第四十七話「金峰山〜瑞牆山・晴天その4」
「雲ひとつないよ」
瑞牆山荘前の市営無料駐車場でザックを下ろして空を仰ぎながら吉岡が言った。
「本当だねぇ。この時期だと涼やかだし絶好の登山日和だねぇ。こんな日に山登らないで他に何するっての」
……いろいろあると思いますよ。
奥秩父主脈、その最西端に位置する瑞牆山。奥秩父と聞いてそこまで遠くないと思っていた俺はのんびりと運転していたのだが、気付けば夜は明けて、文句なしの深々とした青空がなみなみと広がって、南アルプスが見えたと思ったら八ヶ岳まで見えてここに至る。遠いじゃないか。八ヶ岳すぐそばじゃないか。奥秩父という言葉に騙された。
中央道は須玉ICで降りて、そこから小一時間段々と山を越え、林道を走れば突き当たりがこの駐車場だ。
道中、トタン屋根はおろか、茅葺き屋根まで存在する田舎を通ってきた。茅葺き屋根を資料館のような場所以外で見たのは初めてだ。その姿に感動すら覚える。
ストックを取り出して一度駐車場から下り、瑞垣山荘で登山届けを提出。
今回はテント泊を敢行して初日に金峰山、明けて瑞牆山という山行だ。
『金峰山へ 4時間』
ここから登るとコースタイム八時間らしい。日帰りならどんなに早く出ようと行って帰ってで終了だ。なんだかんだで今までで一番長いコースタイムではなかろうか。
「結構歩くってことだよね?」
「そうだな。そんな歩いた気がしねぇけど、楓はどうだった?」
「……そうだねぇ。あんまし覚えてないや。高山だってこの前の赤岳はそうでもなかった記憶になってるでしょ?」
「……まぁ、そうだな。思い返すとそうでもなかったような。鷹ノ巣山は今でもトラウマ級だけどな」
「別にあの山大したこたねぇだろ」
その大したこたねぇ山が俺の中ではすっかり基準になってんの。今のところあれより辛い山はなかった。たとえ辛くても展望があればそのぶん加点されていく。鷹ノ巣山にはそれすらない。
ただ、思い出すたびに思うのは二度と登りたくないわけではないってことだ。あの泣きたくなるような急登をもう一度味わってみたい。
まずはこの瑞牆山荘から今回のテント場である富士見平小屋を目指す。ここから瑞牆山、金峰山へと分岐していく訳だ。緩やかな傾斜の九十九折が続く。
登山道には大きな岩がそこら中にあるのだが、ここはガレ場というわけでもない。至って普通の樹林帯で、岩はまるで空から降ってきたような、そんな佇まいをしている。
ストックをつきながら上へ上へと向かっていくと、その奇岩の最もたる場所に出る。
「里宮さんだってさ」
大きく突き出た巨岩の下の祠。確かに物珍しい光景だ。天然の屋根というか、雨風を凌げそうではある。
二礼二拍手一礼。山の神様に登山の安全を祈願する。
そこから少し登ると急に視界が広くなって、目の前に異様な山容をした山が現れた。
「……なんだあれ」
「瑞牆山だよ。すっごいよねぇ」
「あれ登るの?大丈夫?」
下手したら穂高岳より荒々しい岩陵を見て震えながら吉岡が指さした。
「ああ見えて登山道は結構普通だぞ」
「……普通だったっけ?」
「初めてのお前連れてって難なく登れたから普通だったんだろ」
「……あぁ、それもそうだ」
「会長はここが初めての山だったのか」
「そそ。しょっぱなから森林限界」
おそらくは桐生に連れて行かれたんだろうが、初回から往復八時間のコースタイムで森林限界のある山だったならさぞキツかったろうに。俺は最初の登山を自分で決められて幸いとしか言いようがない。
「……なんかすっごいのが出てきたんだけど」
少し開けたベンチのあるその場所。まるで剣山のような岩が無数に空へと伸びる山を見ていた。
「……あれが、瑞牆山だよ。っつーか初っ端からそんな飛ばして大丈夫なのかお前」
「飛ばしてないよ。普通に歩いてるよ」
どちらかというと、桐生の方が息が上がっている。
「忘れてない?私陸上部で長距離やってたの」
「……納得した」
桐生が一度ザックを降したから、私もそれに続いてベンチに座った。
「行動食、食っとけ。まだこれから歩くからな」
「まぁ、そうだろうね」
「……とりあえず、どんな感じだ?山に登って。案外こういうのも悪くないだろ」
「うん」
ゼリー飲料を飲み干して、私は答えた。
いつもと違う環境に置かれただけで、心は随分軽くなる。忘れてるだけと言った方がいいかもしれない。帰ればきっとまた思い出す。
ただ、この二十数時間だけ、忘れられることができるなら。なんで桐生がここへ連れてきてくれたのか、少し分かったような気がする。
ザックを背負い直して、登山道を先へと進む。小さな体を包むようにして背負ったそのザック。その不格好な姿が頼もしく思えた。
「鹿とか猿とかに会えるかな」
「運が良ければな」
瑞牆山を左手に登山道を歩いていくと、どこからか水の流れるような音が聞こえた。
『水場』の案内に誘われてそちらへと歩いていく。細いパイプから鍋へと水がとめどなく流れているのでそれを手ですくって静かに飲んだ。
「冷たくて美味しいよこれ」
「山の水だからな。公園の水道とは訳が違う」
「分かってるよそれくらい」
まだ低い位置にある太陽が桐生の金髪を照らす。それをとても綺麗だと思ったし、そんな光を何かの始まりのように思えていた。
「こちらが今日のお宿です」
「宿っつっても泊まるのはテントの中だけどな」
市営駐車場から小一時間。金峰山、瑞牆山への分岐でもあり、もう一つの起点でもある山小屋、富士見平小屋に着く。
富士見平小屋とはいうが樹林に囲まれて富士山は特に見えない。テントがいくつか点在して、中には今から組み立てている人もいた。
金峰山へはここから三時間歩く。まだまだ歩くのだ。そう考えていたら、ここまでの小一時間が一瞬の出来事にさえ思えた。
樹林帯を歩く。暑さは完全に和らいで、涼しい空気の中、所々色づいた木々の葉に確かな秋を感じる。
「十月じゃまだまだ見頃ってほどでもないね」
「でもこういうとこ来ないとなかなか紅葉って見る機会ないしねぇ」
登山道の斜度は比較的緩やかだ。三時間歩くのだから急登はないだろう。
ただこの樹林帯の中を歩くとなると三時間という長い時間が辛い。何か面白いものでも……と目を凝らしながら歩いていたら非常に面白い形の木を見つけた。
「……すごいなこれ。どうなってんだ」
どこからどこへ向けて生えているのか分からない木。そもそもこの木が生きているのかも怪しい。
「……なんか龍の頭っぽいな」
「でしょ。マウンテンドラゴンと名付けました」
「あたしはそんな馬鹿馬鹿しい名前じゃなくて竜頭の木って呼んでる」
「面白みがないね桐生は」
「……私はナマズに見える」
「……どこが?」
「水からほら、ばしゃーって」
「……あぁ、分からなくもない」
山登りは感性を磨く行為だとも思う。こうして何かの形に見えるものを写真に収めたり、美しい景色を写真で、言葉で表したり、山に登るその行為自体に意味や理由を探したり。磨かれたかどうかは定かではないが何かしらの成長はあるだろう。
例えばそう、体力とか。
てっぺんが妙に丸いその岩は大日岩と呼ばれるものだそうだ。ここ大日岩に来るまででも結構な時間を要したが、息切れはほとんどない。快適なトレイルだ。
そしてそのすぐ近くには斜面の下にある大日小屋がある。どうやらここにテントも張れるそうなのだが、富士見平小屋とはうってかわって随分静かな場所だ。人っこ一人いない。
開けた場所で石のベンチに座って休憩を取る。未だ展望はなく、この先も長い登山道は続く。
「山頂までどれくらいよ」
「ここに来て半分ってとこかな。まだまだ樹林帯は続くねぇ」
「そうなんだ。まだまだ歩くのか」
中身のない会長との会話。この間の電話の件を忘れたわけではない。
『桐生のこと、不安にさせるようなことしたら、私許さないから』
桐生を庇いつつも冷たいその声。何か気に触るようなことでもしたのだろうか。こうやって話してる分には嫌われているわけでもなさそうなのだが……。
たぶん気にするべきなのだろう。会長の物言わぬ距離を。
最近、山を登るたびに何かしらの悩みを抱えている気がする。いっそのこと一人きりになれたのなら、それらの悩みとおさらばして心ゆくまで景色を楽しめたのに。
でもそれは逃避だ。今まで散々やってきた愚行だ。山頂まで行かずに下山して、散々山頂からの景色を夢想する行為に等しい。
是が非でもこの山は登らなければならない。
「お?もう行くのかい?」
会長が眼鏡を掛け直して俺を見上げる。
「行かなきゃ山頂に辿りつかねぇからな」
「何を当たり前のこと言ってんだ馬鹿」
これは奮起だよ。当たり前でも言い聞かせなきゃならないの。
そうして目指す金峰山。思っていたより辛い道だとは露知らず、踏み締める脚はその距離を測るように確かな一歩を刻み続けた。
遅報!アルプス八ヶ岳冠雪。冬山シーズン到来。
どうしようね。筆者は登り始めて一年未満なので雪山行く勇気がございません。雪山装備にもお金がすごいかかるしねぇ。
そうなるとこの小説、一旦ストップって話になるんですよ。11月にも一応予定組んでるのでどっか行けたらどっか行くんですが……その間コドクトリップと、ひっそり再開する『暁のデスペラード』が積み上がっていく予定です。
金峰山、瑞牆山編はゆっくり更新でいいよね……?




