第四十一話「上高地・晴天その2」
「ちなみに、どこで降りるんだっけ?上高地バスターミナル?」
「登るんならそれでもいいけど、上高地周るだけなら大正池で降りた方がいいんじゃねぇか」
「じゃあそうしよう」
バスはいくつかの停留所を過ぎてマイカー規制のトンネルを抜けていく。
なかなか馴染みのないマイカー規制だが、おそらくは環境保全のためだろう。
女子二人組同士、当然、余る俺。会長達の会話とバスの観光アナウンスを聞きながら車窓を眺めていた。今走っている場所は特筆すべきものでもない景色が広がるばかりだ。
職場で上高地に行ったことがあるというパートさんから「あそこは別世界だよ」とは聞いていたのだが、今のところは普段の景色に変わりない。
「次は大正池。次は大正池。お降りのお客様は降車ボタンにてお知らせ願います」
アナウンスが終わると同時に即座に鳴るピンポン。
「次、止まります」
「ウチより先には誰も押させねぇのよ……」
小学生かな。よく分からない戦いが星野の中で繰り広げられているらしい。
大正池バス停では俺らの他に数名降りただけで、満席の客はあまり降りずに上高地バスターミナルへと向かっていく。ほとんどが北アルプスに登ろうという猛者ばかりだ。
「ひゃぁぁ、涼しい通り越して寒いねぇぇ」
一番最後に降りる俺が聞いたのは会長の信じられない感想だった。すぐさまバスを降りてその気温を実感する。
「うわ、涼しい……」
九月頭。朝も夜もまだまだ蒸し暑い日々が続く中で、まるで冷房を効かせたような気温の大正池に降り立つ。半袖だった俺は念のために用意していた上着を羽織らざるを得なかった。
大正池までは徒歩で数分。星野だけ三十秒。
朝霧を湖面に湛える大正池が姿を現わす。
「なんじゃこりゃ」
吉岡が俺と同じ感想を呟いた。言葉を失った俺は喉から絞る声さえ無い。
静かな湖畔という言葉がこれほど当てはまる湖もないだろう。いや、池なのだろうが、それはいい。
水は透明でわずかに水色を浮かべている。正面には荒々しい山肌の山、左手には切り立った岩の山脈が見える。
「今目の前にあんのが焼岳だ。んで向こうに見えてんのがちょうど西穂奥穂縦走路だな」
「にし……ほ?」
「日本の登山道がある山ん中でも一番登るのが難しいって言われてるコースだよ」
憧れを通り越して最早恐怖になりつつある西穂奥穂縦走路。遠くから見ればあの稜線をなぞるだけなのだが、実際に登るとなるとそうもいかないのだろう。
「あれがジャンダルムだな。分かりづらいけど」
桐生の指差す方向に目を向けるが、やはり分からない。さわんど大橋で貰ったパンフをあてにその形を確かめる。
「ジャンダルム?何?そういう山?」
「稜線上にある岩のことだよ。ジャンダルムはフランス語で憲兵って意味なの。その名の通り登山客に立ち塞がってんね」
通行許可証は今まで培ってきた技術と体力、そして何者にも負けぬ精神力だ。
「なんか、ラストダンジョンっぽい響きだね」
「分かる」
「あとはザイテングラートってのもあるね」
「何それ!呪文みたいでカッコいい!!なんて意味なの!?」
「ドイツ語で岩の道」
「……そう」
まだ格好いいほうじゃないか。そんな異国の響きを聞きながら、大正池でぼんやり過ごす。
こんな景色、日本にあったんだなぁ。写真で見るよりずっと綺麗だ。朝日が山陰から顔を出し始めて湖面を照らしていく。時間が流れていくだけの贅沢な時間。
「そろそろ他回ってみようよ」
会長が言わなければあと十五分近くは留まっていただろう。名残惜しさ全開で大正池を後にする。
大正池から上高地バスターミナル方面まではいくつかの分岐があった。しかしどうやら連日の雨で水量が増して、路面状況が良くないせいか分岐路にロープが張られ、結果的に一本道になった。
ところどころに熊注意に看板がある。奥多摩や秩父の鬱蒼とした山奥ならともかく、こんなやけに開けた場所に熊なんて……と一瞬頭をよぎったが、よく考えれば山の中の山の中で、今度こそ完全に人の住む場所ではないということを思い出す。
八ヶ岳の時もそうだったが、絶景が過ぎるとかえって野生動物への注意が薄れるような気がするのだ。
そこいらで溜まっている水たまりもやけに澄んでいる。魚はそこで悠々と泳ぎ、緑は余すことなく視界を埋め尽くす。
自然のあるべき姿なのだろうか。どうしても低山のワンランク上に見えてしまう。それこそ自然という言葉よりもっと上質な言葉を探してしまうくらいに。
「分岐があるね」
「確かこっち行ったら池だよ」
「じゃあそっち見て周るか。水場綺麗だし」
池に進もうとした時、星野が振り返ってちょいちょいと手招きをした。
「……俺にやってんの?」
「決まってんじゃん」
「何の用……だっ……」
腕がしなやかに鋭く首に回ってホールドされる。
「あぁ……これこれ、ずっとなんか足らないと思ってたんだよ」
「人がいるとこでもやるつもりかこれ」
「そーなったら離す」
あぁ……早く人が来てくれないものか。こんな状態になっても何の抵抗もしない俺も俺だが。
首を固められながら、水の音の方へ向かうと、大正池より小さく、それでいてずっと澄んだ池についた。浅過ぎるから池というより水溜りといった感じだ。
「いやぁ……綺麗だね」
「綺麗だねって言っても俺からはよく見えないんですがそれは」
「こまけぇこたぁいいんだよ」
いや、離せっての。
するりとホールドから解放されて池を望む。日が照り出した水面はため息が出るほど輝いている。
水底では草が水の流れで揺らいで、その中を縫うように魚も泳いでいる。
ここはいったいなんなんだ。地元の景色を思うとつくづく人の影響が自然にどれだけダメージを与えるかが分かってしまう。
そのことについて深く考えすぎるとエコテロリストになりかねないのでそっと蓋を閉じた。
「綺麗だねぇ。こんな綺麗な水たまりがあるんだね」
「君の方が綺麗だよ……えっと、名前なんだっけ」
「向井、楓です」
「そう、かえちゃん。君の方が綺麗」
なんでナンパしてんだこいつは。会長すらすごんでいる。
「舎弟。いい加減気が済んだだろ。カムバック」
ガシーン。超級合体。
「高山はそれでいいのかい?」
「今、自ら入ってったろ。そういうこった」
そう言ってポケットに手を突っ込んだまま、桐生が池を後にする。
その距離にどこかしらの葛藤を感じつつも桐生の後に首を引かれながら着いていくことにした。
首を引かれながらって割とすごい文面だなぁ。
暑さもだいぶ和らいで、山の方は涼しくなってますね。そろそろ絶好の登山コンディションです。皆さん、登りましょうよ。




