第二十九話「赤岳・晴天その2」
飛び出したあたしに行く当てなんてものはなかった。上着すら忘れたあたしの肩や背中に冷たい風が吹き付ける。市の外れの土手っぷち。灯りすらなく虫の声と遠くを走る車の音が微かに聞こえる暗闇を歩き続けていた。
そんな時、ポケットの中に突っ込んだ携帯が震えた。
画面に表示された名前に安堵して通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「お、出た出た。生きてるか明日香?」
相変わらずの間の抜けた声をあたしは多分待っていたのかもしれない。鼻にかかったようなそれはあたしが世界で一番好きな声だ。
「どうせあいつの差し金でしょ?」
「ん、まぁそうだな。違うと言ったら嘘になる。……今どこにいる?」
「……どこだろうね。分かんないや」
「分かんねぇか……困ったな。せめて分かるとこまで出てこれねぇかな?迎えに行ってやるからさ」
「あの家には戻らないよ」
「分かってるさ。意地っ張りだもんなぁ明日香は。全く、誰に似たんだか。どこか分かったら連絡しろよ。俺はもう車に乗ってエンジンかけちまったからな」
「車降りて早く寝なよ」
「そういうわけにもいかねぇんだな。意地っ張り勝負ならお前に負ける気はしねぇよ」
「……分かった。今回は負けてあげる。そろそろ狭い道抜けて県道だからその時に連絡する」
通話を終了してポケットに携帯をしまい、冷たい風に震えながら県道まで出てくると、最寄りのコンビニでコーヒーと菓子パンを買ってそれらを口に入れながら彼の到着を待った。
しばらくして見知った四駆があたしの前に停まる。
運転席から降りたボサボサ頭の無精髭は安堵したような表情で「お迎えにあがりましたお姫様」と笑った。
「散らかってるけど好きなとこ座ったり寝てたりしててくれよ」
彼の言葉通り、部屋はお世辞にも綺麗とは言えなかった。ゴミがそこら中に落ちてるわけじゃないけど、物が多すぎる。よくもこのマンションの一室にここまで運んできたものだ。
本棚から溢れて床までスペースをとった雑誌、テーブルの上に作りかけのプラモデル、壁際には大きなリュックサックが四つ並んで、その周りには用途不明の道具が置いてある。
「腹減ってねぇか?ってさっきなんか食ってたか。そういうや一昨日買ってきたドーナツ残ってた気がするけどいる?」
「そんな怪しいものいらない」
「三日ぐらいなら全然イケるだろ」
彼は五個入りのドーナツを一口食べた。「やっぱイケるわ」
桐生拓也。あたしの父親の弟、つまりは叔父だ。父とは十個ほど歳が離れている上に、見かけは二十代後半でも伝わりそうなほど若い。
あたしを生んですぐに家を出た母の代わりが彼だった。今まで勤めていた職を変えて夜勤のバイトをしながら日中はあたしの遊び相手になってくれていたから、父よりも一緒にいた時間が長い。
だからあたしは「拓ちゃん」とまるで友達のように慕っていた。
若い頃は暴走族だったと話す彼にその面影はなく、どちらかというと子供から成長しないままに遊び呆けてるというイメージがなんとなくあった。たぶん色々なところに連れて行ってもらったから楽しいことは何でも知っているとあたしが思ってる所為だ。
ある程度大人になった私にはわかる。本当に遊び呆けてる人は自分のためにしか動けない。定職を捨てて、自分の人生をかけて姪っ子の面倒を見るということはそれなりに立派な大人だってことだ。
一番は自分の子供を持って子供のために生きるのが素晴らしいとは思うけど、拓ちゃんには女の影というものがない。だから本人も「兄貴には敵わねぇよ」が口癖なのだ。モテないのではなく、好かれてる自覚がない気がする。あたしが姪っ子じゃなくて、なおかつもう少し歳が近かったのならたぶん付き合っても良いと思える人だ。
それからあたしは何も言うことがないまま、拓ちゃんからは何も聞かれることがないまま、一月、一月と時間だけが過ぎていった。
あたしの家や父について拓ちゃんが言及することはなかった。思えば十年くらい前はこうして二人でいるのが当たり前の話で疑問に思うことはなかったのかもしれない。少なくとも、あたしにはそうだった。
生活費を入れるためにコンビニでアルバイトも始めた。嫌なことばかりだったけど、拓ちゃんはあたしの愚痴もよく聞いてくれたから続けることができた。
季節は少しだけ巡って八月。あたしを取り巻く環境やあたし自身に大きな変化はなかった。学校に通っていたら変わっていただろうか。たぶんそんなことはないと思う。
適当に敷かれた彼の匂いがする布団に包まれて泥のように眠ったあたしが目を覚ましたのは午前九時。
拓ちゃんは夜勤から帰って来たはずなのに目が活き活きとしている。
「おはよう明日香、飯食ったら買い物行くぞ」
「……いいけど寝なくていいの?」
「いいのいいの。どうせ夕方までには帰ってくるんだからさ」
おそらくは気合を入れて作ったであろう朝食を摂る。トーストにサラダ、目玉焼きとソーセージ。ご丁寧にスープまで用意してある。少なくともあたしが幼い頃はコンビニで買ってきた菓子パンだった。
「美味いか?いや言わなくていい。美味くて当然だからな」
「……スープがしょっぱいけど」
「お前まだ拗ねてんのか……?」
「塩加減間違えたのをあたしのせいにするな」
午前十一時半、助手席で鼻歌を聴きながら彼が向かったのは国道沿いのスポーツ用品店。
一体何を買う気なのか分からないままのあたしに彼はこう言った。
「山登るぞ明日香」
「山……?なんで?」
「暇だろ?」
「いや、あたしだってこれからのこと考えなきゃだし。家に帰りたくはないけど、いつまでも拓ちゃん家に居候してるわけにもいかないじゃん」
「山登ってからでいいじゃねぇかそんなん。今のお前に必要なのは山だ。山しかねぇ」
理屈も根拠もないけど自信だけはあるようだった。でもあたしは何も言わずに彼の後を追った。行く先がどこであれ、彼の後をついていけば楽しいことが待っている。いつだってそうだった。
「重い。歩きづらい」
初めて登山靴を履いて出た感想がこれだった。
「しょうがないだろ明日香。お前の可愛い足を岩から守るためには必要なもんなんだ」
「拓ちゃん今の変態っぽい」
「変態じゃねぇよ。お前の足が今の半分以下の時からずっと見てやってんだ。可愛くないわけないだろ。とりあえずその坂歩いてみろ」
言われた通り歩いてみる。ゴツゴツとした靴がゴツゴツとした場所を登り下っていく。なんとなく平地を歩くよりは歩きやすいのかもしれないけど、短すぎる距離に実感など湧くはずもなかった。
「ついでにスニーカーでそこ歩いてみろよ。全然違うと思うぜ」
面倒だとは思ったけど、履き替えて再びゴツゴツした斜面を歩き下る。
「……なんか足先痛い」
「だろ?これがずっと続くんだぜ?明日香のか弱い足じゃすぐボロボロになっちゃうぜ」
「か弱いかどうか試してみてもいいんだよ」
「逞しい足って言われるよりかマシだろ」
言われてみれば確かにそうだ。そんな調子で店内を巡って色んなものを買った。その時はまだ山に登るってことが他人事のように思えた。
遠くで、近くで、いずれにしろ眺めることしかなかった山を歩くということにあまり想像が及ばなかったのかもしれない。
そもそもなんで山になんか登らせたいのかもあたしには理解できず、とりあえずはその背中を追ってみようという軽い気持ちだった。
1700人の読者であり登山愛好家の皆様こんにちは。そしてありがとうございます。ただの山行録にここまで読者が付いてくれたらうれしいもんです。山の日ですね。……みんな山に出かけたかな?
赤岳まだ始まりません。ごめんなさいね。




