第二十話「棒ノ嶺・晴天その1」
どこでどう道を間違えたのか。誰しも時折そんなことを考える。俺の場合それが頻繁に起こる。トークアプリの友だちの欄は会社の人間がやたら多く、数少ない友人も名前がそこにあるだけで数年間会話をしていない。
高校を卒業する頃、もっと派手な二十代を想像していた。金曜日の夜には友人とたまに呑んで、週末はわいわいどこかへ出掛ける。そんな二十代が来ると信じて疑わなかった。
待っていた現実はあまりに無機質なものだった。
早朝から晩まで眠気を我慢しながら、朦朧とした意識で過ごす職場。立場も業務も年収もまるで誇りを持つことができない。資格を得るために借りた奨学金うん百万の価値はここにはない。専門学校の二年間は他人の記憶のごとしだ。
そんな日々の疑問を忘れるために過ごす休日は味気ない。家と職場の往復。得られるものは特にない。
二十代半ば。才能ある人間はとっくに表舞台に立って成功している年齢だ。スポーツ選手、漫画家、アーティスト。それらのファンをのうのうとやっている同世代がいるのが信じられない。妬ましくないのか。それとも妬む必要がないくらいに満たされた生活を送っているのだろうか。
分かってるんだ。選んでこなかったんだ。待ってただけなんだ。積み重ねてこなかったんだ。当たり前に降りかかる自業自得を受けているだけなのだ。
喜びも悲しみも悔しさも優越感や劣等感すらない日々を変えるには自ら動くほかない。この一歩は多分人生を有意義にするものではない。足掻くだけ、もがくだけ。それでもその間に何か掴めるものがあるなら、仮に意味がないとしても足掻くだけマシだ。いい加減分かってきた。
どうせ成功なんて望んでない。人並み以下の生活の中で足掻くだけ足掻いてみよう。
思えばそれが登山を始めたきっかけだった。
夕方の県道、買ったばかりのランニングシューズがアスファルトを打ち鳴らす。山に登る体力づくりのため週に二、三回のランニングを始めた。走るのは苦手だが、山のためともなればやる気も湧いてきた。
隣町へと続く橋の上からは霞がかる奥秩父の山々とさらに霞んでアルプスが見えている。真夏になったら、あの雄大な山の中に行くのだ。どんな景色が待っているのだろう。それを思えば走るのも少し楽になる。
明日行く予定の棒ノ嶺へはここ数回の登山の中で一番近い山だ。この橋の上からも見えていたりするのだろうか。それこそ景観は期待してはいないが、運転が楽なのはいいことだ。
「しかし人生何があるか分からないねぇ」
あれほど満たされなかった交友関係が山に登っただけで、充実してしまった。……未だに山に登る以外で彼 女らと会った事はないが。
会長や桐生は普段何をしているのだろう。別に知ったってどうしようもないことだが、何か答えが欲しいのだ。将来への不安をどうか打ち消して欲しい。みんなと同じように出来るだけ不自由なく生きることさえ難しい世の中なのだから。
「……早く山に逃げたい」
もはや自分にとって山は逃避先だ。そこにいれば満たされるし、忘れられる。この地球の中で人間という生物がどれだけちっぽけな存在かを思い知れば、職場の嫌な人間も、面倒な社会の決まりもどうだってよくなる。
約五キロのランニングを終えて、明日の準備をした後、すっかり健康的な眠気が襲ってきたのでまぶたを閉じることにした。
埼玉県は飯能市にある有馬ダムが棒ノ嶺の登山口になる。ここ最近は快晴続きだ。梅雨入りすればこの青空ともしばらくおさらばなのかもしれない。登山ができない休日の過ごし方も考えておく必要がある。
有間ダムの周回コースには駐車場がいくつか点在しており、先にダム中央付近の駐車場にあるトイレで用を済ませ、それから出来るだけ登山口に近いダム奥へ車を進めていく。朝七時という早朝にもかかわらず、バイクやオープンカーなどが駐車場に車を止めて、静かな湖畔の風を浴びにきているようだ。
「割と地元から離れてないのにいい景色だね」
登山口最寄りの駐車場に車を止めてザックを下ろしながら吉岡が空を仰ぐ。
確かにいい景色だ。ダムの規模もそこそこ大きく、囲うようにそびえる低山も、まるで山奥まで来たかのような景観だ。観光には少し物足りないが、何かのついでに寄るくらいなら充分だろう。あの妖精のテーマパークも出来たのだから、それのついでがちょうどいいだろう。
橋を渡って登山口へ。横を流れる清流とともに山の中へ入っていく。
「あぁ、美優ちゃん。まだストックいらないかも」
ザックからさっそくストックを取り出した吉岡は会長の声に固まっていた。
「えっ、いらないの?なんで?」
「この辺りは岩とか渡渉地帯が多いからストックはたぶん邪魔になっちゃうと思うんだよねぇ。それが終わったらバリバリ使える道なんだけど。今はいいと思う」
「なるほど」
俺はというと桐生や会長に倣うので、出す気も湧かなかった。本当のところは出したい。さっそくガツガツと上へ上へと登っているのだ。とりあえずは高尾山の比ではない。
ガレ場とまでは言わないが大きめの石が転がる登山道が続く。こういう道は必然足も止まりやすい。前回ほど勾配がキツくないのが助かってはいる。
「どう?美優ちゃん。この前とはまた違う山でしょ」
「なんか山っ!て感じがしてるから独りじゃ来たくないね」
そりゃ高尾山に比べたら人の手も少ないだろう。俺は前回の経験もあって、だいぶ楽に感じている。道が分かりやすいというだけで心持ちが違う。
「この川の音がいいね。今、すごいマイナスイオンを感じてる」
両手を広げて吉岡がマイナスイオンを浴びる。……浴びれましたか……?
「この棒ノ嶺は隣を流れてる沢を抜きには語れないよ。渡渉地帯も多いからこれからマイナスイオンの波が来るよ」
「なるほど、マイナスイオンの波」
マイナスイオンの波ってなんだよ。前を行く秀才の秀才らしくない会話を聞きながら隣を歩く桐生に声をかける。
「いいとこだな」
「だろ?」
会話終了。話の広げようもない。
登山道が途切れて沢の流れるガレ場が登場する。最近こういう綺麗な水を見すぎて、地元の川がより一層汚く見えるのだ。
「すごい。こんなとこ通るんだ」
都合よく小川に配置された大きい石を踏みつけながら先へと進む。沢の音、鳥の鳴き声、風に揺れる木々のざわめき。それほど疲労もなく、大自然を満喫する。
沢を進んでいくと、道が荒々しくなっていく。視界に入る巨岩の数々。多くが苔むして趣深い。
正直飯能は奥秩父山塊の入り口というような感じがあって、実際地図上でもそうなのだがこれほどの自然を目にするとは思わなかった。期待の斜め上の景観に思わず顔もほころぶ。
渡渉、少し登って渡渉。道こそないが九十九折に沢を登っていくと行き止まってしまった。
正面は巨岩。左右は道のようなものはあれど、道だと信じて進むには少し心許ない。
立ち尽くした俺と吉岡を見て会長がニヤける。
「さて、道はどっちでしょうか」
「全然分からん」
「この奥だぞ」
「「えっ」」
ハモる俺と吉岡。俺たちの反応はさぞ会長達には気持ちの良いことだろう。
進めるのか……?試しに奥へ進むと確かに巨岩の間に道があって、岩にはペンキで矢印が上向きに施されている。言うまでもなく、進めということだろう。
「なんか登山っていうか冒険って感じ」
まったくもってその通りだ。歩くというよりは、こういう自然のアトラクションをこなしていくような感じを覚える。清流が隣を流れ続ける道。落差三十センチほどのミニマム滝を写真と気持ちに留める。
好奇心と癒しに溢れる棒ノ嶺はまだ始まったばかりだ。
ヤマノススメの聖地その3。アクセスしやすい。涼しい。楽しい。温泉完備。頂上からの眺め良し。行動時間もそれなりに長い。こんな良い山が埼玉にはあんねんで!ビバ!埼玉!




