第四十二話「上高地・晴天その3」
首を引かれて目指すは上高地バスターミナル。そこから河童橋、明神池を回って行くメジャーなコースを取る。
上高地バスターミナルまではここからひたすら梓川を横目に道を歩いて行くのだが、とにかく梓川が綺麗だ。もっとこう、他に言い方もあるのだろうが、今はただひたすらその言葉のみが溢れる。
「水色ってさぁ……やっぱ水の色なんだね」
梓川の透明度たるや、吉岡にそんな事を言わせるほど、対岸の水底まで見えるほど。
「いやー絶景かな絶景かな」
相変わらず正面には荒々しい穂高岳がそびえ、登った朝日が煌々と大地を照らしている。
写真にそれを収める。何遍も何遍も何遍も。それでも足りない景色だ。
写真を撮り終わったのを見計らって星野ホールドが飛びかかる。冗談でやってるわけではないらしい。前方からは老齢の夫婦が歩いてきている。
「人来たから離せって」
「一人二人くらいじゃ離さないよ。河童橋まではウチの腕の中」
いや、河童橋までまだ歩きますよね。
せせらぎというにはあまりに轟々とした音の中で道を歩く。さして景色が変わらないが、それでいい。なんなら一日中ここにいたっていい。冗談じゃなく大真面目に言っている。
それほどまでにこの悠々たる大自然は人間を魅了するのだ。
「大昔はさ、どこもこんな感じだったのかな?」
会長が流れる川の行先を眺めて言った。
「どうだろうな。全部がこんな感じってのも大げさだろうが、大して珍しくはなかったんじゃねぇか」
「ここも、遠い将来綺麗じゃなくなっちゃったりするのかな」
「ここまで山奥だとそんな事もないだろうが、やろうと思えばひと月で台無しにだってできんだろ。だからあたしたちもこの自然を守んなきゃなんねぇ」
「……明日香、いつのまにそんなこと言えるようになったのね……」
「うっせぇぞ。言っとくけどあたしは手前より自然の事考えてんだ」
「ウチだって考えてるもん。考えてないのに雑誌載るわけないじゃん」
「俺の待遇については考えてる?」
「舎弟はこれで幸せでしょ!?」
「お前そろそろジャイアンみたいになってきたな」
梓川をのんびり上っていくと人だかりが出来ていた。上高地バスターミナル、そして上高地のシンボル的存在、河童橋である。
河童橋にはお土産屋さんや宿泊施設があり、とても賑やかだ。中を少し覗くとアウトドアブランドの出張店まであった。上高地限定グッズともなると心が動く。まぁ帰りでいいや。
河童橋には大勢の客がいたがその半分くらいは外国人だった。遠路遥々日本の秘境にお越しくださっている彼らは誰も皆、河童橋で写真を撮っている。
そのほとんどが自撮り棒を手に持っているが、毎回思うのは日本人ってそんなに自撮り棒使わないなぁということである。
それはたぶん、自尊心の現れだろう。俺だったら景色の中に自分がいるより景色だけを撮ってみたい。或いは後ろから撮ってもらってあくまでも景色の一部になっていたい。
そんなことを考えていたら星野はすかさず自撮り棒を取り出して写真を撮っていた。まぁ、星野なら持っていない方がおかしいとさえ言えよう。
かくいう俺は河童橋に立って橋の下を流れる梓川と穂高岳を撮った。やはりここに自分が立つのは相応しくない。
ここから河童橋を渡らずにこの先にある明神池を目指す。
明神池までは梓川から少し離れた道を通る。樹林帯、樹林帯、樹林帯。水が異常なほど綺麗なこと以外は普段の登山となんら変わりない。
ようやく星野の腕から解放された俺はできるだけ桐生の近くを歩き、会話のタイミングを見計らっている。
ただ、思うよりも見るものが少ない。何かしら会話のきっかけになるような面白いものでもあればと思ったが、あくまで上高地は雄大な景色を一定に保ちながらおれの目に留まっている。
「……なんかさっきから砂利入るな」
登山でないことははっきりしていたために、足首までのスニーカーが砂利を巻き上げて中に入ってくるのがものすごく邪魔くさい。舗装された道ではないから用意ぐらいはしておけば良かったかもしれない。
そういえば星野は登山靴だ。用意がいいのかなんなのか、経験者たる振る舞いだろうか。
穂高神社奥宮の道標が堂々と佇む。この先が明神池だ。
「なんかもう、池って聞いただけでわくわくするね」
吉岡は鼻息とともに高揚感を惜しげなく醸す。
「そういやここは来たことなかったな」
「ウチは来たことあるよ。なんたってアルプスの姫だからね」
「ああそう」
穂高神社奥宮へは再び梓川を渡り、
「猿だ!」
「えっ、どこどこ」
探しているその瞬間に猿が一匹歩道を通り抜ける。人間の存在をなんら気にしていないようだ。
「なんか今、心の中で『お邪魔してます』って言っちゃったよ」
「それくらい謙虚なのがいいやねぇ」
穂高神社奥宮は奥宮とあって、なんだか敷地も小さい。明神池の参拝には料金が必要なようで、それを払って池の方へ進む。
棒ノ嶺で見た巨大な岩と沢、妙義に屹立する岩、赤岳で見た星空……今まで言葉にならない景色をこの目に映してきた。いくら捻ってもそれに値する言葉なんて考えられない。あの景色たち。
でもこれは、多分違うものだ。
池にかかる桟橋、その奥の鳥居。鳥居の奥にあるのは透き通って鏡のように緑を映す明神池。
俺はそこに、神様を見た。
上高地は別名神降地とも呼ばれ、古くから信仰の対象になっている。神が降りる地。まさにそれだ。そして俺はそれを見ている。
遠い、遠い昔。日本人にとって神様とは偶像ではなく、絶対的な自然そのものであった。火山の多い島国にできた景勝、人には成せぬその景色を神と崇め、畏れ、祀った。
静謐な明神池の桟橋、その祠に二礼二拍手一礼。何を願うでもなく、ただ畏れた。
感動。それとは違う。もっと複雑なものだ。感激も畏怖もその他言葉にできないような繊細な感情が渦を巻き、せめぎ合い、今は静かに波を打つこともなく、波紋の一切を持たずしてここにある。
「……綺麗……じゃ足りないなぁ」
独り言のように会長が呟いた。たぶん独り言だったのだろう。誰に投げかけたわけでもないそれは、波紋も作らずに池へと消える。
ここには一切の穢れもない。ただ清らかなのだ。この場所自体が神様だってことを嫌でも理解してしまう。
桟橋に立ち尽くす俺たちに静かな時間が流れた。
台風によって、良く知った地域での水害、土砂災害の報道があり、とても心配です。
久々の本格登山で金峰、瑞牆を一泊二日でやってきました。上高地の次はそれにしましょう。




