第四十五話「金峰山~瑞牆山・晴天その2」
今になってみれば思い出すほど彼との思い出がなかった。学校が終われば呼び出されて、軽い食事の後で行くホテル。まともなデートなんて、片手で数える程だった。
彼のお金がないことを知っていたし、当然のように私のおごりでも「いつもごめんね」そうやって笑うから、私はそれに違和感なんて覚えなかった。
それがカップルとして当たり前だと思っていた。
二月経って、彼はバンドを辞めた。目指してるものが違うと私にゴネた。内情はよく分からない。脱退という形で終わった彼の代わりはすぐに埋まったらしい。
「あいつら、裏切ったんだ。もうお前しか俺の味方はいないよ」
体を重ねた後、私を抱きしめながら彼は言った。これ以上ないその言葉に、私は心酔して彼の頭を撫でながら「私は裏切らないから」と強い決意とともに言った。
そこには確かに愛があった。ただ、その時から彼の様子は変わっていった。
「ごめん桐生。今日はちょっと喫茶店寄れない」
バイトの給料日一週間前、久々に会った桐生が「お茶でもするか?」と言ったその日、私の財布は雀の涙程度のお金すらなかった。
「……どうした?このあと彼氏と用事か?」
「そうじゃなくて、なんていうか、金欠気味っていうか」
桐生はため息をついて「今更バカ言ってんじゃねぇ」と笑った。
「楓はあたしが二人分のコーヒー代すら出せねぇほど貧乏に見えんのかよ」
「いや、そういうわけじゃないよ」
「……しかしあの楓が金の無心とはねぇ、悪い。なんだか笑えてきた」
鼻で笑う桐生に私は告げたいことがあった。でもそれを言ってしまえば彼との関係がどういうものなのか認めてしまうみたいで嫌だった。
情けなさを噛み締めてコーヒーを奢ってもらった。
「……まさかとは思うけど、男に使いすぎてんのか?」
「そういうわけじゃないよ。ただ……」
言葉が濁る。口に出せば愛が霞む。
「はっきり言えよ。それともあたしにすら言えないことか?表に出せねぇこと言えんのがあたしだけってのはお前が言ったことだぞ」
それもそうだ。桐生との関係は自信を持って特別と言える関係なのだ。
「俊哉君……今、仕事がないんだよ。頑張ってバイト探してるっていうけど一向に見つからないみたいでさ、それで今私が色々支えてるの」
「……そうか。なんかお前らしいや」
コーヒーを飲んで桐生は笑った。
「楓がそれで幸せならそれでいいんじゃねぇか。前から誰かのためにってのがお前の幸せっぽかったからな」
あくまで私を肯定する。何事もないように笑う。
「……ただ、辛くなったりしたらいつでもあたしに言えよ?そん時はお前の男ぶっ飛ばしに行くから」
冗談まじりにいったその言葉に私は私自身気づいていない「助けて」の声が潜めたなりを露わにしようとしていた。
「バイトは続けられそう?」
同棲を始めて数週間の時が過ぎた。彼もようやくバイトを見つけたけどすぐに辞めて、また別のバイト先を探した。今日はその初めての出勤日で、私は彼のために好物のハンバーグを作っていた。
「……ダメだ。あの店長、挨拶がなってねぇとか初日からうるせぇんだもん。やってらんねぇよ」
「でもまずは挨拶はしなきゃ。大事なことだよ」
「やってねぇわけねぇだろ。ただ何回もやり直しだやり直しだって。ガキじゃねぇんだ。さっさと仕事させろって話だよ」
「それぐらいで折れてちゃやってけないよ。明日から頑張りなよ。今日はハンバーグ作るからさ」
「バックレるよ。あんなふざけた店」
ひき肉をこねる手が止まる。彼の意志の弱さに半ば嫌気がさし始める。
「でも、まだ始まったばっかりだよ?」
「あのさ。俺の状況分かる?夢を追ってたのにさ、仲間に裏切られて、ゴミみたいに捨てられたんだぜ?一般人と一緒にすんなよ。スタートからして、俺はどん底なの」
「じゃあ、次探そうよ。これから二人で住むのに私一人の給料だけじゃやってけないよ」
彼はばつの悪そうに黙っていた。寝転がったソファから体を起こして俯いた。ため息が静寂に響く。
「……お前だけは俺のこと分かってくれてると思ったのにな。なんにも理解しちゃいねぇんだ」
「分かってるつもりだよ。俊哉君がどれだけ辛いか分かってるから、私だって支えになろうとしてる」
「じゃあ大学辞めてさ、働けよ。俺はもう疲れた」
「そういうわけにも……」
「ごちゃごちゃ言ってんなよ。そのうちデカい人間になる。俺は他の奴らと違う。今はどん底経験してんだ。ロックスターだって他人に言えないくらい落ちぶれたから輝くんだよ」
彼は私の肩を抱いて、耳元でささやいた。
「そん時はさ、お前を世界一幸せな女にしてやる。約束だ」
彼の言葉を鵜呑みにするほど馬鹿ではない。ただ、私は彼のそばにいられたら、それだけ約束してくれたら良かったから、私は大学を中退して、アルバイトを掛け持ちした。
未来を見据えることなく、今を生きるのが私にとっての限界だった。
精神的にはどうだったのだろう。肉体はすでに枯れ果てた。寝不足の毎日が続く。体を一刻でも長く休めたかったけれど、彼が求めるから睡眠時間を削って彼に体を預けた。
そんな日が続いて私はとうとう職場で倒れて救急車で運ばれた。診断はただの貧血だった。
彼を心配させまいと、黙って帰宅してキッチンに立った。
「……いつもより遅かったじゃん。何してたん?」
「……ちょっと具合悪くなっちゃってさ。病院で点滴してもらったからもう大丈夫」
「ふーん。あっそ。それなら良かった」
今日は俺が作るよの言葉が欲しかったけど、それは甘えだ。支えになると言ったからにはこれで折れていてはしょうがない。
夕飯を食べて、お風呂に入り、明日も早いからと寝ることにした。彼はそうじゃなかったようだ。
「まだ九時だぜ?そんな遅い時間でもないだろ?」
今にも溶けそうな意識を遮るようにして彼が下腹部をまさぐる。
「ダメだよ。今日だって寝不足で倒れちゃったんだから」
「いいよ。少しぐらい遅れてったってさ。今まで寝坊したことないんだろ?」
「そういうわけにもいかないよ。あくまで社会人なんだからそういうとこしっかりしなくっちゃ」
彼の手が止まった。背中越しに布団から出たのがわかった。
「っなんだよ白けるなぁ」
彼は脱ぎ捨てたズボンを履いて、シャツの上にジャケットを着る。
「……どこ行くの?」
「他の女んとこだよ。この時間なら誰かしら空いてんだろ」
「……それって浮気ってことだよね?」
「そうだよ」当然のように答えた。悪気はひとかけらもなかった。「俺はこれでも人脈広いわけ。お前と違ってさ。その気になれば他の女なんて幾らでも抱けるの」
「それは……嫌だよ」
「じゃあやらせろよ」
冷たく、愛のない言葉が掛け布団に落っこちた。
「はっきり言ってさ、お前つまんないのよ。真面目にやってますって顔だけして、中身がなんもねぇの。どうせ俺に股開くくらいしか能がねぇんだからさ。大人しく俺が言う通りに股広げろよ」
そう言われて頭にこない人間などいない。それは分かっている。けれど私はただ愕然とした。掛け布団を掴んでいた手も力なく垂れて、涙が一粒溢れたのを肌で感じていた。それだけだった。
「ほら」
肩を掴まれて、押し倒された。強引に飛んだ唇が首を舐めた。
「やめて」
思い浮かべたのは、体育館での出来事だった。金髪の少女が放った一振りの拳。私にもそれができたら。
「無駄だって。今日はなんだ?そういう感じか?付き合ってやるよ。ほら」
引きちぎられそうな服を必死で掴んで抵抗する。
そうか、私は抵抗したいんだ。
「分かってるよ。毎回毎回俺は優し過ぎたな。たまにはこうやってさ、強引に犯されんのも好きなんだよな?」
桐生明日香。彼女といたら変われるってどっかで思っていた。いつしか彼女といれば変わらなくたっていいと思っていた。そのザマがこれだ。
「……なんだよその目。マジにやってんのか?」
気づけば彼を睨み付けていた。憎悪の眼差しを称えて震えていた。あの時の彼女のように。ただ、その先には至れない。
乾いた音とともに頬が弾けた。熱いとさえ思う痛みが頬を覆った。その頬の上に流れた滴はさらに熱かった。
「いい加減分かれよ。分かんねぇならもう一発行くぞ」
弾ける痛みと音。その暴行に愛はない。酷く醜い欲求の塊が私を襲っただけだ。
寝巻きの糸が音とともにほつれていく。上半身が露わになり始める。それ以上は自分の衣服をギュッと握りしめることでしか抵抗を表せない。
「ようやくそれらしくなってきたな。実は感じてんだろ?なぁ」
感じてるよ。憎悪を。侮蔑を。なんでこんな醜い生き物なんだって、君じゃなくて私が。
こうなること分かっててここまでこうやって生きてきたのかな。
死にたい。今までやってきたこと、全部私のためにならなかったよ。だからもう、
その時、インターホンが鳴り響いた。
「誰だよこんな夜中に。悪戯か?」
それを無視して彼の手が私の背後に伸びる。それを無視するようにして、インターホンもまた絶えず鳴り響く。
「っ……ふざけた真似しやがって」
彼は玄関へわざと足音を響かせながら歩いていく。苛立ちがドンドンと音へと姿を変える。
「誰だよ!時間考えろ!」
「悪い。いつまで経っても誰も出てこねぇから押しまくった」
「んだ手前。出てこねぇなら帰ればいいじゃねぇか」
「結局いるじゃねぇか。誰だお前。楓の男か?」
その声に私の体がようやく動いた。熱い血が沸きたって四肢へと流れていくのを感じた。
「桐生……!」
部屋の奥、乱された衣服と流れる涙を見て桐生は呟くように言った。
「あぁ……そうか、分かった」
「おい楓!誰が出て来いって……」
私に恫喝するその顔に小さな拳が入った。大きな身長差はあれど、力の差を感じさせない一発。現に彼はのけぞって床に頭をぶつけた。重たく硬質な音が響いた。
「ってぇな!なんだいきなり!」
「黙ってろ」
鼻血を流す彼の横腹に蹴りが入る。言葉をなくして悶え苦しむ様を見届けることなく桐生は私に近づいた。
「悪いな。我慢できなくてお前の男にかましちまった」
甘い香りが鼻に届く。その香りに安心すら思い出す。
「でも、なんで……」
「お前、さっきあたしに『疲れちゃった』って一言メッセージ送っただろ?すぐにでも直接会って話したかったから来てみたらこれだ。なんでこんなことなるまで言わねぇんだよ」
それは、私だけの問題だったから。大好きな桐生の迷惑になりたくなかったから。
「……おい、女ぁ。……いきなり来て、なんなんだよ。今から……警察、連絡するぞ」
横になったままで苦しそうに彼が桐生を威圧した。桐生は獅子のように私の前に立って叫んだ。
「警察呼ぶなら勝手にしろ。ただな、もう金輪際あたしの楓にその面見せんじゃねぇ!次に楓になんかしてみろ!二度と外歩けねぇツラにしてやる!!」
寝巻きのまま、コートに腕を通されて私は桐生とともに小さなアパートを飛び出した。空には真っ白な満月が煌々と昇っていて、やけに冷たい風が吹いた秋の夜のことだった。
前回謝ったからね。




