第四十三話「上高地・晴天その4」
明神池を後にした俺たちは、再びバスターミナルへと向かっていく。山に登らずに谷間をぐるりと回るコースだがそれでも随分充実した時間を送れている。
樹林帯を歩く俺たちはカメラを構える数人の人たちを見た。周囲を木々に囲まれた場所ゆえに絶景という景色はないはずだ。
何を撮っているんだろう。近寄ると藪がざわめいた。
「猿だ……」
声を押し殺す。一匹や二匹などではない、おそらくは一つの群れが倒れかかった木の上でのんびりしている。こちらとの距離わずか数メートルといったところか。
藪の中を駆け回り、木に登ったりと忙しい子猿もいる。ふと一匹の子猿がすぐそばの藪から現れてこちらをじっと見ていた。
「んがわいいなぁ」
驚かさないつもりなのか、星野にしては小音で悶えている。
子猿はこちらをしばらく眺めた後で藪の中へと消えていった。
「いやぁ、こうして見るとお猿さんも可愛いもんだねぇ」
「ここのは本当に人の手が入らないからな。本来はおとなしい生き物なんだろ」
日光の猿、動物園の猿……いずれも人間が餌を与えて凶暴化してしまった猿なのだ。人の影響は計り知れない。
自らのエゴで餌を与え、当然餌を欲して近寄る猿は害獣だと追い払う。よく言われるが人とはなんて罪深い生き物なんだろう。
上高地の猿は自給自足で生きている。自然の中に住まいを持ち、こうして家族で寄り合い、テリトリーの中で他の生き物には関心を持たず自分たちの手で生活していく。当然の理。
自然を守るとはよく言うが、守らなきゃいけなくなったのは人間のせいだ。守らずとも自然は常に生きていけた。
だからといって俺たちは築き上げた文明を明日から捨てるというわけにはいかない。人口の一割にも満たない環境保護活動家が極端な環境保護運動をしたところで地球のためになんかならない。
ここには自然のありのままの姿がある。それを知ることができただけでも、少しずつ自然のために何かを始めようと思える。
「明日香もあのお猿さん見習って少しはおとなしくなったらぁ?」
「てめぇのほうがずっと凶暴だと思うけどな」
「そうだ。桐生は成長したぞ」
「どっから物言ってんだてめぇは」
背中にパンチが入った。
「む、謀反じゃあ!」
「猿逃げちゃったよ」
「あーあ」
上高地は観光地ということもあってか、俺たちくらいの若い世代もよく見る。前から来る男子がこぞってうちの女子に目を引かれているのに優越感を覚えるも、実際のところ首を繋がれた犬に過ぎないことを思い出して虚しくなる。
「いい天気だな」
「……まぁ、快晴ってわけでもねぇけど」
それよりも今日はあまり桐生と喋ってないことに気づいて急いでその時間を取り戻そうと躍起になる。
なんとかしてアピールしなければ。お前のそばには俺がいて、いつでも力になれるということを。
「快晴は望みすぎだろ」
「でも山はやっぱ晴れてた方がいい。そっちのが綺麗だ」
「欲張るねぇ」
「ガスってるのも好きって奴はいても、ガスってる方が好きって奴はいないだろ」
「言い得て妙だな」
上高地の周回を終えて河童橋までたどり着く。あいもかわらずここは賑やかなままだ、外国人観光客がここから動いてないようにさえ思える。
小腹も空いた俺たちは、少しだけ尖った商品、わさびまんを買った。生地にわさびが練り込まれた肉まんのようであるが味は如何程か。
「……わさびだ」
ほんのりと香るわさび。肉まんとの相性もいい。以前、奥多摩でわさびジェラートなるアイスを買ったが、異質に見えてなかなか手堅い味なのだ。だいたい外れない。
お土産屋さんでは思いの外お土産が充実しまくっている。河童橋からカッパモチーフのキーホルダーがいくつも存在し、北アルプスに生息する雷鳥モチーフのグッズも数多くある。
女子らしくキーホルダーを会長達と真剣に吟味する桐生の姿に違和感を覚えつつ、小さなカッパのキーホルダー手にとって彼女に見せる。
「これなんかどうよ。上高地って書いてあるしいいんじゃないかな。緑とか黄色とかピンクとか青とか、四色あるから俺たちでそれぞれ違う色買ってこうぜ」
「……悪かないかもな」
「なかなかいいチョイスだねぇ。見直したよ高山のセンス。じゃあ私ピンクにしよ。桐生は黄色がいいんじゃない?髪の色とおそろ」
「私は無難に緑にしとこ」
「じゃあ俺青いカッパか」
「高山のカッパ具合悪そうだね」
「聞こえ悪いこと言うなよ」
なんとかうまいこと収まった。会計に持っていこうとする中で星野が一人呟いた。
「……ウチのは?」
「いや、好きに選べよ」
「好きにって……これ四色しかないよ?」
「……いや、まぁそうだけど」
「この四色あったら赤色あるのが妥当じゃない?戦隊ヒーローできないよ?」
「俺に言うなよ」
あんぐりと口を開けたままキーホルダーと睨めっこした後でその中の一つを手に取った。
「高山のとおそろいにする」
他のやつが聞いたらおそらく舞い上がる言葉が誰も皆無言の最中に投げ入れられた。その言葉を聞いてなかった人はいないと思う。
妙な勘ぐりをされたくないから桐生には届かないでくれという思いも虚しく砕けて、星野の携帯に俺と同じ青いカッパがぶら下がった。
それからなんとなく、勿体無いような気がして河童橋に縋り付くようにして穂高岳を眺めていた。いつかあそこまで登りにいこう。この河童橋を見下ろしにいこう。そんな思いを固めていた。
「あそこまで登りたいか?」
会長達から離れて桐生が横に立つ。その香りに胸が高鳴ったのは言うまでもない。
「……まぁ、そうだな。あそこからどんな景色が見えるんだろうって想像したら登りたくなるな」
「それが多分山に登る理由だって拓ちゃんは言ってた。欲望の生き物だから人間は山に登るんだって。辛い思いしてまでってとこはあるから個人差もあるだろうけど、一度登っちゃえば次もまた登りたくなる」
「桐生は穂高岳登ったことあるのか?」
「独標までな。大したことないコースだ」
「じゃあいつか大したことあるコースに行こうぜ。ま、いつかな」
小さな約束。それでも俺にとっては大事な約束。いつになるか分からないけど、それまでは山を登り続けるという約束。
「そうだな。ビビって登れないとか言うんじゃねぇぞ。それまで岩場とかに慣れとけ」
そんな約束を桐生は確かに承諾した。小さくとも大きな一歩だ。
上高地バスターミナルからバスに乗ってさわんど大橋まで行く。車に乗る際、誰が星野車に乗るのかという一悶着があったが、結局帰りは星野一人での帰宅となった。
もちろん通話しっぱなしだったわけだが。おかげで眠気という言葉とはおさらばできた。
「それじゃあ、また今度。次行く山考えといてくれよ」
「お前も考えんだよ」
「分かったよ。いろいろ調べとくよ」
そろそろ日も落ちる時間にいつものコンビニで彼女達と別れる。桐生のおじさんはまだ桐生んちにいたりするんだろうか。親戚って分かっただけでも一息つけるものだが。
あの時の桐生、遠目から見ただけでも本当に可愛かったし、おじさんもすごくかっこよかった。ああいう人になろう。桐生にとって魅力的な人に思える人間になろう。それに関しては、今からでも遅くはないはずだ。
家に帰ってザックの中を整理した後で携帯が光ったので画面を見る。そのいつもと違う文面に少しだけ体が固まった。
むかい:電話してもいいかい?
……なぜに?さっき別れたばかりなんだから言うことはないはずだ。とするとこれはつまり会長が俺だけに話したいことがあるということになる。
妙な拍動をする心臓に意識を向けて「構わないけど」と返信する。
即座に電話がかかってきてそれに応じる。出てきたのは前にも聞いた質問だった。
「今日はありがとね。眠いの承知なんだけどさ、ひとつだけ聞いておきたいことがあるんだ」
「あぁ、まぁいいけどさ」
「桐生のこと好きでしょ?」
…………。どう答えるべきなのか一瞬だけ迷った。その一瞬、間髪入れずに会長が続けた。
「まぁ、どっちでもいいんだけどさ。もし好きなんだったら私から一つ言わせて」
答えるかどうかはともかくとして好きなことに変わりはない。会長が続けるその言葉に静かに耳を傾けた。
「桐生のこと、不安にさせるようなことしたら、私許さないから」
声のトーンが変わって、その威圧的な言葉が刺さった。何を言いたいのか、恥ずかしながらよく分からない。ただ受け入れる。
地盤の緩い想いは簡単に深くまで釘が刺さって、それすらどう留めていいか分からずにぐらぐらと揺れていた。
「……悪い。何言ってんのか……」
「いいんだ。それだけ言いたかったからさ。これで私もすっきりして眠れるよ。じゃあね。また今度」
半ばぶつ切りで電話が切れる。
座り込んだベッドの上、なんだかよく分からないまま、俺の周りを囲んでいた不明瞭な何かとともに取り残されていた。
この度の台風で被災中の皆様にお見舞い申し上げます。義援金や支援金募金も始まっています。できることから始めましょう。
なんで山なんか登ってんですかね。に出てきた山、10月17日現在の状況です。
高尾山・1号路の倒木、土砂崩れ。6号路の土砂崩れ。
武甲山・生川一の鳥居からの表参道、登山道崩落。
鷹ノ巣山・日原街道の崩落。数百人の住民の皆様が孤立中。
赤岳・美濃戸までの林道に架かる橋、崩落。
分かる範囲での掲載になりますが、関東甲信越地方は甚大な被害が出ております。1日も早い復旧をお祈り申し上げます。今回ばかりは山登れではなく「一緒に頑張りましょう」の言葉を。
参考ルート
さわんど大橋バス停〜大正池〜上高地バスターミナル〜穂高神社奥宮〜河童橋〜上高地バスターミナル




