第二十二話「棒ノ嶺・晴天その3」
岩茸石からなだらかな勾配を行く。気持ちの良い青空のもと、左手に奥多摩の山塊を望みながら頂上へと赴く。これこそが求めていた登山だ。
この辺りから、白谷沢では見なかった木道や階段が姿を現わす。荒々しい自然の中を登った後は、穏やかなハイキングコース。この緩急が素晴らしい。
「いやもう……最高に気持ちいいね」
言葉に開放感を溜め込んで吉岡が体を伸ばした。
「でしょう。やっぱり高尾山みたいな山もいいけど、こういう山も良いのよ。どんな低山でも何かしらの見所はある!まるで人間のよう!」
「みんな違ってみんな良い!!」
「「わはははは!!」」
……変なキノコでも食べたかな……?
そんな和気藹々とした空気を破ったのは目の前に現れた階段のようなものだ。
「わははは!なにこれ!!すごい!!なにこれ!!……なにこれぇ」
見たままに崩壊した階段。しかし足で踏みつけてもビクともしないところを見るにこれでしっかり固定されているのだろう。
「ここ登るんですか……」
「まぁ、階段の上を歩くのが一番なんだろうがここはスルーしていいだろ」
桐生の言う通りに役割を放棄した階段の隙間を縫うように着地点を探す。そこを抜ければ話は早いものだ。
階段、階段、階段……。丹沢とまではいかないが自然とあの天国への階段を思い出していた。
「はぁっ、はぁっ、ぐうっ、はぁっ」
あれほど調子の良かった吉岡がなにも喋らなくなった。客観的に見る疲労度が分かりやすい。
「無理すんなよ。頂上まではそんなかからねぇから」
桐生の吉岡に対する優しさは俺に向けられた試しがない。もっと辛そうに登ってみるべきか。……ダメだ。たぶん置いていかれるだけだ。
「ありがと桐生さん。なんか、こんなこというのもなんだけど、桐生さん優しいんだね」
「……喧嘩売ってんのか?」
「照れ隠し下手だねぇ」
階段となだらかな坂を登り、木の根っこが辺り一面に広がる道を行く。木漏れ日もだんだんと明るくなって頂上が近づいているのがわかった。
そんな頂上は余りにも唐突に訪れる。急に現れた背の低い木や草で狭くなった、まるでト○ロのいる森への通路みたいな道を半ば中腰で通り抜けた先、あまりの開放感に誰もが声を上げた。
「うわお!頂上だ!すごい!」
快晴の空の下、明るい土の色に思わず目を閉じたくなる。まばゆい。
「うっわぁぁ……」
吉岡と桐生が頂上からの展望を望む姿を後ろから見る。小柄な女の子と大展望は相性がいいなとニッチな嗜好を巡らせる。思わず写真を撮ると許可を取れと桐生に怒られた。
大きな木の下にある山頂標。あずまやもベンチやテーブルもいくつか用意されている。比較的過ごしやすい頂上だ。
「あれ、武甲山なんだ」
左手奥に見える山と看板を照らし合わせる。正面から見えた採掘場側が見えないのでこれがなければ分からなかっただろう。
「こういう時に登ったことある山だとちょっとアガるよねぇ」
「あぁ、分かる気がする」
生憎奥多摩側は林に遮られて見えないが、埼玉側の展望は十分だ。水晶のごとく遠くで光る街並み、手前の低山の新緑が青空の下に映える。標高は千メートル以下と、決して高いわけではないが、少なくともスカイツリー以上の高さだと思うとなんとなく高さを実感する。
展望も堪能したところでベンチについて湯を沸かす。
「落ち着かないね……」
ガスバーナーのゴォォという小さな轟音の上で鳴り響く重低音の小さな羽音。
「まぁ、気にはなるよな」
上空をホバリングするクマバチ三匹。スズメバチよりは大人しい種類で滅多に人を刺さないとはいうが、明らかに他の虫と比べて大きすぎる羽音が恐ろしい。
「そのうち慣れるからほっとけ」
どっしり構える桐生は粉末スープをカップ麺に投入する。今日も今日とて辛そうだ。
「み、みんな揃ってカップ麺ですか」
吉岡はそう言うとザックからお弁当箱を取り出す。そういえば高尾山には昼飯どころが多かったのでわざわざ用意しなくていいとは言ったが、まさかしっかり弁当を用意する派だったとは。
「自分で作ったの?」
「まぁ一応。ほとんどレンチンだけど」
「それすらめんどい」
「右に同意」
でもそろそろ山ごはんを真剣に考えてみるべきかもしれない。山ごはんは一つの重要なポイントだ。たぶん。
厳選した材料を使い、調理法を工夫し、そこそこ美味しいものを食べる。果たしてそんなハードルの高いことを俺みたいなものができるだろうか。そこが疑問である。
特に言うこともないまま食事が進む。カップ麺組には食卓に華がない。吉岡の弁当には花形カットの人参の煮物がある。
「……次あたりさ、ちゃんと山ごはん作らない?」
たまらず提案する。「高山がやんの?」当然の答えが返ってくる。
「まぁ、やってやれないことはないからさ」言っていいのかそんなこと。
「じゃあ楽しみにしとこ」
「お前らもやるんだよ」とは胸の内だけでの発言だ。ただ俺がやることによって、結果はどうあれその次の回からは加わってくれるはずだ。カップ麺も美味しいがやっぱり作った方が美味しい。作ったことはないけど。
料理を作るというのも登山の醍醐味である。作ったことはないけど。
後続の登山客が登頂するのを見計らい、下山を開始する。時刻は十時前。十二時前ごろには温泉まで辿り着けるだろう。
岩茸石までは往路。この辺りで登山客とやたらすれ違う。早出早着が基本とはいえ、俺たちは通常より少し早いのかもしれない。ただ時期的に日中はかなり暑いのでやはり午前中に着き午前中から下山開始で間違いはないはずだ。
岩茸石からは展望の変わらない道が続く。鷹ノ巣山や鍋割山の既視感を覚える気がするのは俺だけではないはずだ。だいたい下山ルートは中途半端になだらかな道が続く。思い返せば写真を撮るようなことも登りに比べて少ない。
「「「「……」」」」
よって語ることもない。
無我の境地に達しそうな勢いである。どんどん下っていくだけの樹林帯。白谷沢の楽しみは何処へやら。
登山は楽しくとも下山は楽しいかと言われればそうでないような、ここで下山の楽しみを完膚なきまでに否定すると「じゃあなんで山に登るのか」と問われた時になにも言えなくなってしまう。ジレンマというやつだろうか。本当は楽しくないと言いたい。ただ二十パーセント、もしくは十パーセント、あるいは五パーセントくらいはポジティブな気持ちがあると信じたい。
隣を歩く桐生はなにを思うのか。彼女は表情だけで言えば終始つまらなそうなのだが、本当につまらなかったのなら二度と行くことはないのだろう。
途中、トレランなのかファストハイクなのかいまいちよくわからないスピードで中年のふくよかな男性が俺たちを追い越す。ザックはそれなりのものを使用していたので普通の登山でもあると思うのだが……よくわからないです。
登山口まで降りてくると、そこが有間ダムの入り口であり、温泉の最寄りバス停であることが判明する。
温泉の駐車場は広く、温泉から離れた第三駐車場については早朝登山の利用者が使えるように開店前から解放しているとのこと。登山客ありきの温泉ということか。
「着いたねぇ」
「着いたねぇ……」
縁側にすわる老夫婦のような会話をしながら会長と吉岡が小綺麗な温泉施設を眺める。
ここには温泉にはありがちな食堂というものがなく、食事持参も可能で、売店にはお弁当が用意されている。
「んじゃ、また後で」
天井の高い開放感あふれる建物の中で、女湯に入っていく三人の背中を目で追うようなこともなく、男湯へと向かう。急に一人になったが、なんとなく異性ばかりという同行者には気が張るものだ。
「ぐふぇ」
訳の分からぬ声とともに肩まで浸かる温泉。なんという気持ち良さか。痛め続けた筋肉が解けていくようだ。
「溶けるなぁ」
ぼんやり呟く。返答は何もない。垂れ流れ続けるお湯の音が鼓膜を揺らすのみ。
これでいいのだ。これがいいのだ。ただ向こうは向こうで友人たちと温泉という楽しさを味わっているに違いない。そう思うとなんとなく虚しくなる。
だってさ、考えてもみてよ。日常系のアニメだって野郎一人の温泉シーンなんかないでしょう?みんな濃すぎる湯けむりや謎の光帯の向こうの美少女が観たい訳でしょう?
しかしこれはあくまで現実である。客観的に観れるのなら、たとえ知り合いだとはいえ……いやこれ以上このことについて語るのはやめよう。なんというか、己の欲望が生々しすぎる。一度露天風呂へと赴いて頭と体を冷やすことにした。
「やっぱ痩せてる!!」
体重計に現れた数字、以前計った時よりも数キロ落ちている。やはり山は痩せるのだろう。
「それ水分減ってるだけだから、家に帰って飲み食いしたらある程度戻るぞ」
桐生さんは私の小さな歓喜の声に水を指すような真似をして、長い髪を解いた。
「でもたぶん痩せてると思うよ?摂取カロリーが消費カロリー上回ることって登山だと難しいからさ。でも別に美優ちゃん太ってないじゃん」
「女の子はたとえ些細なことでも気になるもんは気になるんだよ!そりゃ会長はさ……」
すぐさま会長から目を逸らす。私は、私が見てはいけないもの見てしまった。な、なんちゅう体しとんじゃあ……。
「ん?私だって脂肪くらいちょっとあるよ」
そう言ってお腹の皮だかなんだかをむにっと引っ張る。しかしそこじゃない。あんたの脂肪のたまりどころはそこじゃない。その上だ。なにそれ?小玉スイカ?私のは……なんだこれ。なんだろう。少なくとも果物では例えられない。
「き、桐生さん……!あれたぶん嫌味だよ!!」
「なんであたしのとこ来んだよ」
「だって……!」
「…………胸を凝視すんな……って、そういうことかお前。一緒にすんじゃねぇ、おまえより若干あたしのが」
「桐生さん、どんぐりの背くらべって知ってる?」
「お前に言えたことか」
露天風呂からは下を流れる川が望める。すぐ脇には楓の葉が揺れ、これが色づくと更に綺麗なのだろう。
「秋頃また来るんだろうなぁ」
ぼんやりと過ごす野郎一人の時間。寂しくはない。勘違いされがちだが孤独と寂しさはセットではない。
むしろ孤独であることは贅沢だと思うべきだ。思えばここ数年、そんなメンタルでやってきた。人生観としては間違っちゃいないはずだ。
「……そろそろあがるか」
女子のお風呂ってのは長くなりがちだろう。その間にマッサージチェアでさらに疲れを癒そうじゃないか。
「桐生さん、待って!私たちの敵は会長だよ!見てよあれ!なにあれ!巨大な!」
「別にどうだっていいだろ。体型のことでいちいち気にしすぎなんだよ」
「んなこと言ってさっきムキになりかけてたじゃん!」
「あぁ?」
「胸談義はいい加減にして……そろそろお風呂はいったらぁ?」
「出た!出ました!強者の余裕!桐生さん!いっちょ揉んでやってよ!」
「いいぜ。桐生、好きなだけ揉みな」
「馬鹿言ってんじゃねぇ」
「んぁ……」
あ、そこです。そこ。むくんでるんです。あぁ、いいです。すげぇ。
最近、家電屋に行くと思わずマッサージチェアに座ってしまうおじさん化が深刻だ。買いたいとは思うのだが生活必需品でもないものに数十万を注ぎ込む余裕がない。これを買えるお宅はきっと広々としているのだろう。買いもしないマッサージチェアに座ることにもはや申し訳ないと思うこともなくなってしまった。
マッサージチェアの正面は広々とした窓で、新緑を余すことなく広げている。展望というわけではないが、これはこれでいい。
十分はすぐに終わってしまうし、桐生たちはやはり帰ってこない。仕方なく別のマッサージチェアに座り疲れを癒す。
「おぅふ……」
あぁ、そこです。できればもっと力強く。はい。そんな感じです。
「あぁ……いいね……疲れ取れるね」
「これ風呂上がり眠くなっちゃうよねぇ」
「その辺高山が運転だから楽だな」
「そだね。公共交通機関だとあんまし寝れないしね。その辺はありがたいわ」
高山の存在意義が確立されている。彼にとってはたぶんこれ以上ない喜びだろう。そういうことにしておこう。
お風呂から上がると高山がマッサージチェアに座っていたので私たちもそれに続いた。いやほんと寝れるこれ。思わず垂れかけた唾液を飲み込んで、さらに体をほぐす。
埼玉の観光地でもなかなか名前の上がらない飯能の一角でここまでゆっくり過ごせるなんて思いもしなかった。ど田舎とか何もないとかダサイタマとか言う輩は探そうとしないだけなのだ。半日くらいなら全然遊べる。一泊二日以上は保証できない。
駐車場は登山口の近くなので、温泉からはそこそこの距離を歩く。それでも有間ダムに吹き下す風は心地よく、景観も良いのでみんなで良いところだねと言いながら歩いた。秋も深まった頃にまた来ようと高山が言ったのでまたここに来るのだろう。不思議な話だけど、もうすでにこの場所に来たいとさえ思った。
おまたせ。もうね。雨続き。もうね。山のことどうでも良くなるよ。どうせ次の休みも雨でしょ!?知ってる!!知ってます!!
この間にボルダリングやらランニングやら筋トレやらやってました。何目指してるんですかね。知りません。八月からトレラン大会の受付が開始するみたいなのでそれ目指します。小説家になろう。とは?
参考ルート
白谷沢登山口〜岩茸石〜棒ノ嶺山頂〜岩茸石〜さわらびの湯




