第三十八話「赤岳・晴天その11」
足の裏はすでに熱を帯びていて、ふくらはぎは常に微弱な振動をしていた。足の疲労は来るところまで来て、あたしは誘われるかのようにテントの前に置いたアウトドア用の椅子に座る。
一方で拓ちゃんはテキパキとテントを張り始めていた。
「手伝おっか?」
「いいよ。もともと一人でも建てれるようにできてる」
そういうものなのか。ならばと視界に広がる八ヶ岳連峰を眺めた。他にすることがないというのは贅沢なことだ。手も足も全力で使ったあたしには退屈さえも歓迎だ。
「ほれ、出来たぞ明日香」
「ありがと」
「容赦なく入ってくな」
とりあえず横になりたいあたしに拓ちゃんが呆れたように声をあげた。
「メシはいいのか?」
「……あとで食べる」
雑に寝袋をザックから取り出してもそもそと入っていく。眠い。頭にはその言葉だけが浮かんでいる。横になって目を閉じたあたしはそのまますぐに眠りについた。
目を開けたらテントの中がいい匂いで充満していた。すっかり静かになった周りからして、あたしを起こしたのはこの匂いだってことはすぐに分かった。
目の前のカップにはクリームスープのようなものが注がれて、隣にはこんがり焼けたパンがある。
「朝ごはんみたいな夕飯だね」
「手間かかんなくていいんだよ」
拓ちゃんはパンの最後の一欠片を口に押し込んで言った。それを見ていたら急に空になったお腹が主張を始めたのでスープに口をつける。
「あぁ、それ中に具材あるから」
「ほんとだ」
芋と人参とソーセージ。スープだと思っていたものはシチューだったようだ。
「感想は?」
「……美味い」
なんの変哲も無い料理が食べる場所を変えるだけですごく美味しいものになる。夏なのに肌寒い気温だから尚更なのかもしれない。
拓ちゃんは自分の分とあたしの分のコーヒーを淹れるとカップを持ったまま外へと出て行った。
風は急に強くなり始めて唸りを上げる。冷えた風がどこかから入ってきたような気がしてあたしは身を縮める。
拓ちゃんは何をやっているんだろう。気になるのは寂しさか風に対しての畏怖なのか。飲み終わったコーヒーを床に置いた時にテントが開いた。下げたランタンが静かに揺れる。「明日香、外に出てみろよ」
彼の声に私は頷いて、何も言わずに彼の後ろへと続いた。
「ほら、すごいだろ」
彼の指さす方向へあたしは目を向ける。眼前に広がったのは小さく淡い光の天井。
「……すご」
どうにかして言葉を思い出す。
星の海じゃ言葉が足りない。ああ、きっと言葉じゃ足りないんだ。ここは、あたしの立っている場所は、人間社会の領域じゃない。届いたとしても届かない距離。分かった気にしかなれない世界。
この星空も、風も、たぶん今も広がってる山々も、あたしは何一つとして知り得ない。
でもここに立ってる。それは間違いない。
きっと、そういうことなんだ。これが全てなんだ。誰の思いも届くことはない。分かった気にしかなれない。
あたしはどこかで誰かがあたしのことを分かってくれてるって信じ込んでいたんだ。
無数に輝く星の中に光る小さな弱い光。人間とはまさにそれだ。こうやって地上から見ればあの光と隣にある光はすごく近い距離にある。でもきっと宇宙の中ではあたしが想像するより果てない距離なんだ。
そこで孤独を叫んだって誰にも届かない。理解を得ようとしたってその全ては計れない。あくまで距離を置きながら周りは「これが平常なんだ」と納得するに留まっている。
それに対してあの星は文句など言わない。いずれ来る寿命までずっと弱い光を放ち続ける。
ネガティブな考えだとは思わなかった。これでいいんだ。自然の中で生きるのならそれが理想の生き方なんだ。
あたしはあたしでいる限り、誰にも生き方を間違いだと指摘されるいわれはない。
それを知った時、あたしの中でスッと何かが軽くなったような気がした。
横で夜空を見上げる彼は、ビー玉みたいな目を子供のように輝かせて、あたしと同じように届くわけもない距離を映していた。
「じゃあ、今までお世話になりました」
「明後日までに俺んとこ戻ってくるに一票」
「んなわけないって。部屋決めたんだし」
それから一月経ってあたしは拓ちゃんの家を出た。あたしらしいあたしを生きるためには、きっとこの部屋は暖かすぎる。あの山のように、時には荒々しい岩を越えなければならない。
もともと人よりおしゃれに疎いあたしの荷物の中で一番場所を取ったのは拓ちゃんに買ってもらった登山用品だった。新しい部屋に荷物を並べた時にはすでに次に行く山のことを考えていた。
それからというもの、バイトの合間には山に登っていた。日々の生活を断ち切って、何も持たない新鮮な感情で登るフィールドは時に険しく、時に胸のすくような絶景をくれた。
年が明けて、たぶん友達だとは思う楓とも山に登るようになった。気にくわないけど懐かしい顔の優姫とも遭遇した。遭遇はしたけど一緒に登った記憶はない。当たり前だ。あたしはあいつと仲良くしたくない。
そして山がもはや生活の一部になった頃、また懐かしい顔と出会った。
その日は朝から雨が降っていて、群馬の方にでも行こうかと思っていたあたしの心を折ってきた。
「……高尾山にするか」
今思えば高尾山は登りやすいだけで、アクセスは良くない。新宿まで行ってそこから高尾山なんて、下手したら電車に乗っている時間の方が長い。なんで行こうと思ったのだろう。たぶん朝が早くてまだ頭が起きてもいなかったからだ。
そうやって電車に揺られて向かう高尾山。夢半ばみたいな気持ちだった。眠いわけでもないし、寝てたわけでもない。でも夢の中みたいに、自分で明確な選択をせずとも場面が流れて行くような、そんな感覚だった。
高尾山駅にたどり着いたあたしはさっそく白煙に似た霧が包むその山を歩いた。
「……雨の山も悪かねぇな」
景色が見えないかわりに雰囲気は最高だ。天狗がいるって信じられていた山だけど、本当に天狗が出てきそうだ。必然木の上の方に視線が行く。
雨粒が新緑を叩く。その音を楽しむ。聞こうと思わなければ耳にも入らない自然の奏でる音楽。観客はあたし一人だ。それを愛しいとさえ思った。
こんな日でもトレイルランナーと遭遇する。
「おはようございます」
「おはようございます」
挨拶を交わしていい気持ちになれるのだから、別にあたしは人間が嫌いじゃないってことが分かった。今まで会ってきた人はきっとあたしが人間のこと嫌いだと思ってきたんだろう。
もちろん嫌いな人間は多いけど、誰彼構わず嫌いになったりはしない。
稲荷山ルートの長い階段を登り終えて、霧の包む山頂に至る。低い山だけど、登りごたえとかは気にしない。大事なのはこの時間だ。心が一人安らかになれる時間が好きなのだから、高尾山より低くたって構わない。
山頂標を撮ろうとしたら先客がいた。あたしはそれを待って写真に収める。
「……いまいちだな」
楓に送るだけの写真とはいえ、つくづくあたしは自撮りに慣れない。もう撮ってもらおう。その場を去ろうとするその背中に声をかけた。
「すいません、写真撮ってもらえますか?」
「ええ、もちろんいいですよ」
振り返ったのはあたしと同じくらいの若い男の子だった。高尾山くらいなら珍しくもないんだろうけど、こんな天気に登るんだからそれなりに好きなんだろう。
いざカメラを向けられると自然とピースになる。というか棒立ちというのも頂けないだけだ。落ち着かないからピース。ガラじゃないな。分かってるけど。
「ありがとうございました」
コーヒーでも飲んで帰ろう。温泉も入りたいけど、大して汗もかいてないし、なにより交通費がそこそこ痛かった。
「あの、」
後方から聞こえた彼の声。まさかナンパというわけでもないだろう。振り返ったあたしはその瞬間ようやく嫌な電気が走った。
「桐生さん……だよね?」
どこかで見た顔だと思った。それでも他人に対して興味がないから空似だろうくらいに思ってたのに。よりによって、なんでこいつにロクでもない醜態を晒したのだろう。
「高山……?」
小中、あと確か高校も一緒だったその顔は時が止まったみたいに硬直していた。
あたしは思う。楓のように誘ったわけでもないのにこの場にいる同級生に。
なんでこいつなんかが山登ってんだ。




