第四十六話「金峰山~瑞牆山・晴天その3」
桐生の家に着いた私は、疲労からか横になると気絶するように眠ってしまった。らしい。朝、目を覚ますと布団の上に寝かされて、その隣で桐生が座布団を枕にして雑魚寝していた。
昨晩の出来事はまるで全部夢のように思えていた。そして、この桐生の匂いがする部屋にいることも。
眠っていた桐生は目を開けて「起きたのか」と体を起こした。未だ夜明け前、そういえば服も何もかもあの家に置いていってしまった。幸いというか、携帯と財布だけはコートに突っ込んだことは覚えている。
「……仕事、」
ポケットから携帯を取り出して確認する時刻。まだ時間はある。どうにかして服装だけでも整えないと、そううろたえる私に桐生は「今日くらい休め」と言った。
「お前、あたしが素人目に見たってぶっ倒れそうな面してんぞ。化粧してもごまかせねぇくらいのな」
「……そんな酷い顔してる?」
「とりあえず寝とけ。仕事先から電話きたらあたしが出てやる」
「いいよ。それくらい連絡入れるよ。昨日病院運ばれたから、たぶん私が来れないの前提で考えてくれるだろうし」
薄暗がりの中、桐生の起きたての仏頂面がさらに歪んだ。
「……ぶっ倒れてからじゃ遅ぇだろ。何考えてんだバカ」
「でも、そうしなきゃ生活もできなかったから」
「あいつは働いてなかったのか?……もう十発顔面殴っときゃ良かった」
なぜか悔しそうな桐生の顔を見たら、理由も分からない涙が流れていた。
「……ごめんね、ごめんね桐生。私、また迷惑かけちゃった」
「謝んじゃねぇよ。こんなん迷惑のうちにも入らねぇ。大事んなんなくて良かった」
まるで本物の恋人みたいに小さな体で私を抱きしめた。桐生が男の子だったら、たぶん私はあんな目に遭わないでこうして甘やかされる毎日を送ってたのだろう。
「もう大丈夫だ。しばらくあたしがいてやるから」
そういう意味で神様はズルいと思う。ほんの少しの違いで運命の人を見間違えてしまうように世界を作ったんだから。男と女なんて些細な違いだ。その違いで苦しむ人がどれだけいることか。
でも、未だに耳の奥に残った言葉を私は何度も反芻してそれを大事に仕舞い込んだ。
「ありがと桐生」
嬉しかった。『あたしの楓』って言ってくれたこと、本当に嬉しかった。だからこうして心のままに体を預けられるんだ。
「なんでもいいけど重いから布団で寝ろ。あたしの上で寝るな」
それからしばらくは桐生と一緒にいた。帰る場所がなかったから。そうでなくても一人になるのが嫌だった。彼がまた私の前に現れたらと思うと気が気じゃなかった。
彼が警察どうこう言ってたのも気にかかっていたけど桐生は「お前って被害者もいるんだし、女にボコられて泣きつくような情けない男だったら哀れんで笑ってやるよ」と平気そうな顔をしていた。結局桐生の言う通りに何もなかった。
また、桐生が合鍵を持って私の部屋に上がり込んだのか、大きな荷物を車から運んでくる日もあった。曰く「布団も荒れたままであの日と何一つ変わってなかった」そうだ。
もともとは私が借りていた部屋だ。たぶん彼は実家にでも帰ったのだろう。早いところ他の家を探しておかなければ。
一階からは桐生のおじさんが一緒に私の荷物を運んでくれていた。
「楓ちゃん、だっけ?うちの明日香と仲良くしてくれてありがとね」
背の高い、まるで彼と同じような体系だったけど、ずっとのほほんとしているようで、桐生の親戚と言われてもピンとこない風貌だ。せいぜい桐生と同じくらいカッコいいくらいか。
「拓ちゃんあたしたちを小学生か何かだと思ってない?」
「んなこたねぇって。ま、明日香と比べりゃ楓ちゃんはすごく大人っぽく見えるな」
愛想よく笑ったその背中に重たい一撃が入った。
「ってーな。そういうとこだぞ明日香」
「うるっせぇ」
なんか、おじさんといる時の桐生は別人みたいだ。あの冷徹な桐生が私以外の人の前で子供みたいに笑って怒って……人ってこうもコロコロ変われるものか。
「用が済んだらとっとと帰って。ここは拓ちゃんみたいなもっさいのがいていいとこじゃないの」
「人引っ張っといてそりゃねぇだろ」
「これは楓のため」
「あ、そっかぁ。じゃあしょうがねぇな。じゃあね楓ちゃん、お体大事にねぇ」
「いや、あの、本当ありがとうございました。こんな自分でやらなくちゃいけないこと……」
「いいんだよ。拓ちゃん基本暇だから」
「事実だけどお前に言われたくねぇんだな。楓ちゃん、今の嘘だからね。バリバリ働いてるから。でも助けが必要ならいつでも飛んでくるよ。おじさんこう見えて基本暇だから」
「帰れっての」
人間、一度落ち着いてしまうと動けなくなってしまう。どうにかして動かないと、これ以上迷惑になりたくはない。
でもそうして行動を起こそうとするたび、折られた自分自身が金切り声を上げて、私を磔にする。
毎日、何かに怯えていた。そのたびに大丈夫って言ってくれる桐生を疎ましく思うくらいだった。
そうじゃないんだよ。私は動かなくちゃいけないんだよ。
でも、どこへ?気づいたら目の前からレールは消え失せていた。
何のために生きていけばいいのか、まるで分からなくなっていた。
その時初めて、私は私が壊れていることを理解した。そしてその崩壊がまだ続いていくことも。
その重たい現実に耐えられなくて毎晩涙を流す私を見かねて桐生は言った。
「……楓、出掛けるぞ」
「出掛けるって……どこに?」
「山ん中だよ。お前にはそれが必要だ。それしかねぇ」
「……なんで?」
意味が分からなかった。脈絡もなにもなかった。ただその言葉に自信だけはあるみたいだった。
いや、でもなんで?そもそも桐生と山って繋がりが意味分かんない。何しに行くの?何されるの?
混乱に混乱が続く中、気づけば私は登山用品店にいて諸々を買ってもらった。
私がお金を出そうとすると「ここで買ったことすら忘れろ」と今まで聞いたこともない断り方もされた。
っていうか、登るんだ。山の方の温泉で一息とかじゃなくてそのものに登るんだ。なんで?訳わかんない。
その理由はたぶん桐生だけが知ってる。
気づいたら私は桐生と一緒に瑞牆山荘というバス停の前にいた。隣に立つ桐生は大きなバッグパックみたいなザックを背負って満足げな表情で立ってた。
「訳わかんねぇだろうけどさ、登りゃ分かるから」
そんな桐生の後を追った。やっぱり訳が分からないままだ。
ねぇ、桐生。なんで山なんか登ってんの?
あぁ~。
次回登り始めます。




