第二十一話「棒ノ嶺・晴天その2」
白谷沢。それがこの道の名前だ。GPSアプリに書いてある。地形が名前の通りならば俺たちは今、谷を歩いていることになる。巨岩、沢、新緑の三拍子に目を奪われていたので忘れがちだったが、いわゆる展望は皆無だ。登っている気はさほどない。
ガシガシと沢を登って行くと、正面の巨岩から垂れる銀色が見えた。
「手すりがあるね。鎖っぽいけど」
吉岡が顎を引く。確かにいきなり現れた鎖の意味を考えると少し引けるような気がする。
「そういや高山も鎖場は初めてだったか」
「鎖場?」
「こういう岩盤とかは自力で登るにはちとキツイから鎖が用意されてることが多いんだ。ここは別に使わなくてもいいような気がするけどね」
「高山は使うなよ」
いや、使わせろよ。用意されているなら使うに決まってんだろ。
正面までやってくると鎖の意味が分かる。自然にできた大きな石段。しかし、足だけで登るには一つ一つの高さがある。大きな階段を手足でよじ登るといえば分かりやすいだろうか。
「美優ちゃん、行けそう?」
「行けなきゃ……進めない」
そりゃそうだ。強張る肩から出たその言葉はどこか深い名言のよう。
「とりあえずあたしたちから登るか」
「べつに大したことないさ」
桐生が颯爽と登って行く姿を見るに、そこまで身構える必要はなさそうだ。俺なら行ける。吉岡はどうか。
「鎖場の基本は三点支持。いいかい?こうやって両手両足のうちから一つずつ動かしてくんだ。右手で上の岩を掴む時は他の手足はしっかり岩の出っ張りや窪みに乗せておく。片足を上に上げるなら他は全部岩に乗せたまま……って感じだね」
会長らしくアドバイスを交えながら軽々と岩場を越える。さすが運動もできるガリ勉。俺が彼女に優っている部分はないのかもしれない。
「二人は鎖使わないんだね」
「直登の岩盤登りってわけじゃねぇしなおさらいらねぇよ」
「もちろん必要だと思ったら使った方がいいんだけど、あくまでも鎖は補助。両手で掴んで全体重を預けるようなことはしちゃダメだよ」
「なんで?」
「鎖が抜けた時のことを想像してみろよ」
「「あっ」」
……余計に登りづらくなったじゃないか。
「基本鎖場は垂直に近いような岩に設置されてるからこういう方が珍しいんだよ。まぁ練習だと思ってさ」
「じゃあ俺から行くからな」
「達者でな」
「お前も続くんだよ」
さて。会長から聞いた三点支持を実行する。聞くとなんだか難しい感じはするが、やってみるとある意味四つ足で登るなら当然の動きだ。意識すれば遵守は容易い。
手がかり足がかりはそこらじゅうにあるので特に考えることもなく登り切る。
「よっしゃ」
「これぐらいで満足げな顔すんな」
「美優ちゃん、ゆっくりでいいからね」
見下ろす吉岡。俺から見ても運動音痴の彼女が岩登りに挑戦する。
「ぐぬ……ぐおお……ぐぐぐ」
解き放たれた魔獣かなんかか。
ぎこちない動きだが、確実に登っていく。こちらの心情としては小動物のレースを見守るようだ。
「ここ登り切っても鎖場あるからな」
「今言わんでもええやろ」
「まだあんの!?」
登りきらないままの吉岡が硬直する。
「あとちょっとだから登り切っちゃえよ」
「お、おっけー」
気力でも持っていかれてるのだろうか。声が震えている。そこまでキツい訳ではないが、人には個人差というものがある。それは何にだって言えることだ。
山登りは結果が出るだけマシだ。人生という山は……登っても登っても終わらないから降りたことが何度あるだろう。登るペースは遅くたって構わないのだろうが、その先に頂上があるかどうかすら個人差が生じる。
低い頂で満足してるわけじゃない。ただ進みようがない。
「おうい高山、置いてくぞ」
気づけば先の鎖場も会長たちは登り終えていた。吉岡の前に二人に続く。
相変わらず、天然の険しい石段なので登るのに抵抗はない。鎖の代わりなのかは知らないが垂れ下がるロープはさすがに怖くて掴めない。木の幹に巻きついているだけだ。ここは自分の身体を信じよう。
岩を乗り越えると、その先はガレ場だ。巨岩も少なくなって急に視界が開ける。
「岩場はこの辺りまでだね。美優ちゃんまだまだ行ける?」
「うん。高尾山でだいぶ鍛えられた」
「ここはステップアップにはちょうどいい山だからね。景観もいいし、本当にいい山だよ」
高尾山からのステップアップか……。俺だけ結構酷いステップアップの仕方してません?
登山道は一度林道を挟む。突然現れる車道はなんだか馴染めない。
林道を越えると……。
「待って、これ、登るの?」
「んーまぁ、勾配若干キツいよね」
これまでの道が嘘のように勾配のキツい坂が立ちはだかる。ここはストックの出番だろう。
ストックがあるのとないのとでは足の疲労が雲泥の差だ。支えがある分体重が分散されやすい。特に山道では登るにしろ下るにしろ、体は前傾になって姿勢も悪くなり、姿勢が悪ければ体重のかかり方も悪くなり、体重のかかり方が悪ければ下半身に疲労が蓄積して行く。分かりやすい悪循環である。
途中で小休止をしながら上を目指す。すでに楽しい岩山気分もとっくの昔に忘れ去って今はよくある樹林帯の登山道を行く。
「でぇい」
謎の掛け声とともに急登を登りきった吉岡。その目には俺たちが見るものと同じ光景が広がっている。
「や、やった、平坦な道だ」
落ち葉が未だに積もる勾配の無い道。鷹ノ巣山の時とは違い、十分に休める程度には伸びている。何故あの山にこれが無かったのだ。
「今のうちに行動食食べとこっと」
そう言って吉岡が取り出したものは一瞬歯磨き粉のようにも見えて驚きかけたが……いや、ちょっと待て。
「お前、何飲んでんだ……?」
俺よりも先に桐生が問う。
「何って、高カロリーと携帯性に優れた究極の行動食、練乳ですよ……!」
この女、チューブ状の練乳をそのまま飲んでやがる。
「甘すぎない?」
「まぁ、正直。口の中で唾液と合わさってようやく飲み込めるね」
「素直にゼリー飲料でいいだろ」
見てるだけで喉が焼けそうな吉岡のもぐもぐタイムが終わる頃、尾根道に巨大な岩が見えた。さっきは巨岩が溢れるような登山道であったが、ここは樹林帯の真っ只中。堂々と道の真ん中に屹立する岩を写真に収める。
「岩茸石だね。もちろん道標の通り向かって左に進むのが山頂への道だけど、帰りはこの岩の向こうへ進んで温泉の方に出るから」
「進めるのか……?」
岩の向こうを覗き込むと確かにこの先に続く道があった。ただ道というよりは完全に隙間でしかない。人一人通ろうと思えば通れる。そんな道だ。
「おはようございます」
「おはようございます」
棒ノ嶺は以前の山行とは違い、登山客も多い。それだけ人気の山ということだろう。
「おはようございます」
それにしても桐生が挨拶をするときは背筋に悪寒が走る。元気よくはっきりとお手本のような気持ちの良い挨拶。普段聞くような周りを威圧するような声はどこに行ったのか。学生時代は挨拶の代わりに睨みつけていたというのに。
「会長、桐生って山にいる間はずっとあんな感じだった?」
声を潜めながら会長に聞く。
「うん。私も最初びっくりしたけど、でももう慣れたよ。高山も慣れたでしょ?」
「まだ慣れねぇよ」
高尾山での再会を思い出す。山頂標でピースをした桐生のことを。不覚にもとても可愛らしい女性だと思ってしまった。他の登山客にもそう見られているのだろう。不憫なのかそうではないのか。おそらく後者だ。知らぬが仏。羨ましいとさえ思う。
山頂までは半分を切っている。初夏の訪れを告げるような涼風とともに山頂へと続く道を登り続けた。
練乳をそのまま飲む。同行者である弟は必ず持っていく。その味は想像し難い。
梅雨ですね。休みでも登れない日々が続いてます。明けろー!梅雨明けろー!




