第四十九話「金峰山~瑞牆山・晴天その6」
後光差す人の手で積み上げられたような岩。五丈岩と呼ばれる岩だ。
金峰山山頂まで長い長い道だった。コーヒーを飲みながら山頂の冷風を浴びる。
ぼんやりと望む展望。今までは山梨、長野県側までの山しか見えていなかったのだが、山頂まで来ると秩父、奥多摩方面の奥秩父山塊が見えてくる。
国師ヶ岳、甲武信ヶ岳と思われる山は、十月初めといえどすでに紅葉のピークに達していた。
「向こう側綺麗だねぇ」
「うん。こっち側は割と紅葉してるもんだね」
八ヶ岳、南アルプス方面は小さいとはいえ、町を挟んでそびえているのに対し、奥秩父山塊は人間が住むことのない山の波が連なっている。海なし県とはよく言うがこの緑の大海を海と言わず何と呼ぶのか。山ですね。
山頂は人で賑わっている。アルプスや八ヶ岳ほどではないにしろ、奥秩父山塊の中ではアクセスしやすいという理由からメジャーな山なのかもしれない。
「……久々だけど懐かしくはないね」
「ほんの数年前だろ登ったの」
五丈岩を仰ぎ見ながら会長と桐生が話している。それを聞く気はなかったのだがどうにも静かな山頂、座ってるだけならば声は自然と耳に届く。
「でも数年前だよ。時が流れるのは早いよね」
「まぁ、そうかもな」
「進歩はしてないけどさ、前よりは良くなったかな。私」
その言葉に、赤岳で桐生と交わした会話を思い出す。
形は違えど、みんな同じようにもがいてるんだ。理想の自分になるために。
お金持ちになれずとも、名のある人間になれずとも、自分を誇れる自分になりたい。桐生でさえ思ってるんだ。ここにいる全員がそうなのだろう。
「高山、飴いる?」
耳は会長たちに、視線は五丈岩に向けていたら横から吉岡が飴を差し出してきた。礼を告げて舐める。口に広がるレモン味。なんとなく目が覚める。
「そういや吉岡、お前結構歩けるようになったな」
「人を赤ちゃんみたいに」
そうは言っても、高尾山で死にそうな顔をしていたのはつい最近の話だ。
「まぁ、最近ちょこっと鍛え始めたよ。いつまでも足引っ張るわけにはいかないからね」
「……鍛えてんのか」
夏本番前にランニングを始めた俺だったが、夏本番は夜すら暑く、すっかり走ることをやめてしまっていた。それが習慣になって、実のところ桐生たちに追いつくのが精一杯だったのだ。
「そこから始めないとさ。なんだかどっか行っちゃいそうなんだもん」
「いや、なんだかんだ待ってるから」
「そーゆーことじゃないんだなぁ」
じゃあどういうことだよ。そう返そうとしたときには、吉岡は何歩か進んで奥秩父を眺めていた。細い体躯に収まっていない背中を見た気がした。
奥秩父方面からガスが舞い上がってきたので下山を開始する。金峰山に近い登山道があるのか、他の登山客は違う方面から下山を開始している。
十月になると、流石にあっという間に日が落ちていく。コースタイムの長いこのルートで下山するのは自分たち以外に人はいなかった。
「一人だったら嫌な静けさだね」
「人がいなさすぎてもねぇ」
振り返れど追う人はいない。長い稜線だ。こちらに向かってくる登山客ならすぐに把握できるのだが、流石に誰もいない。
「日没までには絶対着くから、焦る必要はないよ」
稜線から樹林帯へ降りると、西日のお陰で一層薄暗くなっていた。明かりがないのは心許ない。
半ば心臓を高鳴らしていたところ、目の前の岩の影で光る二つの目に足が止まる。
「ん?なに?どうかしたん」
すぐさま俺の不審な止まり方に気付いた会長が尋ねる。
「そこ、なんかいる」
「ん……あぁ、なんかいるね。岩陰ちっちゃいから小動物かなんかだよ」
「どうしたんだ?」
「高山がちっちゃいのにビビってる」
「情けねぇなお前」
悪かったな情けなくて。姿が見えてたらビビってないんだよ。暗闇に光る目を背後にそろりそろりと歩いていく。
十六時過ぎ、ようやく富士見平小屋が目に入る。ここまで長かった。こんなに歩いたかというくらい樹林帯が長かった。やはり下山こそ酷な時間だ。楽しめた試しがない。
幕営料を払い、テントを組み立てる。
あれから全員でお金を出し合い、四人用テントを買った。これでこのメンバーでテント泊する際もかつての悲劇を招かなくて済むというものだ。
ちなみに四人用のテントは俺が背負っていた。四人用と言いつつ、目安が使用人数プラス1なのでもちろん俺は入らない。荷物の関係上俺のテントは会長に担いでもらってはいたが、背負う意味も、まして俺が入らないテントの料金を俺が払う理由が謎だった。
テント場にはちらほらとテントが張っていて、すでにいい匂いも漂っている。俺たちもそのペースに合わせるようにご飯を炊く。
今日はカレーライスだ。キャンプのように豪勢にはできないのでレトルトカレーになるのだが。
コッヘルに米を入れて蓋を閉めて、だんだんと周囲が暗くなっていく中でご飯が炊けるのを待っていた。
「いよいよ寒くなってきたね」
ソフトシェルに身を包んで蒸気を浴びる。凍えるほどではないが、寒いことは寒い。真夏の八ヶ岳すら涼しいでは言葉が足りないほどの気温だった。秋が深まろうとする山中、陽が落ちれば必然寒くもなる。
「そろそろじゃない?」
吉岡が蓋を開けると艶めいた米粒がぎっしりと炊き上がっていた。摘んでそれを口の中へ放る。
「いい感じ?」
「……硬いね。食べれないわけじゃないけど、結構固めだ」
「こういうのはトライアンドエラーだからな。そのうち加減も分かってくるだろ」
「どうする?まだ炊いとく?」
「これ以上は焦げる」
仕方ないが皿にご飯を持って別の鍋で温めていたカレーをかけた。このお湯は捨てずにコーヒーに変換される。うーん、ワイルド。
「カレーかけたらイケるね。美味しいよこれ」
「カレーやっぱ強いわ。カレー考えた人に拍手」
会長の拍手が虚しく寒空に響く。うん。米硬い。
普段はあまり混ぜない派である俺も満遍なくルーとご飯を混ぜ合わせる。
体が欲していた「味」というものが舌を駆け抜けて胃の中へ。カレーとはこんなに美味しいものだったか。
甘く、辛く、しょっぱい。それら全て矛盾することなく一つの味として統一されていく。米硬い。
時折舌を満たす薄っぺらい肉、柔らかいじゃがいも或いは人参。食感というもの含めてカレーライスは五つ星の料理である。米硬い。
「米硬い」
「分かってるから言うんじゃねぇ」
とっぷりと陽が暮れてもまだグループで来ている人の話し声が聞こえていた。俺たちもその流れを汲むかのように寒空の下、各々のマグを持って冷え切った手を温める。
「星、よく見えるけどみえないね」
「そうだな」
赤岳鉱泉とは違って、テント場は開けていない。確かに頭上にある星空は木の枝で遮られている。
その間を縫うように視線を巡らせて星空を眺める。
自分の部屋を思うと少しホームシックにもなるが、だからこそ何ごともなく帰ろうと決意も固められる。
「こん中でお酒飲める人」
会長がごそごそと缶チューハイを取り出して掲げる。
「飲めねぇっつってんだろ」
「桐生は知ってるよ」
「私はダメだ。ちょっと飲んだだけで大変なことになる」
「じゃあ高山」
「一缶だけな」
「うっし乾杯」
缶を合わせて乾杯。下で灯るランタンの灯り。会長はたぶん笑ってるはずだ。闇の中で缶チューハイとマグがおぼつかない音を鳴らしていた。
朝霧山遭難事故調査報告書・2
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