第四十話「上高地・晴天その1」
午前二時半、多少の遅れがあったが車は長野県を目指して走っている。真っ暗な道はどこまでも続く。
以前と比べてやたらと出かけるようになった俺はやはり車を買うべきだと思い立ち、軽ではあるが四輪駆動の車を買った。もちろん結構な型落ちの中古車だ。ポンとお金を出して新車を買えるほど裕福ではない。
むしろたった数十万の買い物すらローンを組んでこつこつ払わなくてはならない貧乏っぷり。たぶんこれが平均的な若者であると思う。
しかし、これで山道を走る際に怪しげなエンジン音をさせずに済む。生憎まだ山道らしい山道でもない。
「今度は日帰りで行きたい」
いつもの通話中に吉岡が言ったのが今回の山行の始まりだ。どうやら赤岳では星野のダイナミックな寝相にやられて眠れなかったようだ。「朝起きたらヘッドロックかまされてた」らしい。シュラフの存在すら怪しい証言だ。
「でも暑いの嫌」
「わかる」
ここ最近の天気に物申したい。君、残暑って知ってる?暦で言えばとうに秋に入ったはずだ。しかし夏は一向に落ち着かない。
車のドアを開けた瞬間のあの熱風はいつになったら無くなるのだろうか。
「でもそうなると……どうなる?」
午前中に登り始めて午後には下山を始める。それが出来るのはここいらでは低山ばかり。蒸し暑い山の中を登って下りるその地獄は想像に難くない。
「……ここいいんじゃない?」
スマホの向こうから小さな呟きが聞こえた。
「どこ?」
「ここって……!うわっ!すっごい!すっごいよ!高山見てよこの景色!こんなとこあるんだねぇ!!」
送られてきたURLを踏むと、最近よく聞く地名があった。
「……上高地か」
上高地は長野県松本市にある高原だ。すぐ目の前に、焼岳、穂高岳、槍ヶ岳などの百名山を有する、まさに登山の聖地である。初心者がいきなり登るには難のある山ばかりだが、そうでなくとも上高地を歩くだけでも十分に景観を楽しめるので観光客で賑わっている。写真を見てもその透明度が分かる梓川、大正池、明神池と木々の緑と水の青が作る景色は桃源郷の名が相応しい。
「上高地行くだけなら日帰りで帰れるよね」
「あぁ、たぶん行けるな」
「じゃあここにしよ!登らないけどたぶんすごくいいとこだよ!」
「日帰りか……」
車中で誰にも気づかれぬように呟いた。やっぱ日帰り無理だよこれ。ボトルホルダーにはエナジードリンクが突き刺さっている。それを飲んで踏みっぱなしのアクセルを意識する。
大丈夫かな。俺の眠気。何時間の滞在になるかは分からないが、昼過ぎに向こうを出たとして帰ってくるのは夕方ごろ。それまで一切の睡眠も許されずに運転をしなければならない。
「舎弟ー。起きとるー?あはは、もうちんたら走ってるから舎弟の車見えないよ」
スマホから聞こえるのはかしましい星野の笑い声。こんな真夜中でもやたらと元気だ。
「あんまし燃費良くないんだよ。高速走る時は制限速度くらいでいいの」
「ウチのだって燃費悪いけどさー。舎弟は遅すぎだよ。ほれ、追い上げな!」
うわぁぁ。煽り運転だぁぁ。声の主は遥か先なのだろうが。
☆優姫☆『舎弟、山行くでしょ』
赤岳から早ひと月。なかなか山に行けずじまいだった俺たちが上高地に行くことを決めたその日に星野から連絡があった。感が鋭すぎて怖いんですけど。
高山昇太『山……ではないな』
☆優姫☆『じゃあ高原だな』
高山昇太『こわいんだけど』
☆優姫☆『上高地だ』
高山昇太『こわっ』
☆優姫☆『やりぃ。当たっちまったぜ。なぜ誘わん』
高山昇太『誰もお前を呼んだ方が良いって言わないし』
☆優姫☆『舎弟は来て欲しいでしょ!?』
高山昇太『いや、断る理由はないけどさ』
☆優姫☆『うぇー。なんだその。もっとさ!アルプスの姫である星野様が来てくれないと僕死んじゃう!って感じのが欲しいんだけど!』
高山昇太『死にはしないだろ』
☆優姫☆『謀反じゃああ!!桐生派に寝返ったぞ!!討てええ!!討てええ!!』
そんなこんなで真夜中、少し遠くに引っ越していた星野と合流する。コンビニに止まったのは馬鹿でかいSUVだった。星野が降りてくるまで、まさか彼女が乗っているものだとは思わなかった。
「ご無沙汰!桐生と舎弟とかわい子ちゃん二人!」
「……あっどうも。こんばんは」
会長が引き気味に返す。誰とも壁を作らないタイプの会長がよそよそしいのは珍しい。性格的に合いそうな感じはするのだが。
「すげぇの乗ってんな」
市街地を走っていても威圧感のある風体だ。美濃戸までの狭い林道をこれで走ったというのだから驚くべきことだろう。
「でしょ!?パパに買ってもらったの!!」
「そのパパは血縁関係にあるのか?」
タバコをふかしながら桐生が言った。相変わらず鋭い物言いだ。
「血縁関係だよ!!不良少女に言われたかないね!!」
「つーかうるせぇんだよ。夜中に騒ぐな」
「ってことでぇ!舎弟のそんなちゃっちいやつに乗らんとウチの車に乗ってくってのはどうよ!」
「極めて失礼だな」
「あたしはやだ」
「桐生が嫌なら私は高山の車でいい」
「流石に気まずいから高山の車でいい」
「総スカンだな」
こいつこんなに人望無かったっけ。
「そっか……まぁいいや。少々寂しい気がするけどウチは一人で行きますよっと」
そのわざとらしい演技と背中にどこか寂しささえ見えたのだろうか。吉岡は小さく声を上げて続けた。
「私、乗るよ。この前のテントでも一緒だったし」
振り返った星野は吉岡をまるで仏様だと勘違いしたように「由美ちゃん……!!」と涙をこぼした。誰だよそいつ。
埼玉県から上高地の最寄り、松本ICにアクセスする方法は二つある。
一つは八ヶ岳と同じく、中央道を通って行く方法。もう一つは関越道から上信越道通る方法だ。どちらも到着時間に大した差異はないが、中央道で行けば十五分ほど早く、通行料金としては後者の方が安い。
星野車は高速に乗り、本線に合流した瞬間凄い勢いで駆け抜けていった。車内ではおそらく星野が奇声を上げながらアクセルを踏んでいるに違いない。
「あ、美優ちゃんから連絡きた」
「なんて?」
「『タスケテ』だって」
「救難信号が早すぎる」
関越道から藤岡JCTで上信越道へ。ここから先では妙義付近の荒々しい山肌が見えるのだが、夜中だからかなおさら見えない。今度こそ永遠に思える闇が続く。
「会長さ、正直星野のこと苦手だったりする?」
誰とでもすぐに打ち解けられる能力を持つ会長がやけに萎縮してるので尋ねてみた。
「苦手っていうか……なんだろ。分かんないや」
「まぁあいつ鬱陶しいからな。ガツガツくる奴苦手なんだろ。楓は」
「桐生は仲よさそうだよね。腐れ縁みたいな」
「腐れ縁ねぇ……少なくともあたしは嫌いだ」
「高山は好きなんでしょ?ああいうのが」
「ああいうのってなんだよ」
「おっぱいばいんばいん」
「……そうか。高山も男だもんな」
「勝手に決めつけんなよ」
多分これは、会長の攻撃だ。星野をダシにして桐生を遠ざける戦法だ。
「でも好きだったんでしょ?」
「胸がどうとかって理由ではないからな。そこははっきりさせとくぞ」
「まぁ、ああやって距離感おかまいなしの方が高山みたいな男の子は弱いかもね」
それは否定できなかった。けれど、それで星野の隣を勝ち取ったのも事実だ。誇らしいことじゃないか。
上高地までの道のりは八ヶ岳よりも遠い。長野県に入ってから随分経って、空が白み始めたが松本ICの文字も出てこない。
会長は後ろで横になり、桐生も座席を傾けて寝てしまった。小さな寝息がBGMという環境の中、タバコを吸い、窓を開け、鼻歌を口ずさみ、どうにかICを降りることができた。
信号待ちのタイミングで電話がかかってきたので出てみる。
「おっはよう諸君!!もう着いちゃったぞ!!今どこよ!!」
まさかこいつ、ずっと同じテンションだったのか。
「今IC降りたんだよ」
「おっそ!!まだ時間かかるねぇ!!」
「安全運転が座右の銘だもんでね。吉岡は生きてるか?」
「ごめんよ。今隣で放心状態になってる」
「とりあえず代われ」
「うい」
「おはよう吉岡。快適なドライブだったか?」
「ね、寝れなかった。もう、ぎゅーんって。すごい。車線変更すごい。おかしい。死んじゃう」
おぼつかない言葉、絞るようにして出た声。完全に衰弱しているのが手に取るようにわかる。
「……帰りは狭くなるけど俺んとこがいいな」
「そうしてください」
一体どういう運転してるんだあいつは。
松本ICを抜けて右折するとあとはひたすらまっすぐ進んで山の中を目指す。ここからでも一時間近くと、最寄りとはいえ随分走らされるものだ。
「桐生は上高地に行ったことあんだろ?」
「あぁ、穂高岳に登るんで行ったよ。まぁじっくり見たことはねぇけど」
寝起きのお姫様だったが機嫌は良いようだ。返答に間がない。
市街地を走って山の中へ。しばらくするとダムが見えてくる。遠目から見えたダムの水面に滾っていた期待が搔き消える。
「梓川……だっけ。上高地流れてるの」
「そうだね。めっちゃ綺麗な川」
「ダムの水めっちゃ汚くね?」
「まぁ……そうだね」
窓から見える緑色の湖。写真で見た水色の川が一気にここまで汚くなるのか、それとも言うほど綺麗ではないのか。
「流れが止まるから微生物が繁殖するんじゃねぇの?」
「なるほどねぇ……」
これなら秩父を流れている川のがいくらか綺麗というレベルだ。本当にあの写真のままの川が見られるのだろうか。まさか加工して出来たものでもあるまい。
暗く狭いトンネルをいくつか抜けると、さわんど大橋へとたどり着く。
上高地はマイカー規制されているのでここ、さわんど大橋から先にいくつか点在している駐車場に停めてバスに乗り換えなくてはならない。
おじさんに誘導されて駐車場に停める。
「お、来た来た。すっごい待ったよ」
車の前で準備体操のように腕をぶんぶん振り回しながら星野がやってくる。
「吉岡は?」
「寝てる」
星野車の窓を覗き込むと吉岡が座席を倒して寝ているのが見えた。安らかに眠っているようだ。
「バス、あと十五分くらいでくるから」
マイカー規制もあってか、バスの間隔は三十分と比較的短い。吉岡を起こし「体が……すごい速さでうごいてる」バス停で朝日を見ながら待っていた。
「ん。待って、今の」
寝ぼけ眼に何かが見えたようで吉岡がバス停から身を乗り出す。
「猿……猿だ!猿が!ほら、あそこ!」
バス停から道路を挟んで向こう側。猿が何匹か通り過ぎていく。大きな姿もあれば小さな姿もあるところを見るにおそらくは群れなのだろうか。
「上高地は猿がいるからね。近くで見れると良いね」
「……そうか?なんか日光の猿のおかげで凶暴ってイメージがあるんだが」
「ここのはそうでもないよ。餌付けとかされてないから、猿って案外おとなしい生き物なんだって思えるから」
そうなのか。だからといって近寄ることもないだろうが。歓喜の声もほどほどにバスがやってくる。
「上高地行きのバス到着です」
おじさんがメガホンで待機している客に声をかけた。その中にはこれから山に登るのか、登山の格好をしている人たちもいる。
今回は私服同然の俺たちもそれに乗り込む。
その先に八ヶ岳を凌ぐ絶景が待っているはずだ。
パジェロミニ買ったんですよ。うふふ。高山君も軽の四駆に乗り換えたということですがジムニーということにしといてください。
御朱印巡り日記、コドクトリップどうですかね。山ついでに神社を巡るのもいいぞ。




