第三十話「赤岳・晴天その3」
梅雨がとうとう明けてまばゆいまでの夏の太陽がきらめき、いつまでも鳴かなかったセミもここぞとばかりに鳴き喚き、気温はというとすでに熱中症により多くの死者が出るほど猛威を振るった。
クーラーなんて贅沢という時代は終わったので、水分をきちんと摂取して冷房をガンガンに効かせましょう。
買ってきたアイスを囲みながらいつメン(と言っても登山に限ってのことだが)で会長の家に転がり込んで初めてまともに山行計画を立てる。
会長や桐生に任せっきりは良くないとは思っていたので丁度いいだろう。
狭いアパートの一室はすぐに冷房の空気で満たされて快適だ。会長が住んでる家とは思えないぐらいには 質素なのだが無職なのだからしょうがない。少なくとも独り立ちできずにいる俺がどうこう言えることはない。
「……まだ桐生来ないな」
「あぁ、なんか遅れてくるってさ」
妙義に行って以来、やはり彼女の姿を見ることはなかった。あの時に少しでも距離が近づいたような気がしたが、よく考えればアクションなど全く起こしていないので縮まるはずもない。あの一件から余計に遠くなったような気もする。
インターホンの音が部屋に飛び込んで心臓が強く拍動する。
「高山、何ビビってんの?」
吉岡がこちらを見ることもなく尋ねる。動いたのは心臓だけではなかったようだ。
「いや、急に音がなるから……」
「わけわからんこと言ってんなや」
「うす」
差し入れのお菓子の入ったレジ袋を下げて桐生が入ってくる。いや、ちょっとまって。
「……桐生さん……ばっさりいったねぇ……」
「おー桐生遅かったね……ってぇ!!!髪!!えぇ!?どういう!?えぇ!?」
「……うるっせえよ」
恥じらいなのか頭を掻く桐生の長い髪は見事に短くなっている。腰まで伸びていた金髪は、今や首にかかるのみに留まって揺れる。
「だって!短くしたことのなかったのに……」
「会長、女の子が髪を短く切ったのは大抵アレだよ。失恋だよ」
「全部が全部そんなわけねぇだろ。勝手にあたしをふられた女にするんじゃねぇ」
騒ぎ立てる二人に対し、俺はもう色んな感情がせめぎ合って捌け口を探していた。探したってどうしようもないから気分さえ悪くなってくる。ぐええ。
「別に……邪魔だったし、似合わねぇか?」
「そんなことないよ!なんかめっちゃキュートになった!お友達できそうな感じする!」
吉岡が上げて落とす。こいつもう桐生のことそんな怖く思ってないな。
「うん。私も好きだよ。流石にびっくりしたけど」
「そうか……似合わないって言われたら高山のことシメてた」
余計なことを言うんじゃないよ。そりゃ嬉しいさ。好きな子に「髪切ったら似合うよ」って言って後日本当に切ってくれたらこれほど嬉しいことはないよ。舞い上がってるよ。正直。
でも言うんじゃないよ。
「へぇ。高山に言われたから切ったんだぁ……」
ほれ。なんか敵愾心煽っちまったじゃないか。会長の桐生に対する気持ちがマジなのかどうかは知らんが軽く修羅場じゃねぇか。
「高山が言ったから切ったんだ。ふーん」
ドスのような低音、もう一声隣から突き刺さる。吉岡は察しないでくれ。ノリというにはあまりにも鈍重なノリだ。乗れない。沈む。
「邪魔だったのが先だよ。こいつにどうこう言われたからって訳じゃねぇ。変な方向に話持ってくな」
「……まぁいいや。今まで短くしたの見たことなかったけどさ。お茶持ってくるよ。麦茶冷えてるし」
会長が台所へと消えたその数瞬、冷気が異常に寒くなって肌を撫で回していた。
「……俺も似合うと思う」
「手前はなにも言うな」
……はい。
「テント泊します」
ドンというオノマトペが会長の背後に現れそうな勢いだ。麦茶を運びながらいきなり本題に入ってくる。
「はい」
吉岡は気圧されて控えめな声で返事をした。
「テント泊か……。この時期じゃやっぱ高いとこになんだろ?」
「まぁねぇ。この時期に雲取とか行っても暑い暑いで終わりそうだしさ」
「美優もいるからやっぱ初心者向けの山がいいんじゃねぇか。木曽駒とか、乗鞍とかちょっと低いけど金峰山とか……」
桐生が吉岡を名前で呼んだ瞬間、吉岡の肩が跳ね上がった。今はというと小さく肩を震わせて何かを堪えている。気持ちは分かる。
「アルプスも考えたんだけどさぁ、たぶんめちゃ混みよ。できればロープウェイ乗りますとかマイカー規制あってバスに乗らなきゃですとか、行動時間以外で遅れが出るようなことになりたくない。せっかくこうやって計画立てるんだから尚更よ」
「じゃあどうすんだ?」
「赤岳です」
会長の中でもう決定事項だったのだろう。今までの時間はいわゆる茶番だ。
「赤岳……ですか」
おそらくは何も前情報がない吉岡が唾を飲み込んだ。
「……美優にゃキツいんじゃねぇか?」
「知らん。けど日帰りってわけじゃないからゆったりゆっくりで行けるわけじゃない。すっごい難所はないわけだしいいと思うんだけど。桐生行ったことあんの?」
「……あぁ」桐生はまるで懐かしさを溜め込みながら言った「あたしが初めて登った山だ」
事前準備したザックを四駆の後部座席に置いたあたしの頭はすでに朦朧としていて、助手席で寝る準備が出来ていた。
草木も眠る深夜二時。拓ちゃんは長野県は茅野市にある八ヶ岳連峰を目指して車を走らせた。
どんな山が待っているのかは分からない。けど想像をめぐらすことはできる。長野にあるからきっとそれなりに高くて、少しだけ拓けた山頂から長野の街並みが見えるのだろう。
そんなあたしに拓ちゃんは言った「そうだな。お前の想像の十倍はすげぇぞ」
想像が及ばなくなった。
大抵山なんてどこに行こうとどこもかしこも同じだ。木がいっぱいあって高くて、虫がいて運が良ければ 野生の動物に会えて……もとより秩父にしか行ったことのないあたしが普通の山の十倍すごい景色を想像できるはずもない。
揺れ始めた車に目を瞑って、想像に及ばない現実が現れるのを待った。
ふと目を覚ますとカーナビには午前四時の表示が出ていて真っ暗闇も薄暗い闇へと少しずつ変化を遂げていた。
「おや、眠り姫が起きましたか」
あたしの膝には大好きなレモンティーのペットボトルが置かれていて軽く礼を告げてからそれを飲んだ。
「今どの辺?」
「もう長野だぜ。ぐっすり眠ってくれちゃってよ。ほら、あそこに見えんのが八ヶ岳だ」
朝焼けをバックに大きな山が並んでいる。標高は三千メートル近くで単純に言えば馴染みのある秩父の山の二倍か三倍ある。けどその実感はない。富士山くらい高ければもっとすんなり入っていったのだろう。
「ここの標高がそもそも高いからまぁ、大した山には見えねぇかもな」
午前五時、車は八ヶ岳麓の美濃戸口までやってくる。駐車場場が傍にあるのにも関わらずに拓ちゃんはそのまま狭い砂利道へと進んだ。
「あれ、拓ちゃん駐車場あるけど入らないの?」
「ああ。この車ならまだ先まで行ける」
駐車場のある八ヶ岳山荘から狭い脇道に入ると車が大きく揺れ始めた。座席を襲う下からの衝撃。オフロードというやつだろうか。舗装がないどころか普通の車なら悲鳴をあげかねないほどの凹凸が地面の大半を占めている。
「いいねぇ。さすが四駆だ。車高上げといてよかったぜ」
何やら上機嫌の拓ちゃんを横目にあたしは次々に襲う衝撃の心構えに必死だった。たぶんこの道はゆっくりとしたスピードで進むべきなのだろう。
林道を登りきった赤岳山荘前駐車場に停めて料金を払った後、未だ開けた道を歩くと八ヶ岳の大きな看板が見えた。
「さぁ、登っていくぞ」
拓ちゃんはあたしに山歩き用の杖みたいなのを一本持たせて意気揚々と歩き始めた。
八月第一週の土曜日。懸念されていた荒れ模様も前日には打ち消され予報では最高の天気になりそうだった。山登りはこうでなくちゃならん。
時刻は深夜三時。車は圏央道から中央道へと抜けて行く。昼間にしっかりと睡眠をとったと豪語していた会長と吉岡は八王子に入ったあたりでけたまましかった声が聞こえなくなって、今は微かに寝息を立てている。
運転もする。眠気も我慢する。同時にやらなくちゃあいけないってのが運転手のつらいとこだ。
桐生はというと隣で時折お茶を飲んだり一本吸いながら何だかんだ起きている。
「眠くないのか?」
「いや、別に。それに前八ヶ岳行った時は眠っちまってたからな。一度景色を見ときたい」
「景色ったってなぁ」
均一に並べられた電灯以外真っ暗闇だ。景色もクソもない。
それでも山梨県に入った時に見えた真っ黒な富士山や、東京の明かりと見紛うほどの甲府市の明かりはなかなかの見ものだ。
思えばこうやって深夜の高速を走るというのは一つの憧れだった。非日常を走り、非日常へと向かって行く。
桐生が二時に出発するといいと言った時、俺はネガティヴな気持ちよりずっとワクワクしていた。実際走ってみると何のことはないのだが、信号もなく、渋滞の起こりえない道路を長い時間かけてひたすら走って行くのは幾分か気持ちいいものがある。
車が長野に入る頃には辺りは薄暗くなり始めてまだ多くの人が目覚めない朝へと変貌を遂げていく。
「あれだ。あれが八ヶ岳」
指を指す桐生はなんだか嬉しそうだ。声色が変わらないがだんだん分かってきた。
「でっけぇな」
さすがの三千メートル近い標高だ。また周りにもそれと同じくらい高い山が朝日に陰っている。さすがは登山の聖地日本アルプスを有する長野だ。ここに住みたいとさえ思った。
ICで降り、そこからは長く見通しの良い高原道路を走る。針葉樹林の生えるこの道はなんだか観光地の中を行くようで眠気もどこかへ飛んでいく。
「……起きた」
吉岡がおはようではなく自分の現状を説明した。
「ん。すごい。ここどこ」
「もうすぐで着いちゃうぜ。まったく。会長も起こしといてくれ」
「ん。かいちょ。起きて」
拙い言葉の並びからして吉岡も起ききっていない様子だ。
「んん……ついた!?うっわぁ……すっごいねぇ!来るとこまで来たって感じ!」
そんな吉岡とは反対に会長の寝起きが良すぎる件。デキる女の寝起きは良いとかそんなタイトルのうさんくさい健康本を出せば良いと思う。
ICを出てすぐにあるコンビニを見逃すとそこから先は店らしき店はないので注意したい。事前に用意しておくかコンビニ併設のPAやSAで必要なものを揃える必要がある。
間も無くして右折するとそこが八ヶ岳の入り口である美濃戸口だ。朝五時に到着したものの車は割とギッシリと停まっている。
「一応美濃戸まで車で行けるけど……この車じゃ無理だな」
この車じゃとはなんだ。これでも免許を取った時から数年一緒に各地を回った相棒だぞ。とは言えるはずもなく、黙って美濃戸口にて駐車する。
駐車場を管理する美濃戸山荘にて料金を払うと、裏面が駐車許可証になっている八ヶ岳ステッカーが貰える。いらなければコーヒーと交換できるらしい。いずれにせよ嬉しい許可証だ。
八ヶ岳山荘前で登山計画書を提出する。届け出を入れるポストはさすが八ヶ岳、計画書で溢れかえり紙がはみ出ている。今までの低山にはなかった光景だ。
準備を整えて進むはもう一つの駐車場、美濃戸までの林道。地元で感じる蒸し暑さもなく、朝日が昇り始めた林道へ足を進めて行く。
お盆前半どうでした?結構いい登山日和だったんじゃないですか?
読者様が1800人超えました。1800人が山を(ry




