第四話「ブレイクタイム」
山に何しに行ったんだっけ。そう思うくらいには登山の記憶が飛んでいる。山頂までの苦さや辛さは身にしみて、というか筋肉痛として形に現れているが、山頂から先の記憶は別の誰かのものだったんじゃないかとさえ思う。ふわふわと地面に根ざすことのない記憶。俺から登山の楽しみを奪い取った元・非行少女、桐生明日香という女との時間。
歩くための地面をガタガタにする木の根や岩を慎重に歩く俺を振り返りながら何も言わずに涼しい顔のまま下山をする桐生。ここ、六号路入り口にあった悪路危険の文字に多少の危機感を覚える俺に彼女は「登山しに来たんだからこれぐらい歩け」と言い放った。曰く、登山でなく観光目的で来た人間に向けての注意喚起であり、しっかりとした登山靴で来た人間はさほど気にする足場ではないと。待って、俺今スニーカー。
俺がその旨を述べると「これから山に登る気なら、スニーカーじゃ何がダメなのか知っておくべきだ」と、まぁ本当はここに罵詈雑言が含まれるのだがそれは割愛して、とにかく自分の身をもって知れと言っていた。
なるほど。稲荷山ルートには無かった、避けられぬ木の根の大群。容赦ない岩場続きの道。六号路と呼ばれるこの道は確かに登山におけるスニーカーの欠点を思い知るには良かったのかもしれない。
下山で傾いた時に先端に当たり執拗にダメージを与えられるつま先。多少尖った石を踏んだ時の靴底の薄さによるダメージ。石や根から靴がずれた時に捻る足首。これら全て登山靴を履けば解決すると、下山後に立ち寄った蕎麦屋で彼女は語った。なんでも高尾山はとろろ蕎麦が有名らしい。彼女はあとは授業料だからと、会計時に二百円だけポケットから取り出した。全部奢らせないだけ、彼女の成長を感じた。
あれから数日経って、俺は登山用品を扱う店へ出向いている。帰路の車中でスマホに入力してもらった「次の登山までに確実に用意しておくものメモ」を片手にしながら。
どうやら俺は完全に桐生のタクシー運転手だ。まぁ、始めようと思って始めたことの上に、経験者が付いているということは有難い。ガソリン代や高速代の補助がないことが財布にダメージを与えるが。
とりあえず入り口を抜けてスマホのメモ画面を見る。
次の登山までに確実に用意しておくもの。
・登山靴(これは一人で選ばずに必ず店員さんと一緒に選ぶこと)
・ザック(これも同上。自分だけで選ばない)
・ベースレイヤー(一番下に着る服。汗冷え対策のため。吸湿速乾製のものを選ぶ)
・ミドルレイヤー(ベースレイヤーの上に着る服。フリースなど、保温性、透湿性のものを選ぶ)
・アウターレイヤー(防寒性、防風性、透湿性のものを選ぶ。これからの時期でも頂上での停滞時など、寒い時は寒い。とりあえずソフトシェルから選ぶ)
・レインウェア(レインウェアもアウターレイヤーのうちだけど、別のものとしてカウントする。撥水性や透湿性に優れたものを選ぶ。山に登ったら天気予報は当てにならない。豪雨にさらされることもあるので必ず上下揃えて常にザックに入れること)
・あとはストックとか必要だと思ったのを揃えること。分からなかったら聞くか調べる。
……なんだろう。これを見るたびもやもやする。
初心者ゆえにこれを見ても分からないものは分からないが、丁寧かつ簡潔なメモだ。これを書いたのが桐生だからこそもやもやする。店員「さん」ってなんだよ。
とりあえずはその店員「さん」とやらに初めての登山靴を選んでいる旨を伝える。正直、登山靴を扱うコーナーに入った瞬間「自分で選ぶのは無理だ」と察した。登山靴の種類、ブランドと形状や価格もピンからキリまで並べてある。
まずは足のサイズをはかる事から始めるらしい。自分の足のサイズなど、誰もが瞬時に言えるくらいのものだと思っていたが、登山靴はまず登る予定の山の標高や地形、メインで登る季節などから必要な靴の種類を選び、サイズに関しては自分の足のサイズより一回り大きいもので足の横幅、つま先の幅まで考慮し、自分に合った靴を決めるそうだ。特に足の幅などはブランドにより多少の違いがあるので何足も試し履きをし、店に設置された岩場を模した傾斜を歩き、自分にピッタリな靴を選ぶとの事。そりゃ、店員さんと選ばなければ自分にとっての外れを引く確率が圧倒的に高くなるわけだ。靴だけで少し引くような値段をしているのでここで外れを引くわけにはいくまい。
そしてザック選び。これも店員さんに助けを乞う。なんたって種類が豊富すぎる。普通のサイズからバカでかいサイズまで価格もやはりピンキリだ。
ザックは背負うものではなく着るもの。店員さんがそう語る。ザックに入れるものはどうしても重くなりがちなので、とことんまでフィットしていないと長時間の負担を肩にかけながら山に登ることになるらしい。ただでさえ肩がバキバキ鳴るようになってしまったのでそれだけは避けておきたい。
ザックも登山靴と同じく「どこでどのように使うのか」から始めるそうだ。ハイキング程度なら20リットル付近。日帰り登山なら20~35リットル付近。テント泊や長期間の縦走だとこの倍以上の容量が必要になる。まさかいきなりそんなハードな登山をする気は桐生にはないだろうと、神に祈りながら試着を繰り返し、33リットルのザックを購入した。
そうして着実とクリアしていくメモの内容。結構余るだろうと高を括って用意した財布の中身は悲鳴を上げ始める。趣味の初期投資は金を食うとは言うが、山に登るだけの行為にここまで金がかかるとは。しかし、安易に安物を買って失敗すれば山で死にかねないし、その前に桐生に殺されかねない。
スポーツ用品店から大きな買い物袋を提げて出てくるころには、俺の心に達成感と喪失感が宿っていた。
「次は近場にするぞ」
帰宅後、桐生に買い物を終えたことを報告するとそんなメッセージが返って来た。
「近場ってどこだ?」
「秩父」
「まぁ、近くなったのかな」
正直、根っからの埼玉県民の感覚からすると秩父は少し遠い。厳密に言えば奥秩父が遠い。秩父市はいくつもの町や市、村などと合併し、埼玉最大の市となった。つまり、秩父に行くのは容易いが同じ秩父でも行く場所によっては山を越える必要が出てきたりするので、高速でのアクセスが良い奥多摩の方が案外近いというケースもあったりする。高尾山なんかがいい例だ。
「とりあえず、当日は四時半に学校入り口の交差点のコンビニまで来い」
「また随分早いな」
「今回行くのは武甲山って山だ。ふもとの羊山公園で芝桜が見ごろだから、下山後にそっちも行く。あんまし遅いと駐車場すら入れなくなるからな」
ああ、あそこか。芝桜なら県外でも有名だ。公園に広がる圧巻の白やピンクの花を見るために毎年県内や県外から多くの人が訪れる。何より埼玉県民が誇る数少ない自慢できるイベントの一つでもある。えっ、知らないんですか?ちょっと遅れてますよ。
それから買った登山装備を試しに着たり、ザックの中にその他必要なものを詰めたりして登山の感覚を掴んでみようとした。平地でもその機能性は十分に伝わる。何といっても軽い。驚くほどに服が軽い。だいたいフリースや、ソフトシェル(ウインドブレーカー)なんかは手で掴んでみるとそれなりの重さを感じるものだが、登山用はまるで重みを感じない。
いつもは格安洋服店や古着屋で適当に服を買う俺にとって、服に出す値段ではないレベルの金を出して服を買ったわけだが、本当に買ってよかったと思った。これから普段着でバンバン使いまくるのだろう。それほどのものなのだ。
そして日は巡る。想像もしていなかった出来事が起こるその日まで、時間が流れ続ける。
やっぱ武甲山まで書けなかった。
とりあえず、なんか「登山やってみよっかな」って人のために用意するものの基本を交えてみました。これだと説明不足も説明不足なのでちゃんと調べてね。作中でも述べましたが、登山靴は絶対に店員さんと一緒に選びましょう。だって筆者失敗したもん。登山靴と思って買ったら、まぁ登山靴なんだけどローカットのやつで、あんまし標高高かったり、岩場多いと不便なやつだったってのを後々知りました。トレイルランニング用の靴だね。山道走れるわけないだろあほか。サイズはたぶん問題なさそうなのでしばらくはシーンに合わせて履いてきます。せっかく買ったからね。仕方ないね。
これから始める人はきちんと店員さんと相談してミドルカット以上のトレッキングシューズを選びましょうね。筆者とのお約束。
追記:章の終わりごとに使用したルート書いてみたらどうでしょうって感想いただいたので、高山君たちはこんな感じで登ったよってルートを示してみようと思います。参考がてらにどうぞ。っていうかこれあとがきに書くんでいいんだよね。
高尾山市営駐車場~清滝駅~稲荷山コース登山口~高尾山山頂~六号路~清滝駅~市営駐車場




