第十九話「鷹ノ巣山・晴天その4」
それから私と桐生さんの奇妙な関係は続いた。放課後に駅で待ち合わせて学校の人となるべく合わないような二駅三駅先の駅へ。ご飯を食べたり、お茶を飲んだりと割と女子高生らしい休日や放課後を過ごす。
そんな時間を送るたびに、私は私が思うより、ずっと彼女が女の子らしい性格なのだと思った。もちろん言動は男勝りなところが多いけど、美味しいものを食べた時の表情だとか、雑貨屋に入って小さなぬいぐるみのキーホルダーを吟味している時の彼女の姿は、あの時内藤先生を殴ったような鬼気迫る彼女にどうしても重ねることができなかった。
「桐生はさ、好きな人とかいるの?」
六月になる頃には私は桐生さんをさん付けで呼ばなくなった。彼女にそうするように言われたのもそうだけど、そう呼べば彼女との距離が少しでも近づいたような気になったからだ。
「いねぇよ。んなもん」
「そりゃ良かった。私嫉妬しちゃうよ。桐生に惚れられた女の子にさ」
「……あ?なんであたしが女に惚れんだよ」
「男に惚れるとは思わないから」
あくまでイメージの話だ。
「……まぁ、そうかもしんねぇけどよ。そっちの気もねぇよ。たぶん、いつかは誰かと結婚すんだろ」
「桐生に合う人なんていないよ。とりあえずその辺の男じゃダメだね。あれ、ジェイソン・ステイサムとかジュード・ロウだとかその辺が丁度いい」
「……何言ってんだお前」
日曜日の午後三時過ぎ。これからバイトへと向かう桐生に別れを告げる。
明日からまた学校か。だんだんと私は自分の敷いたレールに嫌気が差していた。優等生ぶるのはもうよそう。そう思っても桐生のようにはなれない。私は私だ。しかし私の敷いたレールは思ったよりも強固に作り上げられていて、それを崩して一から作り直すなどできそうにもない。
それでも桐生との束の間の時間がそのレールの上を進む力になる。空っぽの人間だとしても、確かな芯がここにはある。埋め合わせはこれからだっていくらでもできるのだ。
「どうしたんだ向井。お前授業の長距離走で二位になるなんて。らしくないじゃないか。陸上部の次期エースだろ」
相変わらず私を目にかける内藤先生は授業中だというのに部活の話をねじ込んでくる。陸上の練習は陸上部でやればいい。ある程度手を抜いたって評価はそれほど変わらない。そのはずだ。
「はぁっ……はぁっ……別に……次期エースになるなんて、一言も言ってないですけど」
「おい、お前そんなあからさまにやる気が無い発言すると、仮に良いタイムでも評価下げるぞ。たとえ授業でもお前は全力で走れ」
「……なんで私だけそういう扱いなんですかね?」
「何……?」
「そういうのって差別って言うんじゃないですか」
明らかに内藤先生の皺が寄りつつあった。少し言い過ぎたかもしれない。
「向井……お前、伊藤先生から聞いたぞ。あの桐生とつるんでるそうじゃないか。お前みたいな優秀な生徒がああいうのとつるむとすぐに道を踏み外すぞ。いや、間違いなくお前はもう道を外しかけている。今なら間に合う。どういうつもりか知らんがあいつと関わるのをやめたほうがいい」
その言葉を聞いた時、あの時の桐生のように先生を殴り飛ばせたらと強く思った。現実の私はただ苛立ちを隠そうとしてるだけ。それでも私の中で熱い何かが弾けていた。
「……私と桐生さんが一緒にいることは関係ないじゃないですか。学校外のことで先生には関係がないはずです」
「だがなぁ、確実にあいつはお前に悪い影響を及ぼす。どうせロクでもない連中ともつるんでるんだ。俺はお前のことが心配で言ってるんだぞ」
「先生が桐生さんの何を知ってるんですか。彼女と何か話したことあるんですか。知りもしないで悪い奴だって決めつけて、人をうわべだけで判断するなんてそんなの教師がすることじゃないですよ」
苛立ちを眉間に溜め込んで、内藤先生は何も言えずにいた。私の視界の脇では続々と他の生徒がゴールラインを踏んでいく。
「人を見かけだけで判断しない方がいいですよ。桐生さんのことも……それから私のことも」
「ぐっ……」
先生の喉がなるのを背後に聞きながら私はその場から去ってクラスメイト達の下へ行く。
「委員長やっぱ速すぎだよ!」
「そうでもないよ。真衣の方が速かったんだもん」
「花持たせてくれたんでしょー!?余計なことしなくていいよ委員長!」
「別にそんなことしてないってば」
桐生に出会ったところで私は何も変わらない。私が変わることをみんなが望んではいないから。
別にそれでいい。自分が変わるために桐生と出会ったわけじゃない。桐生は桐生。私は私。その関係のままで私は私を生きていこう。
ヒルメシクイノタワから急登を登る。平坦な道はもう望んでいない。「んなもんもうねぇよ」と桐生に言い切られてしまったからだ。
展望もなにも変わらずに進むこの道はもう地獄以外の何者でもない。景色を楽しむために登るなら他の山を登ればいい。その点丹沢の方がずっとマシだ。
今度こそ、本当に、なんで山なんか登ってんだ。
「ぐうっ……」
足を上げるだけでも辛くなっているというのにこの段差。膝を打ち砕きに来ている。
「二人はっ……ここ二度目なんだろっ……」
「はぁ、はぁ、そうだよ?二度目だよ」
「なんで、また来ようと思ったんだよ。こんなとこ二回登ろうなんてっ……普通思わねぇだろ」
「へっへっへっ……登りゃあ分かんのよ高山」
いや、たぶん分かんねっす。天地が逆さになっても分かんねっす。
先を見上げる。頂上のほうが見えなくなっていることに気づく。あそこまで登れば、この急登も終わる。
「あともうちょっとだな」
「そだね。あともうちょっとだ」
「頑張れよ高山」
珍しく桐生が素直に応援してくれた。不思議に思いつつも先へと進む。
……んん?頂上どこ?
十数分前に見上げた急登の先は何も続かなそうだったじゃないか。そこまで登ってみれば、また何も変わらない樹林帯の急登。危うく力が抜けかける。
「偽ピーク。人はこれをそう呼んでるのさ」
あからさまに脱力した俺に会長が語りかける。
「に、偽ピーク……?」
「もう少しで先が見えなくなってるから頂上だと思い込んだだろう?山の形による視覚のトリックみたいなもんだね。残念ながら頂上はまだ先だよ」
「なっ……」
「いいねぇ。そういう反応だよ。経験者からすると未経験者のそういう反応が面白いのさ。正直私も辛いけど、いくらか疲れも和らぐよ。ねっ、桐生」
「ああ、面白ぇぞお前」
鷹ノ巣山。それは幾多の低山登山者を絶望の底に突き落とす悪魔の山。
少しずつ経験を積んだ登山者が東京近郊で少しばかり高い山を選ぼうとすると鷹ノ巣山に行き当たる可能性はおそらく高いはずだ。
だが登り始めから伝わるこの山の悪意にも似た稲村岩尾根がそんな登山者を苦しめる。
稲村岩尾根ルートの脅威その一、安息なき急登。脅威その二、野生生物の猛攻。その三、愚か者の見る頂上。こうやって言えばRPGのダンジョンのようだ。
体力、気力は削がれ、急登続きに足が悲鳴をあげる。ヒルメシクイノタワから先を行けば偽ピークが何度も訪れる。
気づけば帰りたいとも思えずに、ただただ無心で登り続けていた。
永遠に思えた稲村岩尾根の変わらぬ景色が少しだけ変わる。その先にはようやく、正真正銘の頂上が待っていた。地獄のように思えた二時間にようやく終わりの時が来たのだ。
急激に開けた頂上は広く、そこから見える奥多摩の山々は新緑を青空のもとに晒す。
百八十度の大展望に俺は言葉を失った。
「いやっふうー!登頂!すんごい気持ちいいねぇ!」
「やっぱ悪くねぇなここも」
ザックを下ろして贅沢にも他に登山客のいない頂上で立ち尽くす。そういえばとうとう頂上まで誰の姿も見えなかった。
ぼんやりと眺める新緑の波。隣で会長が腰を下ろした。
「どうだい?今の心境は」
「あぁ……なんていうか、すっげぇ辛かったんだけどさ。もう二度と来たくないとは思えないんだよな」
「うーん高山も懲りないタイプだねぇ」
かもしれない。稲村岩も、初心者には厳しかった尾根道も今となっては愛しさすらこみ上げてくる。そしてこの展望だ。
轟音をあげながらヘリコプターが低い位置で山脈をかき分けていくように飛んでいる。
「雲取山に物資運んでるんだね。こっからも行けるんだよ」
「物資運んでるってことは山小屋でもあんの?」
「そう。東京で一番高い山だからね。人気もあるからそのうち行こうよ」
「ああ、そりゃもちろん」
昼食を取って出発する。帰りは往路でなく、奥多摩駅で方面へと抜けていく。下山し始めてからようやく人に出会った。
「どちらからいらしたんですか」
俺たちと目が合うと早速話しかけて来た中年男性は、まるで俺たちを待っていたようにも思えるような目の輝きを見せた。
「日原の方から登って来たんです」
「誰かと会いました?」
「いえ、もう誰にも会わなくって」
彼はその言葉を聞いてどこか安堵していた。
「そうなんですか。私は奥多摩湖に方から登って来たんですけど、二人くらいしか見てないんですよね。普段だったらもう少しいるんですけどねぇ」
なるほど、やっぱり今日は人のいない日なのか。おじさんが話しかけて来た時の安堵の表情は自分たちにも通ずるところがある。
頂上へと登るおじさんを見送って奥多摩への尾根道を下山する。
それにしてもなんだこのなだらかな道は。完全にルート選択ミスだろう。いや、会長たちがそうさせたのだけど。稲村岩尾根とはうって変わって拓けた登山道と勾配の低い登山道が続く。つくづく歩きやすい。眠たくなってくるほどに。
平坦な樹林帯を抜けて、急勾配の坂を下り、樹林帯を……鍋割山から下山するときに見た光景にそっくりだ。疲れもあって無言の山行が続く。二人は女の子らしくわいわい前方で喋ってはいるが、どうしてもこの光景がにわかには信じ難い。
そして彼女らがなんで山なんか登ってるのかも不明瞭なままだ。いつか分かる日が来るのだろうか。自ら話してくれるまで待ってみよう。
途中、林業ルートに迷い込んだと思っても仕方ないような杉林を抜けてさらに下降していく。重機が見えたので実際林業ルートでもあるようだ。にしてもぬかるみが酷い。
奥多摩駅方面からバイクや車の音が聞こえ始め、ようやく登山口が近くなってくる。
そこで見かける人の生活の跡。
登山道に突如として現れた急須やヤカン、何に使われていたのかも分からないパイプの数々。
「……なんで?」
「知らん」
かといって民家があるわけでもなく、生活の一部だけが野ざらしだ。その光景に不気味さすら覚えている。
石尾根・六ツ石山登山口まで降りてくると車道が続く。少し歩けばすぐに民家で、戻ってきた気にはなるが現在地がよく分からない。
「まだ登山道終わってねぇぞ」
「いやもう終わったじゃん。この車道まっすぐ行けば奥多摩駅だろ?」
「それだとすっごい時間かかるから車道をまたぐように登山道がところどころにあるんだよ。こっから先は
道標を見逃さないことだね」
あら本当。道標とともに突然登山道が目の前に現れた。もちろん山の中ではなく、林の中を進むような道だ。木立の脇から民家が望めるくらいのなんちゃって登山道。再び車道を挟み、林の中。林の中から少し寂しい立地の稲荷神社。更に道標を追っていくと昭和の街並みのような奥多摩駅周辺に出る。ここでようやく登山終了だ。もう稲村岩尾根ルートの記憶すら薄れかけている。今回の山行は六時間近く。丹沢の時と同じくらいの時間だが丹沢の時よりも疲労が酷い。
「次はここより楽なんだよな?」
「そりゃま美優ちゃんいるし辛い思いはさせないよ」
俺だと辛い思いをさせたくなるのかこのサディストどもめ。ともかく、文句なしの快晴の中で終えた地獄のような山行でより一層自分に自信がついたのは確かだ。この山が一つの基準になればこれからの山行も楽になると、そう信じたい。
この山行録はフィクションです。山仲間なんざいるわけねぇ。独りでこの稲村岩尾根を登った。熊鈴はなかった。一方で事実はもとにしている。鹿と出会った。蛇も出た。ただただ不安だった。
孤独は時に人を豊かにするとは言うが、一定のラインを越すと恐怖へと変わっていく。醒めない悪夢。それが稲村岩尾根だった。
写真はっつけました。前の山行録も写真追加中だからもっかい読んでね。現時点で高尾・丹沢あたりは完了してます。武甲山は写真数少なくて困ってる。
次回からは棒ノ嶺。すっごい楽しいし涼しいから行ってくりゃれ。
ドラマ部分なんか百合百合してますね。別に百合が特別好きなわけじゃないんですけど、前のゾンビでも百合百合してたので潜在的に百合が好きなんだと思います。
今回のルート
東日原登山口~稲村岩分岐~ヒルメシクイノタワ~鷹ノ巣山頂上~六ツ石山分岐~石尾根・六ツ石山分岐(小説には書いてないけど駐車場近くの東日原バス停までは平日だとバスが出てないので日原街道を歩いて東日原まで帰りました。ばーっかじゃねぇの)




