第三十九話「赤岳・晴天その12」
本来なら覚えているわけもなかった。話したこともあまりない、クラスメイトの有象無象。私にとってクラスの男子のほとんどがそんな対象だった。近くの女子から聞こえてくる「誰々君がかっこいい」だとか「体育の授業ですごくかっこいいところ見られた」だとか、興味もなかった。
高山なんて最初自分と同じクラスだって思わなかった。同じ学校の制服だし、なんか見たことある顔くらいに思っていた。
その顔があたしの手を引いて、こっちの歩幅なんて考えもせずに走り回ったからなんとなく名前と顔を覚えていただけ。
他人の正義感などというものを信じていなかったあたしは、走り回ってヒューヒューと肺に穴の開いたような呼吸をする彼に言った。
「助けてくれてありがとうとでも言うと思ったか?」
「いやっ、今、そんなこと、どうだっていい、あれ、俺の顔、あの人たちに見られて、ないかな。どうだろ、その辺、いや、マジで」
てっきりカッコつけたセリフでも放つのかと思いきや、高山はガタガタと膝を震わせて言葉を羅列する。
「だったらてめぇだけで逃げりゃ良かったじゃねぇか」
「あっ……そっか、それもそうだ」
「ばっかじゃねぇの」
なんであたしを助けたのか、今もよく分からない。少なくとも建前でも「君のために」とか言えないくらいには衝動的な行動だったんだろうとは思う。
そのあと高山は晴れて優姫の舎弟になっていた。らしいな。とは思った。
そんな高山と再会して、交通費の面で色々と楽ができると踏んだあたしと楓はしばらく高山を振り回すことに決めた。奴がどう思ってるかは知らないが、あたしはたぶん高山がそういう星の下に生まれただけなんだと思っている。
それからあたしの山登りが大きく変わった。
交通の便がただでさえ良くない山岳地帯にはちょくちょく出かけられるようになった。妙義山なんてその典型だ。公共交通機関ではなかなかたどり着けなかったその景色に高山はあたしを連れて行ってくれた。
天狗の評定から見た妙義の山々は言葉にならないほどの景色だった。隣にいた高山はあたし以上にこの景色に見とれていた。その目に余すことなく新緑と岩壁を映して子供みたいに感動していた。
それは赤岳で見た拓ちゃんの瞳にそっくりだった。
その瞳に、振り回されていたのはあたしだったってことに気づいた。それを悪くないって思ってるあたしがいることにも。
一人が好きだ。孤独でいることを愛している。でもこうして馬鹿な高山を笑ったりするのだって案外嫌いじゃないのかもしれない。
手を引かれて住宅街を駆け回った時のように、高山はきっと今もあたしの手を引いて走り回る。
「ばっかじゃねぇの」
夢の中でくらい、もっと素直なことを言えば良いと思う。高山はいつもみたいに笑って「悪かったな馬鹿で」って言った。
「ばっかじゃねぇの」
……?
「んぁ」
アラーム代りになったのは自分自身の声だった。隣で寝てる楓はむにゃむにゃと聞き取れない寝言をこぼす。
つーか、なんちゅう夢を見たんだあたしは。ぼんやりとだけど高山と一緒にいた夢を見ていた気がする。馬鹿なのはどっちだって話だ。
どうにも眠りにつけそうにないから、シュラフから這い出て、楓を起こさないように上着を着て外へ出る。
頭上に広がる淡い光の天井。その一つ一つは寂しい光。息を飲んでそれを見上げる。静寂なテント場はまるであたし一人しかいないみたいな、そんな気分だった。
あれから何年経ったろう。あたしは何か変われたのだろうか。いや、たぶん何も変わってない。だから自分の父親とは未だ疎遠のままだ。
拓ちゃんの下から離れて、それで何かが変わると思ってた。でも相変わらずあたしはあたしだ。あたしを取り巻く環境もあまり変わっていない。
それでいいんだ。今はそうは思えない。
自然だって長い時間をかけて徐々に変わっていく。森羅万象、普遍ではありえない。
あの星だって、長い時間をかけて成長して、最後は宇宙の闇に消えていく。
人は人生を自然に例えるほど傲慢であってはいけないし、例えるほど悠長な時間を持ち合わせてだっていない。生まれるのも消えるのも一瞬だから、毅然と生きていかなくてはダメなんだ。
「……あれ、桐生起きてたんだ」
「でっ」
「……で?」
突然の来て欲しくない来訪に声が出てしまう。まるで高尾山の時のようだ。気が緩んでいるのか、今度は取り乱してしまった。
「な、なんでもねぇよ」
「……そうか」
いや、「でっ」ってなんだよ。らしくないなこいつ。
それを言ったら多分鉄拳が飛ぶので黙っておくことにした。トイレから出てきた俺は行く前にはいなかった、星空を見上げる桐生に声をかけようかどうか迷って、とりあえず声をかけてみた。案外告白のシチュとしちゃ悪くないんじゃないか。
ただそういうことを考えてる余裕があるってことはいい出す勇気もないってことだ。告白に最適のシチュにはトラウマさえ持ってるし。
「ヘッデン点けて何やってたんだ?」
「そりゃトイレ行ってたんだよ」
「……まぁ、そりゃそうだな」
「お前はどうしたんだ?星を見るんで起きたんか?」
「……途中で起きたんだよ」
なんか、聞いちゃいけないことでも聞いちゃったのだろうかってくらいには言葉に殺意がこもっている。
「まぁそんな日もあるわな」
自分でもわけわからんフォローまで入れた。
「それにしても綺麗だな。ここまでくると流石に違うわ」
静寂なテント場とはうってかわって賑やかな星空だ。都会の星空なんて星空と言えないくらい点々としてるのに、ここはまるでキラキラ輝く砂をばら撒いたように無数に広がっている。
壮大な光景だ。
振り返れば八ヶ岳は登りたくないと思えるくらい目の前に迫って畏怖を覚えざるを得ない。風は強くなって木々をざわめかせる。人間は改めて小さな生き物だって事を知る。
「前にも見たんか?この星空」
「……あぁ。すごく綺麗だった。高校辞めてすぐの話だよ」
「そっか。それから山を始めたん?」
「あぁ。ここが好きって分かった。ここにいればあたしはあたしのままでいいって思える。最近はそうでもないけど」
「……それは、なんで?」
桐生は瞳に星空を映すのをやめた。
「高山だって、たぶん変われるなら変わりたいだろ?」
「まぁ、そうだな」
見透かされたわけではないのだろうけど、あまりにも図星だった。言い訳も何もない。ただ喉が鳴る。
「あたしだって変わりたい。やらなきゃいけないこと、元に戻さなくちゃいけないこと、沢山ある。だからこのままでいいんだって思えない」
滅多に口に出さないであろう弱音にも似たその言葉を静かに耳に入れる。表情はうかがえないが、きっと桐生は今の自分の顔を見て欲しくはないのだろう。
「……まぁ、そりゃそうなんだろうけどさ、でも、お前十分変わったぜ。今更何言ってんだって思えるくらいにはさ。なんか前より良く喋るし、笑うし、柔らかくなったっつーかさ」
「……うるせぇ」
「自分で思うより、ずっと変わってるよ。多分お前には大きな目標みたいなのがあって、それを達成しなきゃ変わったって認めないんだろうけど。でも俺が変わったって思ってるんだからそのうちなんとかなるよ」
山登りが彼女をそうさせたのかは分からない。あるいは桐生は桐生の言う通り、ずっとあの日の桐生のままなのかもしれない。俺たちがあくまで非行少女という便利なレッテルを貼って桐生明日香という人間を形作っただけで、桐生の思う自分自身は桐生明日香のまま。多分そういうことだとは思う。
「……父親と、疎遠になってんだよ」
しばしの沈黙の後、桐生は胸の内をこぼすように呟いた。
「高校辞めてから喧嘩して家出て、そのまんまなんだ。喧嘩っつうほど喧嘩もしてない。ただあたしが否定されたみたいで逃げ出したんだ。いつか向き合わなきゃいけない。父親のこと本当は嫌いじゃないから」
「……大変だったんだな」
「そうでもねぇよ。だって、逃げ出したんだから。分かりあおうって道を無視してきた。今までのあたしみたいに。拒絶して、楽な道を選んだんだ」
「まぁ焦る必要はないだろ。親父さんもそれを分かってくれてるから、距離置いてることに何も言わないんだろ?」
本当はそんなこと言える立場にいない。あらゆることから逃げ出して、望んでない立場にいるのは俺も同じだ。焦る必要はない。本当は毎日焦っている。岸がそばにあるのにも関わらずに、それに手を伸ばさずにもがいている。
「……拓ちゃんからも同じようなこと言われた。焦る必要はないって。でもどうしたらいいかあたしには分かんない」
「……拓ちゃん?」
俺が聞き返すとまた桐生は「でっ」と声をあげた。目の前にいる桐生のイメージがガタガタと崩れていく。本当は「むちゃくちゃかわいいな」と言いたいところだが、それを遮るのが突如出てきた男の名前だ。
「……あの、ここにっ、連れてきてもらった、叔父さんの名前っ。小さい頃から世話んなってたからそう呼んじゃうんだよ」
「あぁ、そうなの」
ん……?
「じゃあ、あの妙義の帰りにお前ん家にいたのはその叔父さん?」
「……見てたのか?」
「いや、チラッと見えた」
「あぁ、そう。もういいや」
桐生は何かを諦めたようだった。
まぁ、そういうことですか。あーそうですよね。ここまで散々悩ませといてやっぱそういうことなんですよ。ラブコメのね。典型的な流れっすよ。知ってます。知ってたのに引っかかっちまったよ。あーもうばかばか。
何か重たい荷がすっかり落ちて、なんならあの星空まで飛んでいきそうなほど体と心が軽い。だが、天に昇りすぎると、天に突き落とされるのは神話でも実体験でも承知の上だ。まだスタートラインに立ったに過ぎない。これから待ち受ける障害を乗り越えて、いつか彼女の手を……とか甘いこと言ってるから童貞だって揶揄されるのだ。
とりあえず、力になれるのなら彼女の力になろう。そこから始めよう。本当ははっきりそう言うのがベストなんだろうけど俺は何も言えずに「じゃあ風邪引かないように早く寝ろよ」と言ってテントに潜った。
収穫がありすぎる。それでも桐生の声を思い出したら舞い上がるのも不謹慎だと思って何も考えず眠ることにした。
八ヶ岳の夜は静かに冷たく深くなっていく。
なんで山なんか登ってんですかね。第一部が終わりなんじゃないの?次回は上高地です。山には登りません。日帰り上高地です。なんで山登ってないんですかね
参考ルート
美濃戸口〜美濃戸山荘〜北沢〜赤岳鉱泉〜赤岳鉱泉行者小屋〜文三郎尾根〜赤岳山頂〜地蔵尾根〜赤岳鉱泉




