第三十五話「赤岳・晴天その8」
「結構下るんだねぇ……」
目下の赤岳展望荘を見下ろして会長が言う。とりあえずは尾根に下るまで直線距離で言えば五百メートルほど先にあるあの赤岳展望荘が目印だ。
もちろん五百メートル歩けばいいわけではない。あくまでも山だ。その疲労は平地の二倍や三倍に及ぶ。……待って、それだけで事足りるレベルかこれ。
赤茶けた土に伸びる長い鎖。勾配の急な坂がかなり続く道。文三郎尾根はあくまでも二足歩行で、時折岩を掴むような形で登っていけばよかったのだがこの長い坂は終始四つん這いで下らなければならないような坂だ。少なくとも道じゃない。
「まぁ私は鎖使わんでもいけそうだから美優ちゃんが使いなよ」
「おっ、おっけぇ」
道は広く、普通の車道二車線くらいはある。登る方も降りる方も二列ぐらいなら全然並べそうだ。
後ろ向きになってとりあえず岩を掴みながら下ってみる。凹凸はそこら中にあって、自分の位置も非常に確保しやすい。登るのならば簡単だったろうし、なにより楽しそうだ。登るのであれば。
現に登っていく人はスイスイと登っていく。これはルート選択ミスだろう。ザリザリと音を立てながら下っていく。衣服に砂がつくが気にしていられるほどの道でもない。ふいに見上げて写真を撮ると改めてこの坂の勾配を思い知る。
壁じゃないですか。重力を使える分、実際のところ壁ではなく坂なのだが壁じゃないですかこれ。
足元にはまだまだそんな勾配が続いている。そんな俺に降り立つ一つの願望はまさかの「登りたい」だった。もう楽がしたいという気持ちは放り捨て、ただただこの登るだけなら楽しそうな坂を下っていく。
下り終えた先、赤岳展望荘から眺めたあの勾配は遠目から見るとなんでもなかったりした。見てるだけなら余裕気取れるのは森羅万象老若男女古今東西万国共通ってそれ一番言われてるから。
ここから先はまた稜線から下っていく尾根道だ。地蔵尾根の名の通りに尾根から登ってくる登山者を見守るようにお地蔵さんが堂々と置かれている。そう言えば文三郎尾根で文三郎さんは見なかったような。
そこには気の遠くなるような階段こそないが、気の遠くなるような九十九折が待ち構えていた。
気づけば誰もが無言で下っていく。
下山。登ったならどうしても下らなくてはいけない。頂上を目指し、次々と変化していく景色の良さにワクワクも抑えきれない登りとは打って変わって、ピークから景色はどうしてもグレードダウンし、疲労もここ一番となって、登りよりも足の負担が大きくなる下山が好きですと言う人がいるのなら会ってみたい。
思考は「楽なところまで下りたい」に集約され、景色がどうこう言ってもいられなくなる。
もくもくと湧き立っていた雲はいつのまにかこちらに来訪して、俺たちの気持ちを代弁するように山頂はガスり始める。
「これ、日帰りだったら目も当てられなかったね」
「ああ」
赤岳鉱泉から美濃戸口まで何の気なしに歩いていたが今歩くとなると情緒的な距離は何倍になる事だろうか。考えたくもない。
ガレ場とは言わないまでも大きい石が登山靴を履いた足でさえもダメージになるようになって、ようやく赤い屋根が見えてきた。
行者小屋では朝と変わらないくらいの登山者が昼ごはんを摂っていた。俺たちもベンチに座って昼ごはんにする。ここでの昼ごはんは行者小屋のラーメンを頼むことにした。
暑くもなく寒くもなく涼しくもない気温の中、ラーメンがやってくる。メニューには行者小屋ラーメンとしか書かれていなかったが、そんな無個性なメニュー名とは裏腹にラーメンはそこそこ個性的だ。
見た目はあっさり系のノーマルな醤油ラーメン。いわゆる「こういうのでいいんだよ」系ラーメンだ。
しかし具材が光っている。水餃子に食べるラー油が浮かんでいるのだ。
「……ん。いいね。こういうのでいいのよ。尖ってない味」
「でも水餃子って珍しいよね」
とりあえず、スープを頂く。……なるほど、こういうのでいいんだよ。誰が言い出したのかは知らないが「こういうのでいいんだよ系ラーメン」と言う表現は実に言い得て妙だ。一見どんな味がするかわからないような気もするが、大抵の日本人は思わず「こういうのでいいんだよ」と口走ってしまうあの味を誰もが知っている。
魚介系の出汁をふんだんに使ってるわけでも、背脂こってりがウリでもなく、かといって極端にあっさりさせて店のこだわりを出すわけでもない。
子供の頃よく食べた、ファミリー向けのラーメン店の味、とでも言うのだろうか。
とにかく嫌いと言う人はまずいないであろうあの味だ。
そこに浮かぶ行者小屋特製の食べるラー油をできるだけ拡散させて麺に絡ませて頂く。
「ん、意外とガッツリしてる」
辛そうで辛くない少し辛いみたいな感じではなく、辛さはもはや風味のレベルまで落とされて残ったニンニクのパンチがちょうど良い。
肉厚の水餃子との相性がまたグッとくる。あっさり目のスープなのでガッツリしたニンニクが反発しそうなものだが、そこで小さじ一杯程度の量が生きてくる。あくまで尖りつつも全体のバランスを崩さない味わいだ。
あっという間に容器は空になる。桐生と吉岡は未だに麺を啜っているが会長は俺より早く食べ終わってしまった。なんとなく、らしいなとも思った。
行者小屋には喫煙室が併設されていて、木造の小さなスペースで煙を燻らせた。気にせずに座ったのかどうかは分からないが桐生は俺の隣にいる。普通、会長の隣じゃないかそこは。
明確に言えることはこの距離を気にしているのは俺だけということだ。
「桐生、私の隣に座らないんだ」
「テキトーに座っただけだ。今更動くのめんどくせぇ」
「……ふーん」
訂正。会長からの圧がすごい。宙に舞う煙を押しのけるくらいの圧がすごい。こんな狭い空間でバトル漫画並みの殺気を放出しないでほしい。
あまり吉岡を待たせても申し訳ないし、なによりあの苦しい空間から抜け出したかった。タバコを吸う意味すらなくなって、肺も若干気持ち悪くなる。
深呼吸する俺を横目に吉岡は「タバコやめたら?」と言った。
「いつかやめるさ。まだ吸えるから吸ってる」
「……大体の女の子はタバコ吸わない人の方が好きだよ」
「そんなもんかねぇ」
俺の好きな彼女は喫煙者なのだ。そこは気にするところではない。
行者小屋ではそろそろテント受付する人も出始めたので俺たちも赤岳鉱泉まで戻ってテントを張ることにする。
道中、先送りにしておいた問題が浮き彫りになって議論が白熱した。俺はその場から立ち去りたくなった。
『さぁて、誰が生贄になるかね』
『人聞きの悪いこと言うなよ』
そう、俺のテントに誰が寝に来るのかという最悪の議題である。くじ引きにしてくれ。頼む。
「……桐生さんなら高山も手を出せないんじゃない?」
「なんで手を出すの前提で話が進むんだよ。失礼だろお前」
「駄目。わたし。桐生と寝る。譲らない」
主張が強すぎてなぜかカタコトになる会長はすでに桐生の腕を掴んで歩き出している。
「じゃあ美優が高山と?大丈夫か?」
「……自信はない」
「自信もクソもあるか。だいたい、山小屋泊だったら他人と寝なくちゃいけないからそこは気にするようなことでもないだろ?顔見知りなだけマシなんだから、これ以上グダグダ言うのやめてくれよ。心が折れるぞ」
「……高山怒った?」
半ばまくし立てるように心境を述べたせいか、会長が申し訳なさ十パーセントくらいで尋ねてくる。
「どちらかというともう、心で泣いてる」
結局明確な答えは出ないままに赤岳鉱泉へと辿り着いてしまった。あとはなすがまま。運命に身を委ねよう。
新連載ってわけでもないんですけど、山に登らない、いわば旅行記みたいなのをはじめました。山に登らなかったらこっち書きます。主人公は筆者本人です。こっちもよろしく。
「コドクトリップ」
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