第三十四話「赤岳・晴天その7」
足が棒になりそうな中、急勾配を登ったあたしはどうやら山頂へとたどり着いたらしい。道の狭い中に人だかりが出来て、山頂標をカメラに収めていた。あまりに突然だった山頂に実感というものがわかないまま、標高二千八百九十九メートルで風を受けた。
穏やかだった風も遮るものがない空を切るように吹き付けている。
見渡した展望に、確かに心の躍動を感じた。でもそれはどこか落ち着いていて、高揚しているというよりは八ヶ岳の圧倒的なスケールに畏怖のようなものが混じっていた。
この景色を、この躍動を言葉にしていいものなのか迷った。
「いやぁー……来たなぁ。見えるか明日香」
「うん、すごく綺麗」
「だろ?なーんか、全部どうでもよくなっちまうよな」
「うん」
現にどうでもよくなっていた。
人が生きる社会というものは、あまりにも息苦しいような、そんな空間だ。意識しなくても満員電車の中にずっといるような感覚。
他人の思惟がせめぎ合って渦を巻いて、その中で自分の思惟を確立させるのに誰もが精一杯だろう。
潰されて、追い込まれて、追い出されて、軽蔑されて、その果てで死を考えるような人もいる。或いは実際に死んでしまう人もいる。それらすべてここからずっと遠くの狭くて息苦しい場所で行われることだ。
あたしは今ここにいる。
あたしだけの思惟を誰に邪魔されるでもなく存分に確立できる場所にいる。
晴れ渡る無風の空を飛びまわる鳥と同じだ。ここには自由がある。この八ヶ岳に流れた悠久の時を一片でも感じられるようなゆったりとした時間がある。
誰かのために生きる必要はない。そもそも生きるのに理由なんて必要ない。どこまでいっても人間は人間だってこと、今、ここで思い知る。
「昔、兄貴とここに来たことがあるんだ」
景色を眺めたまま、拓ちゃんは言った。
「……そうなんだ」
「そん時は俺、結構やんちゃでさ。兄貴が『山登るぞ』って言っても正気かコイツくらいに思ってた」
「お父さんが最初に登るぞって言ったんだ。なんか逆って感じがする」
「まぁな。もちろん『んなとこ行くかよ』って言ったんだけどさ『ワル気取ってるくせに山登る体力もねぇのか』って言われたからムキになって付いてったんだよ。今考えるとどっちも馬鹿みたいだよな。まぁ、馬鹿だったんだけど」
水を飲んで、拓ちゃんは思い出したように笑った。
「その頃にはロクに会話もなかったんだけどさ。山頂に来るまでマジで何も話さなかったんだぜ?それこそなんで山なんか登ってんだって感じだよ。でもここに来て、兄貴がここまで連れてきた意味がなんとなく分かった。たぶん、自分だけがこの景色を知ってるの、勿体無いって思ったんだろうな」
「だからあたしもここに連れてきてくれたんだ」
「あぁ。本当のこと言うと先週兄貴がここに連れて行ってやってくれないかって電話来てさ。俺は自分の忙しさに明け暮れてばっかで明日香と一緒にどこかへ行くようなことあんまりなかったからって。……確かに兄貴は不器用だし、クソ真面目だけどさ、本当は誰よりもお前のこと想ってると思うぜ」
「……そうなんだ。だけど、」
「落ち着いたらでいい。いつかまた、話せる時が来たらその時はゆっくり話がしたいって。何があったか俺も詳しいことまでは知らねぇけどさ。兄貴のことだ。本当にお前が会いたいと思った時でいいんじゃねぇか。その日が来るまでいつまでも、お前のこと待ってるんだろうよ」
少なくとも、裏切られた気持ちは燻ったままだ。山に登ったからそれで全部綺麗になるわけじゃない。でも拓ちゃんも父もそのままでいいとは言ってくれた。もう少し時間はかかる。気持ち次第では永遠にこのままかもしれない。ここまで手を引いてくれたのは父じゃなくて拓ちゃんなのだから。
「さ、さっさと降りて飯にしようぜ。山頂はやっぱ人多すぎだからな」
山頂にたどり着いた時、会長も吉岡も声を上げて到達の喜びを噛み締めていた。
案の定人は埋まるほどいて、いつものようにゆっくり停滞できないような騒がしいくらいのその場所で、彼女は一人、彼女だけの静寂を纏って頂上からの景色を眺めていた。
思わず綺麗だと口走りそうになるくらい、短い髪を揺らした彼女は凛として立ち尽くしていた。
「いやぁ……圧巻だね。もう何にも言うことないよこれ」
本当に言葉にならない。湧き上がる感情でさえ形容しがたい。
「私、ここまで登ってきたんだなぁ」
標高二千八百九十九メートル。まだ二回しか登山を経験していない吉岡にしたら文面だけでもえげつない標高だ。気にすれば長ったらしい登山道を、目のくらむような岩肌を登った彼女もまた、感慨に耽る。
「また、ここに来れてよかった。……連れてきてくれてありがとな」
桐生は言った。かつての彼女からは想像もできなかった言葉を、想像もしなかったような声で。
気恥ずかしくなって「まぁ、俺も来たかったし」と言うに留める。
本当は気の利いたような返しとかスカしたような返しがしたいが、そんな俺がいるはずもない。
「竹田ちんダメだよそんなこと言っちゃ!まだ五十代でしょ!?やれる事やんなきゃ!ウチも応援してるからさ!」
ふと、どこかで聞いたようなけたたましい声が脇を通り過ぎていった。振り返ると、若い女性に続いていい歳をしたおじさんたちがぞろぞろと後をついていった。おじさん達の手には絶対に高価と言い切れるカメラが握られている。いったいどういう集団なんだ。
振り返ったのは俺と桐生だけのようで、彼女は俺の瞳を覗き込むように顔を合わせた。やめろ。目を合わせないでくれ。心拍数が病気じみたことになる。
「……なんか、いやな予感がする」
意味深な事を呟く桐生。かくいう俺もどこか心臓をいやらしい手つきで撫でられるようでいて、どこか懐かしくもある感覚をあの声に覚えていた。
遠方にあった雲がもくもくと湧き立ってこちら側へと流れてくるのが確認できる。天気の変わりようを標高の高いところで見るとこうも分かりやすいものか。
稜線まで雲が伸びてくる前に下山を始める。
忘れていたのだが文三郎尾根と地蔵尾根には分かりやすい違いがある。文三郎尾根は傾斜が緩く、その分地蔵尾根よりも長く歩く。地蔵尾根はその逆だ。
傾斜が緩く……?嫌な予感しかしない。少なくとも傾斜がなだらかだと思った記憶がない。そんな文三郎尾根より傾斜のきつい地蔵尾根で下るということがどういうことか、会長も吉岡も分かっているのかいないのか、今のところは山頂からの眺めを堪能しているようだ。
間も無くしてルート選択ミスをしたと思わざるを得ないような急勾配が現れた。
パート7までいった。長い。
実は当初の段階では桐生さんが最初に登った山、赤岳をなん山の最終回にしようともくろんでたんですが、思ったより行くのが早かったんです。なのでちょっと核心部に迫るようなサイドストーリーが長くなる。赤岳以降天気芳しくないわ、車物故割れるわで山に行けてないのでこれくらい話数を稼げるのがかえって良かったですね。最終話の山どうしよう。富士山?槍ヶ岳?剣岳?穂高岳?谷川岳?それとも表妙義縦走?いずれにしろ行かなくちゃいけないのがこの小説の辛いとこだ




