第三十一話「赤岳・晴天その4」
美濃戸口からさらに奥、やまのこ村、赤岳山荘がある美濃戸まではここからコースタイム一時間ほど。ガタガタのオフロードを歩いて向かう。時折車が後ろから通り過ぎて行く。どれも四輪駆動のオフロード車だ。そろそろ車も買い替え時だと思うと、ああいう車も欲しくなってくる。
それにしても、
「なんか……すごいね……今までの山と全然違うよ」
「スタートの標高が違うからな。美優が登った山だと標高からして高尾山の三倍以上、棒ノ嶺の二倍くらいだ」
周囲の静寂に合わせたような静かな会話。まだ登山口の前とはいえ、白樺の乱立するこの景色は今までの山と比べると別世界だ。控えめに咲く花々も見たことのない花弁を垂らす。
徐々に明けていく八ヶ岳の朝の空気は真夏とは思えないほど涼しく、これまでの蒸し暑く晴れ間もなかった梅雨空を吹き飛ばす感覚を覚えた。
長い林道歩きも高山の一線を引いた景色に全く長さを感じることなく、これから登山に向かう登山客で溢れる美濃戸まで辿り着く。
朝日が登り始めた八ヶ岳には後光が差して、これからの登山のモチベーションに拍車をかけた。
そこから歩くと八ヶ岳の大きな看板が見えて、ようやく登山開始だ。
「ん、いきなり分岐か。もう少し進んだとこにあると思ったんだけどねぇ」
登山口は北沢と南沢に分かれる。北沢は赤岳鉱泉を経由して行者小屋まで、南沢は行者小屋直通の道になる。赤岳の尾根に取り付くのは行者小屋からなのでこの場合どちらを取ろうときちんと赤岳には登れるのだ。
「まぁ、当初の計画どおりにしときましょ」
事前に決めた通り、北沢へと向かう。計画書にも書いてしまったのだ。気分で変えてここで遭難してしまったら計画書の意味がない。
「どっち行くの?」
いきなり現れた看板にあたしは拓ちゃんに尋ねた。
「ど ち ら に し よ う か な……あっ」
指で分岐路を指していた拓ちゃんだけど「な」の時点で問題が発生したのか指を追加して北沢を指した。
「ズルくない?」
「ズルくねぇズルくねぇ。だいたい、どちらにしようかなで道決めてたらすぐ遭難するからな。山行は計画どおりに。覚えとけよ」
「じゃあ最初からやらなきゃいいのに」
それに、覚えとけよって言われたところであたしがここまで来るのなんて二度とないだろう。せいぜい近くの丘陵が限界行動範囲だ。拓ちゃんに色々買ってもらってなんだけど、あたしが山を登るのはおそらくこれきりになる。
それでもすぐ傍を流れる濁りのない清流や苔むした岩肌、数こそ少ないものの鮮やかな色彩を持って咲く花は普段の生活では到底見られるものでなく、普段なら到底目覚めることのない時間にあたしは高揚していた。
朝日が昇り始める。山岳地帯に降り立つ黄金の光。川も樹木も岩肌も全てが黄金を纏って煌めくその様子に思わず声をあげた。
「……綺麗だね。全部」
「だろ?同じ日本にいるとは思えないよな」
振り返って煌々とした登山道を見据える。
「遠いなぁ」
ありとあらゆるものすべてが遠く感じた。侮蔑の眼差しで見下ろした教師も、二度と行くことはない高校も、あたしを裏切った父親も、自宅も、すべてが遠い距離にある。
分かり合えない人達、それでもどうにかして分かろうとしたあたし。それらは物理的な距離でなく、もっと情緒的な距離に思える。いずれにしたってそれすらも遠い。
あたし自身を切り離しつつも、あたし自身はあたし自身とこの先へ続く道へと歩いて行く。
少し後ろを歩いていた桐生の足音が聞こえなくなったので、振り返ると彼女は今まで歩いてきた道をぼんやりと見据えているようだった。
「落し物か?」
「いや、なんでもねぇ」
そうか。特に踏み入る気は無い。誰にだってそういうことは往々にしてあるものだ。俺も自覚のないまま振り向いてはなんてことない景色に郷愁を知らず知らずのうちに覚えていることがあるような気がする。
胸に残った一抹の寂しさだけが郷愁の残り香のようなものだ。
八ヶ岳北沢。朝日の彩る黄金色に清々しいまでの涼風が吹いてあげては下ろす足に拍車をかけた。
さすがは高山、標高がここまで違うと見える景色も全く違う。針葉樹の間隔は広く、樹林帯といえど開放感に溢れた道だ。そこらじゅうで生い茂る苔もふかふかと密集して岩肌や巨岩を彩る。
「うわぁぁ!」
「うわぁぁぁ……」
「うっわぁぁぁ」
誰も皆、感嘆を垂れるのみだ。眼に映る全てが絶景という贅沢。登山道ではあるのだがまだ尾根に取り付いてもいない。この時点でこれだ。高級コース料理を食べるのに似ている。
「見て!川真っ赤!」
吉岡が不穏な事を言うのでそれを目で追うと確かに川の底が茶褐色に染まっていた。
「ここは硫黄の成分が混じってるから川底が赤いんだよ。なんとなくだけど温泉の匂いすんだろ」
「ほんとだ。どことなく硫黄の香りすんねぇ」
地図を見ると確かに硫黄の名を冠する山が正面にそびえているようだ。土砂崩れによるものなのか、露わになった山肌も茶褐色で、緑や黄緑とのコントラストが素晴らしい。
写真を撮る手が止まらない。どこを写そうと見事な景色を撮ることに変わりはない。ただ、液晶に写った山容はどこか少し物足りなく思えてしまう。眼前に映るこの景色を完璧に収められる時代はおそらく一生やってこないか遠い遠い未来の話になるだろう。
橋の上を渡り沢の真上を歩いて行く。文句なしの快晴に沢のしぶきが躍る。
隣を歩く桐生に目をやると興奮を抑えきれない会長や吉岡の姿に何かを重ねているようだった。
「初めての山だったんだろ?ここ」
「……あぁ。伯父に連れてきてもらった。今考えると初めてにしちゃキツい山だけどな」
ここでまた、尾根に取り付いてもいないことを思い出す。どれくらいの試練が今も見える赤岳に待ち受けているのだろうか。桐生がキツいと言うのだから覚悟をしておく必要はありそうだ。
「でも、いきなりこんなすげぇ景色見れたんだからいいじゃん。やっぱ今までの山とは何もかもが違うよ。完全に別世界だ」
まるでアニメやゲームの中の世界という褒め言葉がある。ここは、その言葉では物足りなさすぎる。おそらく創作においてもこの景色は表現し難いだろう。
改めて人の限界を感じる。作り上げるのは不可能で、伝えるには溢れているはずの言葉の数が足りない。
「いい趣味を持ったな俺たち」
まだ陽も登り始めたばかりの午前七時半、最初のチェックポイントでもある赤岳鉱泉へとたどり着いた。
「気になったんですが、過去の桐生さんが登っている時期、文章からすると五月の第一週くらいですよね?五月の赤岳はまだまだ残雪期で思いっきり雪山だと思うのですが、初めての登山でいきなり雪の赤岳ってのは無理がありませんか?」という指摘を頂くことは無かったんですが、ちょっと無理があることに気づいたので修正します。あと、張っといたのに回収し忘れた伏線も追記します。ぐだぐだかよ




