第四十八話「金峰山~瑞牆山・晴天その5」
足を進めた先、大日小屋付近の広場とはうってかわって鬱蒼とした樹林の中を行く。展望はなく、足だけが進んでいく。
「なんか出てきそうで怖いね」
「樹林帯じゃ……そう感じるかもな」
「確かに視界もあまり良くないし、動物がその辺にいても気づきにくいしねぇ……でもこれが昔々の人の感覚なのかもね」
かくいう俺もこういう樹林帯では割と感覚が鋭敏になったように思う。
枯れ葉が落ちる音がやたら大きく聞こえるのは、動物の、というか熊の影に怯えているからだろう。
一度止まっては辺りを見回したりする辺り、何か細胞全部が自然に対して警戒しているみたいだ。
そんな樹林帯を抜けると稜線に出る。八ヶ岳の時とは違って、稜線に出るまで樹林帯が続くので開放感が凄まじい。
「うわぁ……ここもすごい景色だね」
「でしょ。これ初めて見たときはびっくりしたね」
この時点で望む富士山、南アルプス、八ヶ岳。荒々しい岩から身を乗り出して長野〜山梨の名峰をこれでもかと目に焼き付ける。
「こっから先は岩を乗り越えながら行く感じだからな。休み休み行くぞ」
「了解」
桐生の言葉通り、登山道に屹立する岩を乗り越えながら進む。そこに現れた波打つ稜線が無限に広がっている。嫌な予感がしたので前を行く金髪に尋ねる。
「頂上……どこ?」
「……あそこに変な岩あるだろ?んでその隣盛り上がってんだろ?そこだよ」
「……はぁ」
遠いな。おそらく目に見えるよりずっと遠いはずだ。色づいたハイマツ帯にどうにか心癒されながら進んでいく稜線。
会長は本当にこれ初めての登山でやったのか。
放課後の校舎の屋上でのんびりと西日を眺めるのが夢だった。当たり前のように屋上が開放されている漫画とは違って、大抵の場合屋上は閉め切られている。
高いところが好きかと言われれば、そういうわけではなくて、眺めが良い場所が好きかと言われれば好きだけど、答えとしては適切じゃない。
いつだったか彼と東京タワーに登ったとき、私はどことなく息苦しさすら覚えていた。煌々と輝く東京の街が綺麗だったのは確かだ。濃紺の夜空に赤い夕焼けが押しつぶされていくその景色も綺麗だと思った。
個人的な練習で走って行く、小さな土手の上から見る街並みは好きだった。漂ってくるはずのない夕飯の香りを嗅いだ気がして、私はそれに郷愁を覚えたりするのが好きだった。
私が私でいれる場所が好きだったのかもしれない。
それは自分の部屋であって、走ってる最中であって、桐生と一緒にいる時間で、まさに今がその時だった。
「桐生さぁ……」
「なんだ?」
「なんでもっと早くに山登ってるって言ってくれなかったの?」
「……普通、お前みたいな若い女が登山に興味持つか?」
「どの口が言うんだ!この口か!この口か!」
頬をつねられた桐生は無抵抗のままムニムニと私に頬を引っ張られ続けた。たぶん今の私にしかできない行為だ。私よりなんだかずっと健康な肌を存分に堪能しよう。
「やめろ馬鹿」
頭を引っ叩かれた。時間は永遠ではない。それを痛みと共に思い知る。
「でもさ……すごいね。うーん、言葉になんないけどすごいよ」
「優等生の言葉とは思えねぇな」
「元・優等生ね。今はもう下の下だよ」
「そうかもしんねぇな」
否定せず、私の自虐を肯定した。悪い気はしなかった。
平坦な道を歩いてきた私にとって、この登山道は荒々しく見えていた。
覗き見る崖下。落ちれば命はない。
一時は自殺願望さえ持っていた私にとって、脚がすくんだことが何よりの生きたい証拠だった。
体全部を使って岩を乗り越える。足だけじゃままならないからストックはザックの脇に突っ込んだ。
「どうだ?元陸上部のお前でもそろそろキツくなってきたんじゃねぇか?」
「……ん。確かにこたえるね。でもさ、すっごい楽しい」
吹く風が私の髪を凪いだ。視界を覆い尽くした青と緑と散らばった赤がこの先にも続いている。
初めて見る景色、初めて覚えた感覚。
誰が否定しようと私にはわかっている。ここが、私だけの世界の果てだ。
「ねぇ、桐生」
「あ?」
「次もまた、どっかに登るんだよね」
「そうだろうが……今聞くんじゃねぇよ。まだ山頂着いてねぇぞ」
「でも、もう登りたいんだ。なんか分かんないけどさ」
今思えば、少し自暴自棄なのもあったのかもしれない。でも眼前に広がる絶景に、それが影すら隠していた。
何もかも忘れたかった。何もかも、ここに置いて行きたかった。
意気揚々と進む足はやがてその勢いを衰えさせていった。
「ダメだ。一回休憩」
吉岡が声をあげたので、登山道から少し逸れた岩場に体をもたげた。
絶景は疲れを忘れさせる。それは良い意味でなく、忘れてはいけない疲れを忘れさせることもあるので注意が必要だ。
「しかし……遠くまで来たな」
瑞牆山のスケールがずいぶん小さくなった。あそこから歩いてきたのだ。我ながら感心する。いつのまにか、そんな俺たちに着いて来れるようになった吉岡にも。
風が穏やかに吹いている。鳥の声は絶えず青空に反響するように自然と耳に届く。
喉の奥に流し入れたコーラの炭酸はすっかり抜けていたが、それも美味しく思った。
金峰山の標高は北奥千丈ヶ岳の2601メートルに次いで奥秩父山塊の中でも2599メートルと二番目に高い山だ。今ここにいるのが森林限界なのだから当然といえば当然なのかもしれない。
そんな二千メートル級の山を尾根伝いに登るのだから疲労は浮き出て、いまここに現れる。
「鷹ノ巣山の方がツラい」
「まだ言ってんのか」
行動食とコーラを押し込んで目指す山頂。
乗り越える必要のある岩場はどんどんと大きくなっていく。これで明日は遠く向こうに見える剣山のような山容をした瑞牆山に登るというのだから、しばらく考えるのをやめにしたいくらいだ。
とりあえずは山頂を目指そう。今日は今日という日を。金峰山という山だけを体と心全部で登っていくのだ。




