瀞を通過するメインルート。もうひとつは埼玉県唯一の村、東秩父村を経て秩父に向かうルート。距離的に言えばこちらの方が近いが最短で向かうとなると道の狭い定峰峠という峠を越えなくてはならない。場所によりけりだが、対向車が来ると自然と肩が強張るような峠だ。


「どっちで行く?」


 分岐近くで二人に尋ねると会長が「峠越えた方が近いし面白い」と言った。まぁ長瀞方面は大きく迂回するような道なので俺はウインカーを出して左車線に寄せる。すでに車からの景色は標高の低い山が多く、秩父はまだ先なのだが山の方へやって来たなと心が躍る。


「そういえばこっからコンビニ少なかった気がするけど二人は行動食持ってんの?私途中で買う気だったんだけど」


「用意してある」


「高山は?」

 

「あーと、あれ、おにぎりみたいなやつ?」


 横で桐生のため息が聞こえた。あとは会長に任せるつもりなのか、窓を開けて煙草を吸いだした。


「まぁ、一応おにぎりも行動食に入るっちゃ入るけどさ。その様子だと昼飯しか持ってきてないね」


「一応水分は多めに持ってきてるが」


「そりゃまぁ水分も大事だけどさぁ……いいかい?基本的に山登りってのは体力勝負だ。当然平地を歩くより多くのカロリーを消費する。だからその分バテやすくなりがちだ。コンビニもなんもない山ん中でふらふらになったらそのあと何が起こるか分かるかい?」


「そりゃ、まぁ、最悪死ぬな」


「……まぁいっか。その心構えは大事だ。確かに最悪死につながる。もっと身近なとこで言えば、疲れて動けなくってコースタイムに遅れが出たり、怪我につながってくる。だから山に登る際は行動食って簡単に取り出せてなおかつ消化吸収しやすいエネルギー源が必要なんだ」


「十秒チャージのやつか」


「そそ。ああいうゼリー飲料でもいいし、なんならチョコやビスケットなんかのお菓子なんかでもいい。とにかくエネルギー源として一番効率のいいブドウ糖を取りながら山歩きするのは鉄則だね。極端な話、過去の遭難事例でも行動食でエネルギーが取れてたら低体温症にはならなかったかもしれないってのはあったらしいよ」


「じゃあとりあえず峠入る前にコンビニに寄るか」


 東秩父村から峠を越えるまでにコンビニを探すことは難しく、小川町で早めのコンビニ休憩を取る。昇りだした日はまだ低く、心地よいくらいの涼しい風が吹いていた。運転席から降りて伸ばした体が一気に覚めた感じだ。


「まったくいい天気だよ」


 そんな独り言も零れる。家に居たらたぶん後悔するであろう天気だ。絶好の登山日和とも言える。

 俺はコンビニでゼリー飲料とチョコレートビスケットを買って、取り出しやすいようにザックのポケットに詰めた。後ろに手を回せば難なくとれるだろう。

 会長もチョコバーとゼリー飲料を買う。そんなに長い山行ではないのでこれくらいで十分らしい。桐生は煙草を吸っていた。今のところ立ち位置はマスコットだ。とにかく口数が少ない。


 東秩父村に入り、峠へと向かう分岐を左折する。長く地味な上り坂を越えてようやく峠道だ。強張りがちな肩の力を緩めて秩父高原牧場への分岐を無視した直後それは起こった。


 バスン。


 バスン、バスン、バスン。


 窓越しに聞こえる不快な音。異音に頭が冴える。


「ちょっと、この音ヤバくね?」


 会長が言った時にはすでに車を路肩に停めていた。経験はなかったがなんとなくそうであることは分かった。ただの思い過ごしであってくれ。そんな考えすら彼方へ飛んでいった。今はもう、現実が立ちふさがる。


 運転席を降りて一つ一つのタイヤを確認する。間を持たずしてこの目に焼きつく現実。愛車というほど思入れはないが乗らない日は無いというくらい共に過ごした車の左後輪は円形を維持していなかった。


「あーらーらー」


 ともに降りてきた会長がぼやく。


「高山、お前持ってるな」


 桐生はポケットに手を突っ込んで皮肉を吐いた。

 時刻は五時四十五分過ぎ。いまだ早朝とも言えるこの時間。山に囲まれたこの緑豊かな峠入り口で、車は無慈悲にもパンクしてしまった。

 鶯の声がやけに綺麗に自分の耳に届いていた。

あいにくの天候と言ったな。あれは嘘ではないんです。一週間に二回行ったうちの一回がバリバリの快晴でした。あれは気持ちよかったなぁ。しかしそこは九割フィクション、一割ノンフィクション。このお話と同じく、登山には最高のコンディションで、ほぼ同じ場所時刻で車がパンクしました。

まだ癒えていない心の傷ですが物語として昇華します。だってこれ山行録だからね。

今回は行動食の説明をちらっとしましたが、お菓子でなくとも手軽に食べることができてエネルギー補給になればなんでもいいんです。とにかく補給しながら歩けってこと。今度羊羹持ってってふいに貪りたいんですけどコンビニに意外とおいてないんですよね、羊羹。

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